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7.自由な空へ
「新しい国王陛下にご挨拶申し上げます。──マルティナ、ワシは鼻が高いぞ。イェルク山の竜王様に気に入られるとは、自慢の娘だ」
締まりのない、おもねるような笑みに、私は冷ややかな気持ちになる。
その言葉を数ヶ月前に聞けていたら。
私の心の真ん中が、ぽっかり空いている時に言ってくれていたら。
(遅かったです、お父様。私はもう、あなたを必要としない──)
「あの男は誰だ?」
察しているだろうに、エルマーが問う。
"今後の距離を決めていい"と、私に委ねてくれたのだ。
「さあ。うっかりと忘れてしまいました。どなただったかしら」
"知らない"というには、他の貴族たちの名を挙げ過ぎた。
たちまちロストン子爵の顔が、怒りに染まる。
私の態度がお気に召さなかったらしい。
「っ!! マルティナ、お前、育ててやった恩を忘れたのか!」
(自分がしたことを忘れたのは、お父様のほうでは?)
私はひとつ息を吸うと、決別の意を込めて言い切った。
「私はかつての家族から縁を切られたようです。いま私の家族は、ここにいる夫だけ。他の方は等しく他人。そう思っています」
「なんっ……!」
顔を真っ赤にして、子爵が口を噤む。いま話したらきっと、いつもの癖で悪口雑言を吐きそうだったのだろう。
そしてたった今、それを見たばかりのはずだったのに。
もうひとり、歩み出て来た。
「いかがでしょう、イェルク山の竜王、エルマー様。わたくしもエルマー様の花嫁に、加えていただけませんか?」
聞き慣れた声に、ドキリと心臓が跳ねる。
豪奢な白金の髪を揺らしながら、ウットリとした目で見上げてくるのは義妹のナディアだった。
「お前は何だ?」
「マルティナの義妹で、ナディア・ロストンと申します。お見知りおきくださいませ」
華やかなドレスを手で広げ、深く優雅に腰をかがめるお辞儀は、花が咲くように美しい。
"縁が切れた"と伝えたにも関わず、"義妹"を強調してきたのはエルマーへのアピールだと想像がつく。
私は思わず、この席にはいない人物のことを尋ねた。
「婚約中のティバルト様はどうしたの?」
「ティバルト様は領地視察で本日はご不在なので、事後承諾となりますが。ヴルカンの新国王、エルマー様のお役に立ちたいわたくしの気持ち、ティバルト様もわかってくださるかと存じます」
ティバルト様より、エルマーのほうが顔も好みで力も大きいから乗り換える。
そういうことらしい。あんなに執着して、ついには奪ったのに。
「義姉はエルマー様の花嫁として選ばれましたが、その人選は偶然のようなもの。エルマー様におかれましても、他の女性を見てから選ばれたほうが、より充実した夫婦生活を送れるものと愚考いたします」
チラリ、と絶妙な角度で色っぽい視線と、胸元を主張してくる技術はさすがと言わざるを得ない。
そして私は、決定的なことに気がついた。
(……! そうだわ。エルマーは、他の貴族女性を見てなかったんだった!)
もし、彼が目移りしたら?
気が変わるということも、ひょっとして有り得るの……?
"それはない"と信じながらも、バクバクと脈が暴れ出す。
ナディアの甘やかな声は続いている。
「わたくしでしたら、あなた様をもっとご満足させることが出来るかと──」
「お前から、たくさんのオスのニオイがする」
「──え?」
ナディアの笑みが、強張った。
顔からサッと、血の気が引いている。
「何かの間違いです。私はまだ婚約中の身でした。殿方に近づいたことなど」
「嘘つきは嫌いだ。口を閉じろ。竜が望むのは、"ケガレナキ乙女"だ。
そして気高く、美しく、聡明なマルティナが来た。希望以上で、他は要らん。
邪な野望は、抱くだけ無駄だと忠告してやろう。
……お前だな? マルティナを陥れた義理の妹というのは」
凄味を増したエルマーの声に、ナディアが反論した。
「あ、義姉がエルマー様に何を吹き込んだかは存じませんが、謂れのない非難を受けるような覚えは……」
「あるだろう。謂れも覚えも。何より。誰が我が名を呼ぶことを許した?」
「……あ……っ」
「極めて不快だ」
ジュワッ!!
一瞬だった。
エルマーが手を一振りしただけで、広間中央が溶け落ちる。
ロストン子爵とナディアの背後に、熱に歪んだ大穴が穿たれていた。
「きゃあああああ! ひ、火が!!」
穴近くにいたナディアのドレスの裾は、火が燃え移って勢いよく燃えていた。
消そうと慌てるナディアと子爵に対し、エルマーの言葉がさらに追う。
「二度と今回のような振舞いは許さない。もし忘れそうなら、いつでも思い出せるよう、その顔を焼いてやる」
「や、いやあっ」
顔を焼かれてはたまらないと、ナディアが自慢の美貌を指で庇う。
「それと。マルティナに直接手を下したヤツ。そいつらは俺が直々に厳罰を下してやる。後で俺の元まで名簿を持ってこい。どう八つ裂きにするか、じっくり考えておく」
代王はじめ、広間の貴族たちはもう、言葉なく立ちすくんでいた。
大理石の床すら消え失せる、あの火力を自分たちに向けられたら。
知覚するより先に、この世と別れているだろう。
そう思っているような、蒼白な顔面だった。
特にユルゲン伯爵は、青を通り越して白くなっている。もはや死相では?
人格者で通していたロストン子爵は、真っ先に新王に諂った。
ナディアの今日の行動も、ティバルト様の耳に入る。
今後彼らはどう立ち回るのか。驚くほど、関心がなかった。
「さて、マルティナ」
声の調子を変えて、エルマーが私を見る。
「俺たちは新婚だ。こんなくだらない連中がいる場所じゃなく、イェルクの愛の巣で過ごしたいと思うが、どうだ?」
「私も同じ思いです、陛下」
ゆるやかな笑みを作って、答えた。
ここはエルマーに乗っかっておく。
抑制は大事。それがこの国で学んだことだから。
「決まりだな」
エルマーが玉座から立ち上がると、背丈が抜かれていた。
(……!!)
逞しい長身に頼もしいような、残念なような、複雑な気持ちになる。
ええ、ええ。ドキドキしてるのはびっくりしたせい。
頬が紅潮したのも、負けて悔しいからで……、すごくカッコイイとか思ったわけじゃ……。……いきなり反則過ぎでしょ!!
「では、当面、代王に国を任せる。堅実に励め。イェルクから見ているからな。──あ、名簿を忘れるなよ」
言うとエルマーは私を抱き寄せ、ゆったりと広間を出た。
外ではすぐに巨大な竜翼が広がって。
私は彼の背に乗って、大空に舞い上がったのだった。
◇
「だからね、この石は超高温からの急速冷却で、作れるらしいの」
エルマーが手に入れてくれた本を片手に、私は今日も実験に励んでいた。
「高温はともかく、冷却はどうするんだ」
「私が水をかけてみるとか、どう?」
「待て、水は危険だ。爆発しそうな気がする。怪我じゃすまない」
「なら、エルマーの翼で一気に上空まで運んで冷やす!」
「はぁぁぁ? やれやれ……。地下宮殿を石の博物館にでもするつもりか?」
「それもいいわね。他に作りたいのは……」
「やめろぉぉ。単なる言葉の綾だぁぁ!」
──イェルク山の竜の地下宮殿には、珍しい石がたくさん置いてあるという……。
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