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4月の東京の高田馬場駅周辺は今日も人の大群で盛況している。馬場の19時は専ら勤め人と若者と外人で埋め尽くされていた。駅前の大きなロータリーではバスやタクシーがひっきりなしに通り、上を見上げれば眩しいほどの動くネオンが夜の空に映える。
僕はお客を乗せたタクシーが陸続と通過する横断歩道で信号待ちをして、辺りを見回してゆっくり座れそうな場所を探した。
ロータリーの真ん中あたりで歌の路上ライブをしている女がいて、そのマイクの音をかき消すように大きなサイレンを鳴らすパトカーが2台出動し、どこかからペットの犬が吠える鳴き声と、パトカーを指差して笑う4人組JKが目の前に。活気はついている。
横断歩道から3分ほど西に歩くと人が2人座れる隙間程度の地べたを見つけた。今日は朝から何も口にしていない。
今から食べるのは友人の親父からもらった豚汁とコロッケと米だ。僕はその地べたに、簡易的なパックに入ったそれらの食事を置き、段差に座ってわり箸を口で割った。
人目もはばからず、綺麗に均等に浮かんだ油の汁を口に流しこんだ。サウナで整ったあとの水分のように声が漏れ出てしまう。素早く咀嚼してはまたすぐに口に入れて咀嚼する。飲み込んだ栄養が一気に体の末端まで潤してくれる。そのおかけでまた箸が進む。
「にいちゃん。こんなとこで何しとるんだい?」
僕が豚汁のパックから米のパックに持ち替えようとしたところで、人の往来の中から知らないおじさんが話しかけてきて僕のすぐ右隣に腰かけた。薄くボロくなっている紺色のキャップをかぶり、前歯もなく直感で汚い人だと思った。
「ご飯食べてるの」
僕はそう言ったあと、おじさんに構わず麺をすするかのように米を食べた。
「見たらわかるさ。家で食べなくて大丈夫か?」
おじさんは言った。
「うん。こっから家遠いし」
「家はどこだい」
「電車で50分てとこかな。というか何か用?これを食べたいんだよ」
そう言って僕はアスファルトの豚汁とコロッケを指差した。
「そうかい。おじさんにもくれよ」
おじさんは冗談混じりにそう言うと肘で僕の肩を押した。
「歯がないからだめだね」
「歯がないのは関係ないだろ?」
「なくはないね」
「まっゆっくり味わって食べろよ。あとお前さん、ここの店、よかったら行ってみてくれんか」
おじさんはそう言って立ち上がると、名刺を差し出した。
(古波陀康雄、3-14-2)
「何これ?」
僕はカードの名前と住所だけに目を通して言った。
「おれの知り合いの飲食店だ。お前の何かが変わるかもしれん。行ってみるといい」
「飯くれるの?」
僕はおじさんの顔を見て言った。
「さあな。お前しだいってとこだ。じゃあな」
おじさんはそう言って人混みに消え去り、僕はそのカードをコロッケのゴミ袋に投げ捨てた。
ご飯を食べ終えて一つ伸びをして、近くのゴミ捨て場へとゴミを処理しようとすると、右手部分に光る丸い硬貨が置き去りになっていた。すぐに500円玉だと気付き、僕はしばらくその500円玉を見つめた。おじさんは僕みたいな人にちょっかいを出したいだけだと思ったが、そんな人がここに500円を忘れることはないだろう。ならばあのおじさんは金を置いていったのか。僕のことを金がなさそうだと思ったのだろうか。それとも僕のスペースへの入場料としてなのか。どちらにせよ札にしてくれればいいのだが、風で飛んでしまうことを嫌ったならとんだロマンチストだ。
もうこの駅での用事は済んだ。500円玉を財布に入れ、改札を抜けてホームに辿り着くと、ふうっと口から細い息が漏れ出る。
まあ、あのじいさんが思ってることは間違いではない。僕は金なしだ。
