12人が本棚に入れています
本棚に追加
世界の輪郭
佐久が耀の店に戻っているのに気づくと、耀は店のカウンターからアーミラリ天球儀を佐久の方にすっと渡す。
「使い方は、ひとつではなかったのかもしれませんね」
「人の希望が時代によって違うことを、改めて思い知りました」
佐久はアーミラリ天球儀を大きな風呂敷に包み、「ありがとうございました」と耀に頭を下げる。
「いえ、僕は何も……というか、言葉が全然分からなくて」
「紅柄さん、私は……人文科学という分野に身を置いていてよかったと改めて思えました」
「佐久さんの博識ぶりに助けられました。こちらこそ、ありがとうございました」
そう言って頭を下げた耀のお辞儀は、佐久の知っている仰々しいものに比べて若者らしいカジュアルさが感じられた。
フィレンツェとヴェネチアを見ていた間、耀の若さを全く感じることが無かったのだと初めて意識する。
「人文科学は、役に立たない学問だと揶揄されることがあるのです」
「え? そうなんですか?」
「何かを生むわけでは無い、未来を見ていないと思われがちなんですよ」
「……いつから人は、そんなに短絡的になってしまったんでしょうね」
耀は自分の仕事を振り返る。
古い物に囲まれて、物に宿る念ばかりを見続けてきた。
「いつの時代も、結果というのは早急に求められてしまうものですね」
佐久はどこか吹っ切れたように微笑む。
「うーん、でも、地動説なんかはなかなか認められませんでしたよね? 僕たちは先人の知恵を借りて当たり前に受け入れていますが、それを知る手段を個人が持っている訳では無い。僕らが本当に知っていることって、一体どれだけ少ないのかなって思うんです」
耀が地動説の話を出すと、佐久は目を細める。
「地動説の証明を強固にした学者と言えば、私たちが最初に訪れたフィレンツェに生まれ、ヴェニスで教師をしていたガリレオですね」
「……そうだったんですか?」
「ガリレオが生まれたのは17世紀です。私は昔の学者に憧れていましてね。ガリレオ・ガリレイは天文学だけでなく、数学者であり物理学者であり哲学者、そして優れた宗教学者だった。だから地動説を証明する材料をいくつも持てたのです」
「佐久さんも恰好いいですよ。ギリシア語が分かるばかりか、ヴェネト語を聞いてラテン語で理解するなんて」
素直に褒めた耀だったが、佐久は苦笑を浮かべる。
「知るだけ、訳すだけであれば、今はテクノロジーがやってくれます。私のような人間は、歴史や文化がどんな背景から生まれ、人間の感情と行動に結びついているか、壮大なストーリーに仮説を立てて推理していくしかないのかもしれません」
「じゃあ、そのアーミラリ天球儀と似ていますね」
「はい。いつだって、もうひとつの世界を探すのが仕事です」
佐久はアーミラリ天球儀の入った紫色の風呂敷を軽く持ち上げ、耀に見せる。
「これは、私のお守りです。誰がなんと言おうと、私は人を研究するのを止めません」
「はい。僕も応援しています。また、思い出鑑定が必要になりましたらお声がけ下さい。外国語は分かりませんが」
「素晴らしい体験でした。紅柄さん、ちなみにあれはどういう……」
「すいません、そこは企業秘密です」
「企業……秘密……」
佐久は一度だけ目線を泳がせたあとで耀を見る。
「この世は説明できることだけではない、と解釈をすれば宜しいでしょうか? いつかまた鑑定をお願いできるような品物を持ってきます」
「はい。このたびはご利用ありがとうございました」
25歳の耀は、にっこり笑うと目がなくなる。
パーマのかかったふわふわとした明るい茶髪に、口調の端々に感じる年齢不詳の雰囲気。
「紅柄さん、あの、普段は一体どんな仕事を……」
「ああ、遺品整理ですとか、リサイクルショップを」
「なるほど」
古物商だという事前情報を得てやってきた店舗が、やけにその辺のリサイクルショップの雰囲気だったのはそういう事情か。
佐久は納得して思い出鑑定料を支払い、店舗を後にした。
「随分と不便なところまで来させられたと思ったけど、すごい収穫だったな――」
いつの間に雨が降って止んでいたのか、足下のスニーカーがアスファルトを踏みしめてぴちゃりと音を立てている。
物に宿る念とは一体何だったのか。思い出はどうやって物に宿るのだろうか。
数々の念を見てきたからなのか、紅柄耀という男には仙人のような雰囲気が漂っていた。
佐久は昔ながらの電気屋や地元の居酒屋の前を通り過ぎ、小さな駅にたどり着く。
1時間に1本の電車に乗るために無人の駅に入ると、足下の雑草が水滴を反射してキラキラと光っていた。
ホームには片側にしか線路が通っていない。
余韻を噛みしめるのにちょうどいい。
帰りの電車をゆっくり待つことにしようと、佐久は木製のベンチに腰を下ろし、アーミラリ天球儀の入った風呂敷を抱きしめるように抱えた。
<了>
最初のコメントを投稿しよう!