思い出鑑定 17世紀ヴェネチア

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 アーミラリ天球儀を買った男が橋を渡り自宅らしき家に入っていく。  実体を持たない耀(よう)佐久(さく)は壁のすり抜けも可能だった。  耀が扉をそのまますり抜ける見本を見せ、佐久も続いて家に入る。 『ただいま』  家に着いた男が帽子を脱いでベッドに横たわる女性らしき人物に帰宅を告げた。  ベッドにいる人物は、服から露出した手や顔の皮膚が黒ずんでおり、意識が朦朧としているのか焦点が合わない目でどこかを見ている。 『今日は、不思議なアーミラリ天球儀を買ってきたよ』  男が先ほどのアーミラリ天球儀を自分の前に持って話しはじめた。 『きっと、別の世界の君が、今は苦しんでいるんだろうと思ってね。だから運命が……いつまで君を苦しめて、いつ頃に楽になるのか、ちょっと見てみようか?』  男はベッド脇にある椅子に座り、アーミラリ天球儀の輪をいじっている。  耀は言葉を理解できなかったが、目の前の男性とベッドの女性は夫婦なのだろうと空気感で分かった。 「紅柄さん、あのベッドにいる方が罹っている病気は……黒死病(ペスト)だと思います」 「昔、ヨーロッパで大流行したという病気ですか?」 「そうです。15世紀にルネサンスがあれだけ盛り上がった要因は黒死病(ペスト)の影響もあったのです。昔は神に祈れば救われるという考えで教会が一番権力を持っていたのですが、黒死病(ペスト)は誰にも等しく死を与えました。教会と国家の力が弱まり、宗教に縛られない芸術が開花した……文化と生活は密接なのです」  二人は目の前で黒死病(ペスト)に苦しむ患者を見つめる。肺が悪くなっているらしい乾いた咳が小さな部屋に響いた。 「黒死病(ペスト)は、いつ頃治る病気になったのですか?」  耀の質問が意味するところが分かり、佐久は夫婦を見ながら唇を噛む。 「19世紀末にペスト菌が発見されるまで、抗菌薬での治療法は知られていません」  ベッドに横たわる女性は咳をしながら会話も出来なくなっていた。  肺ペストは人から人に感染し、パンデミックを起こす。 「旦那さんは、あのアーミラリ天球儀でもうひとつの世界にいるという奥さんの運命を見ています。黒死病(ペスト)が去るのはいつか、そんなことを想って……」 「黒死病(ペスト)が無差別に人を襲うというのが理不尽で、通常の占星術だけでは説明がつかなかったのかもしれませんね」  抗菌薬が発見されている時代を生きてきた佐久と耀は、治療法が確立されていない病気が長く人々を苦しめた歴史を意識したことが無い。  今まさに見ている時代は感染経路や原因すら分からず、突然発症して感染が広がり、多くの命が奪われた頃。  説明がつかないからこそ、天体やもうひとつの秘められた世界に救いを求めたのだろうか。  目の前の男性はアーミラリ天球儀を見ながら星を読んでいる。 『水星が巨蟹宮(きょかいきゅう)に入っているね』  男の言葉が静かな部屋に響く。佐久の右目から一筋の涙が零れた。 「黒死病(ペスト)の致死率は、確か7割程度だったはずです。決して助からないわけでは……」 「佐久さん、僕はこの仕事をしてきて、人の想いが起こす奇跡を知っています」 「奇跡……」  耀はベッドに横たわる女性に対して熱心に星読みをする男性と、言葉は発せないながら話を聞いている様子の女性を交互に見つめた。 「もうひとつの世界、起こりえるもうひとつの運命、そういうものを見る。現実逃避ではありません。魔法をかけようとしているんですよ」  耀が自信を持って言い切った。 「魔法、ですか?」 「痛いの痛いの飛んで行け、です」 「……それは」  佐久が横たわる女性を観察していると、口角が震えながら上がっている瞬間に気付く。 「3割の方がどう生き残ったか、僕たちは想像しかできません。でも、佐久さんのところにアーミラリ天球儀が巡ってきたということは……ちゃんと誰かの手を介して、丁寧に扱われてきたということなんじゃないでしょうか」 「遺品になったというわけではなく、ですか?」 「こんなに古い物が状態良く残っている時点で、大切にされてきた証拠です。あのアーミラリ天球儀が持っていた念に、死別に関する思い出は見当たりません」 「……じゃあ」 「恐らく、何らかの形で助かったんです、あのご夫婦は」  耀からはこれまでの穏やかな表情が消え、強い目に自信が見える。  佐久は溢れそうになっていた涙を手で拭い、「よかった」とうなずいた。
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