「大希。5歳になったのなら一人前の大人だ」
僕は両親からよくそう言われた。
父も母も喧嘩っぱやく、扇風機やらバイクのヘルメットやら熱いコーヒーやらなんでも家中を飛び交っていた。
中学までは通ったが、高校は進学しないでお菓子工場のバイトに週3回で入り、家にはほとんど帰らずに友達の家を転々とする生活を6年した。僕の行動は両親から干渉されていなかったが、ある日リビングで漠然とテレビを見ていた母にひと言だけ東京で暮らすと伝えると、「そうかい」とだけ返事が返ってきた。
東京で家を決める時も、10分とかからず良さそうな浅草駅付近に決めた。バイトは適当にネットの上から順番に見た浅草駅のカフェにして、上京して一年、ずっとそのカフェで週3ほどでシフトに入っている。今日は週末で16時から出勤することになっている。
〈ねえ大希。今日バイトまかないないらしいよ〉
同期でバイトに入った繭美からメッセージが来て〈ならバイト後繭美ん家で〉と返信すると〈まあいいけど〉とそっけなく絵文字もなしに返ってきた。
土曜日だけあって案の定バイトは笑えるくらい忙しかった。今週から店長が客の回転を意識した予約の取り方をしたおかげでテーブルの片付けが頻発し、それがうまくバイトに伝わってなかったのが主な原因だ。片付けで洗い物が一気に溜まり、まだ入って間もない洗い場の新人がテンパったり、予約時間に来た客を時間通りに案内できなかったりでバイトがクレームを受けていた。
「おつかれ大希!」
店がクローズの22時になり、服を着替えてカウンター席に座る僕に繭美が話しかけてきた。
「うい。おつかれ」
「今日やばくなかった?忙しさ。てかさ、8人で来た女子会の客ほんとめんどくさかった。オムライス出した時ケチャップ少ないって言われるし、ドリンク出した時も同じ高さのグラスとグラスを比べて微妙に量が違うとか言ってきたのよ」
「そりゃやべえな」
「でしょでしょ?ひどい話よ」
「そうだな。じゃあ僕は近くのコンビニで待ってるから」
僕は笑顔を作って手で店の玄関を差した。
「ほんとに家くる?」
「うん。だめなの?」
「だめではないけどさ。じゃあ私は今から着替えるから待ってて」
繭美は少し不服そうな顔と声で言った。
僕は約束したコンビニで時間を潰し、しばらくして繭美と合流し、家に上がり込んだ。
僕は家に着くなり8畳ほどの部屋にあるソファにダイブした。前には小さな机とテレビがある。以前来た時はカーテンの色は白だったが、ピンクに変わっている。今日でこの家に来るのは3回目だ。
「ねーソファ汚い。どいてよね」
繭美が口を尖らせて言った。
「何を食べさせてくれるの?」
僕はうつ伏せでソファに顔をうずめながら答えた。
「先にどいて。バイトの匂い付きそうだから」
「すぐどくから教えて」
「もう。一応昨日のカレーが残ってる」
「やっぱり?いいね。匂いでわかってたけど」
僕は声のトーンを上げてソファから立つと、繭美は気怠そうにカレーを温め始め、しばらくのあいだカレーをかき混ぜた。そして僕がその華奢な背中を黙って見つめていると、繭美はゆっくりと手を止めた。
「私、よくよく考えたんだけど、大希はこれから先もご飯だけ食べに来るの?」
繭美は暗い声で噛み締めるようにして言った。
「どうしたの?急に」
僕は言った。
部屋には中火ほどの盛った炎の音だけが静かに浸透する。
「なんだか今私、とても悪いことしてる気がして」
「悪いこと?いつもの冗談?」
「ううん。本気」
繭美はそう首を横に振ったあと、オタマで3周カレーを混ぜてまた手を止め、体を少し僕の方へ向けた。
「大希はバイト週に3.4回しか入ってないじゃん?なのに私がご飯あげるみたいなのってどうなのかなって」
「いや、まだこの家3回目だしさ。そんなに変なことかな?」
