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1.竜の要求
王都中が影で覆われるほどの、大きな翼を広げて。
金の瞳をした、イェルク山の竜が言った。
「我は代替わりに際し、"ケガレナキ乙女"を、息子の"ハナヨメ"として要求する。
娘の"血"を、我が息子に捧げよ」
それが、火山に囲まれたヴルカン王国を守護する、竜からの要請だった。
◇
「また仮病か、マルティナ・ロストン! いい加減、その怠け癖をどうにかしたらどうだ!」
やっとの思いで出勤した私を迎えたのは、上司であるユルゲン伯爵の轟く罵声。
「昨日は仮病ではなく、本当に体調が悪くて休むしか……」
「医局部に問い合わせたぞ。きみが受診してないことは確認済だ!」
「めまいが酷くて、立ち上がることすら出来なかったのです。それで医局部に赴けず……」
「家に医者が往診に来たとも聞いてないぞ! 子爵家なら、当然お抱え医師がいるだろう!」
「ち、父が。外聞を気にして、私が呼ぶことを禁じ……」
「見え透いた言い訳は結構! ロストン子爵は出来た方だ。父君のことを悪く言うのはやめるんだ。信じる者など誰もいない。
身勝手なきみが開けた穴を、誰が埋めてくれたと思う! ナディア・ロストンがわざわざ来てくれたんだぞ。彼女の担当部署は別だと言うのに」
(ナディアが……)
「まったく。同じ姉妹で、どうしてこうも違うのだ! 姉であるきみは陰気で、サボリの常習犯。対してナディアはいつも笑顔で周囲を気遣える、有能な女性! 本当に雲泥の差だな。子爵家でもきみを持て余し気味だと聞くが、ご家族に同情するよ」
一方的に責め立てられ、重い身体を引きずってどうにか職場に来た私を、ひそひそ声が取り囲む。
"またズル休み?"
"良いご身分ね"
ズル休みなど、一度もしたことがない。
休息も十分に取れない激務とストレスで、身体が悲鳴を上げた。それが真実。
それでもこんな陰口が実しやかに囁かれるのは、ナディアが触れ回っているからだ。
義妹のナディアは、私のことを嫌っている。
彼女が狙うティバルト・オルラウ伯爵令息が、私と婚約していることが妬ましいらしい。
実母が生前、結んでくれた縁談だった。
(この部署に移った当初は、こんなじゃなかったのに……)
差し入れを持って何度も出入りするナディアが、私を孤立させるための悪評を撒き散らした。
そのうえ彼女は権力のある男性に取り入るのが上手く、上司からの私への嫌悪は、周りの嫌がらせも生んだ。
(すごく疲れるわ)
それでも。
もう少しで退職出来る。
数か月後には、私はオルラウ家に嫁ぎ、同時に仕事も辞めることが決定していた。
(あと少しの辛抱だから……)
そうして休んだ分、積み上げられた書類に向かい合った時。
空が、翳った。
「竜だ!」
「イェルクの竜が、降りてきたぞ!!」
職場、つまり王城内は騒然となり、人々の叫ぶ声が響く。
イェルク山の竜。ここ百年以上、山から出なかった竜が、来た?!
──我は代替わりに際し、"ケガレナキ乙女"を、息子の"ハナヨメ"として要求する──
竜が飛び去った後、城では緊急会議が開かれた。
王都に滞在する貴族が急ぎ集い、けれども私は変わらず自分の仕事に忙殺され。
深夜まで拘束されて帰宅したら、父親から耳を疑う言葉を告げられた。
「竜の花嫁として、マルティナ。お前が選ばれた。速やかに旅装を整え、イェルク山に向かうように」
(嘘でしょう──)
「で、でも、私は婚約しています」
「婚約はナディアが引き継ぐ。先方も了承済みだ。我が家としては、何の支障もないばかりか、オルラウ伯爵家にも喜ばれた。評判の悪い姉の方ではなく、器量良しの妹が嫁になるとな!」
「ティバルト様は? 彼は、何と?」
「ティバルト殿もナディアが良いそうだ」
「!!」
「わかりきったことだろう。せっかくティバルト殿が会いに来ても、お前は夜も帰って来ない。お前の代わりにナディアがいつもティバルト殿をもてなしていたのだぞ」
「それは仕事が! 皆さんが、私に業務を回して来るので──」
「夜遊びしていることは、ナディアから聞いて知っている。亡きお前の母が、今のお前を自堕落ぶりを見たら、さぞ嘆くことだろうな!」
ああ!! ここでもナディアが!!
彼女の名前が出たら最後、私がいくら本当のことを話しても取り合っては貰えない。
私はそれを、長年の経験から痛感して学んでいた。
「なぜ……、私なのです……」
「竜が求めたのは"花嫁"だ。おおかた"生贄"と同意だろうが、それでも守護竜から"花嫁"と言われたからには、農民の娘などもってのほか。貴族家の適齢の娘であるべき。既婚者をのぞくと、自然と絞られて来る」
フン、と父が鼻を鳴らした。
「お前は職場でも鼻つまみ者だそうだな。ワシはとても恥ずかしかったぞ。幸い、竜は国内の噂など知らん。お前で良かろうと会議で決定したのだ」
(実の……娘を? そんなあっさりと頷いて……)
私の中で、何かが崩れ落ちた。
私は父親に差し出されたのだ。
おそらくご立派なロストン子爵は国のため。
泣く泣く娘を犠牲にした人物として、めでたく王や貴族たちの記憶に残ったことだろう。
そこから先のことは、よく覚えていない。
父は、「役立たずのお前が、初めて役に立つ」とか何とか、言っていたと思う。
私からの言葉は、「口答えするな」という怒声の前に封じられ、抵抗むなしく部屋に押し込められた。
気がつくと朝を迎え、出勤すると人事が発表されていて、私は。
念願の、"寿退職"とされていた。
荷物をまとめて机を去る時、ナディアが来て笑った。
「お義姉様のお仕事、私が引き継ぐことになりました。この前お手伝いしたけど、なんであんな簡単な作業にいつも時間をかけてらっしゃったの? 必要な項目を入れたら、すぐにデータが揃いますのに。私なら兼任でこなせますわ」
家族でとる最後の晩餐は、あっけないほどいつも通りで。
父も義母も義妹も、ナディアの婚礼衣装の話題で持ちきりになっていた。
結婚を少し先延ばし、豪華なドレスを仕立てるのだそうな。
私は蚊帳の外のまま、声を掛けられることもなく部屋に引き上げると。
これでもかというくらい泣き明かしてベッドを濡らし、真っ赤に腫らした目で翌朝、生家を後にした。
竜に、嫁ぐために。
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