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 猪瀬の薬里で生まれ育ったゆいが、旧君水藩の城下町・白鷺町にある大黒屋で働き始めたのは十五歳の春のことだった。  大黒屋は猪瀬の里が薬草を卸している生薬屋であり、祖父や父に連れられて、ゆいも何度か店に行ったことがある。店の主人とお内儀はとても気の佳い人物として知られており、これまでにも猪瀬の子ども達を奉公人として預かっては、算盤や商いを教えてのれん分けをしてくれたり、女の子には行儀作法や礼儀作法を仕込んで、嫁入り先を見つけてくれたりもした。そんな大黒屋から行儀見習いがてらの年季奉公話が持ち上がった時、父は渋い顔をしたけれど、母は喜んで賛成してくれた。自分が十六の時に明野領の武家に奉公に行って、そこで父と出会って結ばれた人なので、里の中の狭い人間関係だけでなく、少しは世間に触れた上で、できればよい人に巡り合って欲しい――という母心であったらしい。  当時、嫁入りにさほど興味がなかったゆいは町の生活への憧れと、生まれてはじめて親元を離れる不安とを半分半分にして噛みしめながら、大黒屋にやってきた。幸い、生来の飲み込みのよさと骨惜しみしない働き者の気性をお内儀気に入られ、奉公人達に「山里育ちの田舎者」と苛められて泣くこともほとんどなく、毎日忙しく立ち働いて――今年、ゆいは十八歳の春を迎えた。  大黒屋の朝は、朝陽が昇る前に始まる。  猪瀬の里だけでなく、遠州地方の様々なところから薬草が集まる薬問屋であり、奥の作業場では専門の職人達が薬草を刻んで調剤もする。埃や湿度は調剤の大敵なので、女中や奉公人、店の主人夫婦までもまだ暗いうちに置き出して、店の中を徹底的に掃き清めることになっていた。掃除が一段落したところで、女中達が炊事場で朝飯の支度を行うのだが、今朝はまだ、ゆいが帳場の柱や棚を拭いている最中に、店に入って来た人物があった。 「――おや、片瀬の旦那。今朝は随分とお早いお越しですな」 「すまんな、昨日の帳面に少し気になるところがあってな。来るのが早すぎたか。まだ掃除が終わってないなら、何でも言いつけてくれ。俺も手伝うぞ」  袂から襷を出して袖を引き絞ろうとしたので、奉公人の一人が本気で慌てた顔をした。  年の頃は二十歳を少し出たばかり。月代を剃らない、いわゆる浪人髷の風体ではあるが、着ているものはそれほどみすぼらしくない。常に右脚を引きずっていて、今日もまた、腰の刀を外して帳場に上がり込む時に、少し身体がふらついた。元は藩の執政を務めるほどの名家の嫡男だったのだが、幼い頃に負った怪我が障りとなって残った為に弟に家督を奪われ、廃嫡されて家を出た……と周囲に対して実にあっけらかんと明かしていて、今の大黒屋では彼の脚のことに触れる者はいなかった。 「いやいやそんな!旦那に掃除をさせたとなっちゃあ、おれがお内儀さんに叱られますよ!」 「そうか、己之吉もお内儀が怖いのか。そうだろう、そうだろう。俺もこないだ算盤を間違えてこっぴどく叱られたが……地獄の閻魔様に出会ったかと思ったよ」  言って、快活に笑った若い武士の名を片瀬康之介という。  彼は大黒屋の客ではない。厳密に言うなら奉公人でもない。白鷺町の南にある学問所・耕人堂の倉田道安先生の甥にあたり、普段は学問所で子ども達や町人に読み書きを教える傍ら、週に三日だけ、大黒屋の帳場に座って帳面をつけている。ゆいが大黒屋にやってくる少し前、長年勤めていた大番頭が隠居して故郷に帰ってしまい、算盤を弾く手が足りなくなったところを雇われたと聞いている。脚に障りのある康之介は用心棒としては役に立たないが、やはり刀を持った武士がいると心強いところもあるから、大黒屋にとって非常にありがたい人材だった。 「今日も精が出るな、ゆい。女っぷりが上がったのではないか?これから朝飯の支度なんだろう。できれば俺にも握り飯と漬物を用意してくれるとありがたいのだが……」 「おだてたって何も出てきやしませんよ。朝ご飯は掃除をした人達のものですから。旦那の分のお米なんて一粒もありゃしません」 「ははは、ゆい、お前、女っぷりだけでなく物言いまでお内儀に似て来たな」  ゆいの父も一応武士の端くれなので、彼とゆいとの間に身分の差はない……ことになっている。もっとも父は猪瀬の里で手習い所を営む傍ら、畑を耕したり、竹や木で細工物をしたり、薬草売りの商売の手助けをしたりしているので、子どもの頃のゆいは本気で「士農工商」とは身分の差ではなく、父のような人のことを指すのだと思っていた。大黒屋にやってきてはじめて、人には身分があり、特に武士という人達が道を歩くだけでも威張り散らしていることを知ったわけだが、康之介には、町人や百姓を蔑むところがまったくなかった。帳面付けなど所詮は商人の仕事……などと軽んじることは一切なく、店の主人や内儀に対してもきちんと敬意を持って接している。軽薄なもの言いや明け透け過ぎるところはどうかと思うが、そういうところはいいなと素直に思う。 「――さて、今日も働くとするか」  康之介が帳場に座って帳面を改め出したので、ゆいも雑巾と桶をしまって炊事場に向かうことにした。先ほどはあんなことを言ったが、大黒屋は繁盛している生薬屋であり、米びつにはもう一人分の握り飯を作っても、まだ余りあるだけの米がある。口は軽いが仕事は真面目な男だ。それこそ帳面に気になる点を見つけると、頼まれてもいないのに自主的に早出をするくらいに。働きものには握り飯と漬物だけでなく、好物の卵焼きもつけてやろうか。  足早に帳場を通り抜けようとした時、ふと視線を感じて歩みを止めた。肩ごしにそっと振り返った時、引き出しから算盤を取り出している康之介と目が合った。先ほどまでの軽薄な気配はどこへやら。どこか切羽詰まったような真剣な顔をしていて、それでいて唇の端だけが微かに緩んでいる。  さほど回数を重ねた訳ではないけれど、こういうことはこれまでにも何度かあった。だから今回も多分きっとそうなのだろうと思って、袖の中を探ってみると――案の定、そこには結んだ文が入っていた。
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