僕は首を傾けて繭美の顔を見た。
「変だとは思わないけど、他に収入はないの?」
繭美は少し不安そうな目をして言った。
「ないよ。バイトだけ」
「ならあとの週3日は何して過ごしてるの?」
「携帯アプリで動画配信したり、動画配信見たりかな」
「そんなこと言ってたね。大希の配信見たことあるよ」
「よかったっしょ?」
「再生数もちゃんとあって、視聴者の悩み相談コメントにもうまくアドバイスしてたね。けどそれはお金になってないんじゃない?大希の月の稼ぎはだいたい分かっちゃうけど絶対足りてないと思う」
繭美は少し強い口調でそう言うと、かけている鍋の火を止めて沈黙したように下を向いた。
「火止めちゃうの?」
僕はそう言うと繭美は呆れたように手の指の腹あたりでおでこを押さえた。
「あーもうなんか嫌になっちゃった。ごめんけど今日は出てって」
繭美はかたまりのようなため息を吐き出してソファにだれるように横になった」
「おん?そうか、じゃあな」
僕は軽く手を振りながらそう言って、玄関の扉を開いた。
夜風が身に染みて体に入り込み、着ている軽いコーチジャケットでは防ぎ切れないくらいに寒さを感じる。繭美の家に向かう時はこんなに寒かっただろうか。僕はとりあえず浅草駅周辺の脇道に行くことにした。
腹が鳴って止まらない。カレーだけでも食べておかなかったことを後悔した。ここにはタダで食べられそうなところはなさそうだ。財布の中身の残金を確認すると3200円で給料日まではあと8日だった。僕はほっと胸を撫で下ろした。今日が終わればあと7日、そのうちの2日は友達から米でも食べさせてもらえばいいし、バイトのまかないだってある。
僕は人通りの少ない路地裏で店を探していると、急に頭の中が、一瞬である名前と住所でいっぱいになった。あのおじさんにもらった名刺は捨ててしまったが、住所は記憶に刻み込まれていた。
携帯で住所を入力して地図を見ていると、ちょうどこの辺りを示している。しばらく地図を見ながら歩いていると、黒い外観にポツンと入口だけライトが付いている店を見つけた。1階建てでこぢんまりしている。どうやらここのようだが外から中の様子は見えない。すぐ周りに他の店はなく、ボロくなって何年も使われていなさそうなテナントの隣にこの店は構えていた。
大きめのグレーの玄関扉の前には黒板が立てかけてあり、メニューがチョークで書き込まれている。粉チーズナポリタン880円。昔ながらの醤油ラーメン780円。牛すじの深煮込み580円。タコとワカメの柚子ポン酢和え400円。他には旬のビワドリンクや、アルコール類も推している。営業時間は翌日の1時までで、おじさんはここでご飯をご馳走するために名刺をくれたのか半信半疑だっだか、体は迷うことなく店の扉を開けた。
扉は思ったより軽く、上についたベルが山びこのようにしばらく店内に鳴った。
「いらっしゃい」
優しい声のする方に目をやると、服装からいかにもマスターですといった姿のおじいさんがカウンターに立っている。銀か白かでびしっと整えられている髪はオールバックで固められ、痩せてはいるが、佇まいとしては眼帯を外した海賊のようだ。
店内に流れる暗めのジャズの音楽は、大きな照明で照らされたリキュールと木製のカウンターテーブルによくマッチしている。
僕は一周店内を見てから端のカウンター席に座り、マスターの様子を伺った。当たり前のように胸元に名前はなかった。
「僕にご飯をくれるの?」
僕は唐突に、グラスを拭き上げるマスターに言った。マスターは少し驚いた表情を見せたが、すぐに落ち着いた様子でゆっくりとグラスを置いた。
「くれるとは、どういうことですかな?」
「今から僕にご飯をくれるのかっていう意味だけど」
