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俺は運命なんて信じちゃいないけど、神さまの存在を信じるときがたまにある。それはいくら貧乏でもこうしてなんとか最低限の生活ができていることと、いくら貧乏でもこうして毎日の煙草を欠かさず吸えているときだ。
昔働いていた居酒屋からパクった灰皿に火をつけたばかりの煙草を押し込む。山盛りになっている吸殻は今にも雪崩を起こしそうだけど、案外崩れないことを俺は知っている。
人間、案外なんとかなる。
ずっとそう思って生きてきた。だから特に頑張って働こうとも思わなかったし、夢を追いかけることもしなかった。惰性で生きているわけではないけど、だらしないとは思っている。テレビをつけて自分よりも若いやつが活躍しているのを見たときは特に。
目が覚めたのが昼過ぎだったから、誰にもおはようとあいさつができない日が続いている。もうそんな感じで何年も生きている。生きている? もしかしたらそう思っているのは俺だけかもしれない。いつも煙草と酒を買いに近所の公園に行くだけの俺は、社会的にはとっくの昔に死んでいてもおかしくはない。いや、むしろ死んでいるべきじゃないだろうか。だから真夜中の静寂がいやに落ち着くんだ。真夜中はいつも死の匂いで溢れている。
カーテンを開ける。まだ明るい。俺はとりあえず酒を飲む。冷凍庫に入れておいたブラックニッカがコップの中でキシキシと音を立てる。その音を胃の中に流し込んでいく。煙草を吸う。カーテンを閉める。夜を待つ。死神について考える。
玄関を開けるときはなるべく音を立てないようにする。こんなボロアパートに住んでいるほうも悪いけど、こんなボロアパートしか住めない俺がなによりも悪い。ドアを閉める。ガタンとなにかが軋む音がする。そして夜が俺を飲み込んでいく。そのために歩く。特になにも考えずに。
コンビニはいつも同じ場所にあって、いつも同じような店員がいる。そこに行って、煙草と酒を買って、ちょっとしたつまみとか食べ物も仕入れて、そんで帰る。それだけだ。他にはなにもない。なにも。
でも、やっぱり神さまはいた。コンビニを出た瞬間、俺は見た。すれ違ったんだ。はじけるような太ももがどうしようもなくエロい女を。別になにもしないし、声を掛けるとかそんな度胸はまったくないけど、とにかくラッキーだと思った。そのエロそうな太ももが見れたことが。あわよくば、なんてそんなことは考えない。だって無理だからそんなこと。女はカツカツとコンビニの奥に消えていく。俺は再び夜の闇に食われていく。そのまま家に帰る。いつもこうだった。いつも。そんな日はだいたい酒を飲み過ぎる。そして次の日は二日酔いだ。バカ野郎。まるでぽっかりと穴が空いたかのような人生に俺はいつまでしがみつけばいいのだろうか。いつまで。
いつだったか、真夜中にテレビを見ていると、ブラックホール特集だかなんだか小難しい番組をやっていて、多分NHKだったんじゃないかと思うんだけど、なんせ俺は受信料なんか払っていないからなんとなく得した気分になってその番組をダラダラつけていたんだ。ブラックホールがどうとかこうとかどうでもいいことをどうでもいい時間帯に垂れ流している訳よ。だから宇宙の夢なんか見たのかもしれないけど、俺は確かにそこに神を見て、そして目が覚めると左手に穴が空いていたんだ。
小学五年生のとき、両親が離婚した。俺は父についていった。母には弟と妹がついていくことになっていたから。それから俺は母に会っていない。一回も。弟と妹とも。
穴は手のひら真ん中にあり、ピアスで拡張しまくった耳の穴のように驚くほどの空洞だった。直径約1.5cm。鉛筆や煙草は余裕で入るけど小指はギリギリ入るか入らないかぐらいか。手をかざすと、望遠鏡をのぞいているときのように遠くのものが近くに見える。俺は考える。穴について。でもその間に煙草を入れてみる。そして火をつける。その状態で煙草を吸いながら洗面台の鏡の前に立つ。俺は閃いた。ビビッと感じたんだ。これはマジックに使えるんじゃないだろうか、と。やはり神はいた。これで売れたも同然だ。決めゼリフはもちろん「はい、オーマイゴッド!」これで俺もついにスターの仲間入りだ!
初めてピアスを開けたのは中三のときだった。ちょうど親父が再婚して、俺に暴力を振るうようになった頃だった。再婚相手の母はあばずれでただのビッチだった。思えば俺の人生が転げ落ちていったのもちょうどその時期だったような気がする。俺はピアスを拡張しまくった。穴を開ける度になにかを失う気がして、それがまた快感だった。
ただ一つ、問題があった。それはあまりにも重大で、俺にはどうすることもできない問題だった。――マジシャンとはいったいどうやってなればいいのだろうか。いや、誰かに弟子入りするのかもしれないし、ひたすら家で修行して路上で披露するのかもしれないし、なにかそういう大会でもあるのかもしれないけど、とにかく俺にはそういうのはまったく分からないし、教えてくれる友達もいないし、きっとこれから先そういう道に進むためのきっかけをくれる人とも出会えない自信があったから、残念なことに俺はマジシャンを諦めたんだ。いやほんと、実に悔しいぜ。
だから穴の持つ意味はなくなった。たまに手を洗っていて穴の部分も一緒に洗えばいいのか悩むぐらいで、その穴は俺の人生に何一つなにももたらさなかった。
それから数ヶ月後、俺はいつも以上にダラダラと過ごし、どうして俺にはテレビに映っている奴らのような才能と環境がないのかと鬱になって、そしてそれから半年間、俺は穴について脳みそから煙が出て爆発するんじゃないかと思うぐらい考えてみたんだ。穴。穴とはいったいなんなのだろうか。ドーナッツで有名な格言を思い出す。『ドーナッツは穴の部分も含めてドーナッツ』そして髭がこれ以上成長できない臨界点に達したとき、また閃いたんだ。この穴を拡張していけば、もしかしたら俺は本当の穴になれるんじゃないかって。
実際に拡張は痛かった。それでも俺が穴を広げ続ければいつかまた会える気がした。その穴の向こう側に、家族みんなで笑っているはずだった未来の俺に。
穴を広げ続ける。鉛筆二本、三本、四本、洗った小石、ペットボトルの蓋、塩の小瓶……。気がつくと手のひらには大きな穴が空いていた。それでも不思議なことに指は正常に動いた。不思議なことは他にもあった。穴からのぞく世界がどこか別の世界のように見え、そうしていつしか俺はそっちの世界に興味を持つようになった。
思えばいったいいつから俺はこんな人生を送るようになったのだろうか。家を飛び出たとき? 父親に殴られたとき? 親が離婚したとき? 本当は知っている。俺は努力が嫌いだから、ありとあらゆる努力を避けてきたけど、それを認めてしまうと、俺はきっといままで生きてきた俺自身を否定することになるから、だから俺は認めないんだ。うっすいプライドでも構わない。努力をしないということが俺の努力だ。それがこの結果だとしても。
穴の向こう側に煙を吐き出してみる。煙はどこか別の世界に行ってしまったかのように穴を通過する瞬間、マジックのように消えてしまう。俺はいつかこの穴をくぐりたいと思っている。だから俺の拡張はまだ終わらない。そういえば、と思い出す。こういう地道な努力は昔から得意だったのになと。もっと別のことをしていたら――。いや、やめよう。そんなことを考えるのは。俺は今日も穴を広げる。その向こう側に、なにかを期待して。
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