天と地の差

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*  洗濯物を干し、あとは弘樹の朝ご飯を作るだけ。  いつか、朝ご飯はコンビニで済ませて。その方が家を出る時間も少しは遅くなるんじゃない? なんて言える勇気が私に生まれるだろうか? いや、言えない。私にはいつまで経っても、そんな勇気なんて生まれない。もし勇気が出たその時は、私が相当精神的にやられている時だけ。  今までそんなことになったことがないから、全て憶測でしかないけど。    癖になってしまった深く長い溜め息をつきながら、重すぎる冷蔵庫のドアを必死になって開けた。 「ない……」  昨日の夜にグクの為に作っておいた夜ご飯の姿はなく、視線をずらして水切りカゴを見れば、使用したお皿が洗って置かれていた。  どんなに遅く帰って来ても、こうやって全部食べてくれることに嬉しさを覚えるけど、複雑な感情が生まれるのも事実。  向こうで食べてきたくせに、無理をしてまで私のご飯まで食べて……色々周りを見渡しても紙などなく、美味しかった、美味しくなかったの感想もないから作り甲斐も何もない。もういっそ、黙って作らないでいれば浮気のことを勘づいているって分かってもらえるだろうか。何も言わずに作り続けているから、弘樹は私に一ミリも申し訳ないっていう気持ちが生まれないんだろうね。  私なら、理解してくれるだろうっていう気持ちでいるだろうから。  鼻にツンとした痛みが走り、じわりと浮かんでくる涙を手の甲で拭い、色んな思いを抱きながらも私は今日も弘樹の朝ご飯を作る。でもその前に、自分の朝ご飯を済ませる。さくっと飲めるゼリーを一気飲みし、そこまで手の込んだものは作る気にもなれず、作り慣れた握らないおにぎりを作った。  完成したソレをじっと見つめてから目を閉じる。 [今日も朝ご飯作ってくれてありがとう。めっちゃ美味しかった!]  以前だったら、写真付きのメッセージを欠かさず送ってくれていたけど今はそれもなくて。味の感想すらもなくて、ただただ虚しく弘樹の胃袋の中に入っていくだけ。    ゆっくりと目を開けて、心の中でソレに問いかける。  キミたちは美味しいの? それとも不味いの? 私には分からないからさ。もう何ヵ月と自分の作ったご飯を食べてなくて、ちゃんとした味付けになっているか分からないんだよね。だからさ、キミたちが教えてよ。 「……馬鹿みたい」  話し相手が、慰めてくれる相手が自分の影とこういう物だなんて。それを毎日続けているだなんて。同情なんかしたくないのに、どうしても自分に同情してしまう。そんな事をしたって、何一つと解決なんてしないというのに。自分の心が楽になるだなんてことないのに……どうしても自分を可愛がってしまう。対して価値のある人間でもないのに。  ──だから私は、浮気なんてされてしまうんだ。  能天気な人間になりたい、とつくづく思う。生きているだけで幸せだって、思えるような能天気な人間になりたい。  まぁ、そんな生き方は一生出来るわけもなく、6時半を過ぎたからさっさとこの家から出て行こうと床に置いていた鞄を持ち上げた瞬間、胃に強烈な痛みが走る。 「いっ……」  立っていることもままならないくらいの痛みに、発作とは違う辛さが私を襲う。  あの薬を飲むと代謝が悪くなったりと、どうしても太りやすくなる。普通の量のご飯を食べると太るし、運動するなんて気力も今の私にはないし、食べると胃の痛みも覚えるようになったから食べる量を極端に減らした。ゼリーとかゆで卵とか、とにかく少量でもお腹に溜まる物を食べるようになった。  そんなもんしか食べていないというのに食べる度に、水を飲む度に胃が痛くなるようになっていたが、今では胃に何かを入れてなくても痛くなるようになってしまった。  最初はストレスで胃が痛くなっていたけれど、今はストレスだけでこうなっているとは思っていない。けれど病院には行かない。だって既に〝病院〟には行っているから。  これ以上薬が増えるのも嫌だし、自分が病気だってことを再確認するのも嫌だ。その為、市販の胃薬や鎮痛剤を飲んで痛みを和らげていたけれど、今ではそれらも効かない。だから痛みが痛みが少しだけ収まるのを、ただひたすら待っているようになった。  声には出さず、心の中で『痛い痛い』と言っていると次第に痛みが和らいでいく気がして、私はひたすら心の中で『痛い』を繰り返しながら、床でのたうち回っていた。  発作でも、胃痛でも体力を無駄に使い、私は朝から既にヘトヘトで。額にじわりと浮いた脂汗を拭った際に先程よりかはだいぶ良くなった胃の様子に気づいた私は、体に鞭を打ちながら立ち上がって、仕事へ向かう為に玄関に移動する。  お洒落な靴なんて履かずに歩きやすい靴を履く。姿見で自分の格好をチェックもしないで玄関のドアを開けた。  ただ、そのまま家を出るのではなく、一度踏み止まった。  いってきますも、いってらっしゃいもなくなって、もう長い間、私たちには会話がないことを弘樹は何とも思ってないのかな。  ねぇ……本当にこれで──婚約してるって言えるの?  胃のあたりの服を力一杯握りしめて、家の中ではなくドアノブを睨みつけてから、私は家を出た。
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