僕は頬杖をついて言った。
「ならそうだね、ご飯をあげると、この店が成り立たないことはわかるかね?」
マスターは少し口角を上げて言った。
「なるほど。そうかい。なら話を変えるけど、あなたが古波陀康雄さん?」
僕は頬の手を顎に移して言った。
「そうですが、なぜわたしの名前を?」
「ちょっと前に変なおじさんから名刺貰っててさ」
僕はそう言うとマスターは悲しげな目をして深く息を吸った。
「なるほど。あなたがそうでしたか。そのおじさん、桐島従野から連絡は貰っていました。悪いが来たら相手にしてやってくれと」
「連絡を貰っていた?どういうことだ。グルになって僕を何かの罠にでも?」
「いえいえ、あなたを罠にかける理由などございませんよ。ただ少し手伝って頂きたいことがありまして」
マスターは申し訳なさそうに言った。
「手伝うったって、怪しすぎるぜ。どうしてじゃあその桐島ってじいさんが直接言ってこなかったんだ」
僕は言った。
「そうですね。それは言葉足らずで失礼しました。ではわたしの口から単刀直入に言うと、あなたにはわたしの娘を救うお手伝いをしてほしいんです」
「娘を?娘がどうかしたのか?それになんで僕が」
「それは失礼ながらわたしの口から言いたくないことでございまして、あなたが手伝って下さるなら2日後の23時にこのお店に来てください」
マスターの心苦しそうに言うその言葉に僕は口を閉じていると、続けてマスターが話し始めた。
「もちろん手伝う内容もわからないのにすぐに了承などできないと思います。それは申し訳ありません。なので、急にこんな話をしたお気持ち程度に、今メニューの中から料理を一つご馳走します。例え2日後に来なかったとしても。そして、もし来てくださった場合、これから週に1度、好きなメニューをあなたが好きなタイミングでご馳走差し上げます」
「ほんとかっ!」
僕は少し身を乗り出して言った。
「ええ、本当です」
マスターは再び口角を上げて微笑んだ。
「なんかいろいろ言ってすまなかった」
僕は頭を軽く下げ、メニューにあるアジフライ定食を指差すと、マスターは「かしこまりました」と言って店の奥へと入っていった。
「おい、大希。なんか繭美と気まずそうじゃね?」
バイト中に社員の太田さんがピザを焼きながら言った。
「そんなことないですよ」
僕はトレンチのグラスを洗い場に置きながら言った。
「太もも触ったのか?」
太田さんが言った。
「あー、触ってはないですね」
「触ってはない?」
「触ってないですよ」
「ならよし」
太田さんは頷きながらそう言うと、窯に入っているピザをひっくり返してタイマーをつけた。
今日は月曜だけあってお客はまばらでやることも少ない。僕は17時から出勤して現在21時。今繭美は4人家族のテーブル席の接客をしているが、繭美とは仕事のこと以外では一言も喋っていない。
「いらっしゃいませ」
繭美の声が聞こえる。
僕はホールに出て玄関を見ると、ボロい紺色の帽子がすぐに目に入った。
「よお、路上グルメ野郎」
おじさんは笑いながら言った。前歯がなく、すぐに桐島だと確信した。
「おじさん、桐島って名前なんだ」
僕はおじさんの前に立って言った。
「おおそうだぞ。その自信満々な口調と態度、古波陀んとこの店に行ってくれたんだな?」
おじさんは高らかに笑い、勝手に空いている2人用のテーブル席に座った。
「ああ、行ってきたさ。だけど何か怪しいなあんたら。そもそもあんたは僕がこのカフェで働いてることを知ってるから来たんだろ?」
「まあそんな怪しまずに時には素直に受け取るがいい。お前さんの言う通り、ここで働いてることを知ってたがな」
おじさんは椅子に手をかけて大股開きで言った。
「どうして知ってるんだ。つけてたのか?」
僕はテーブルに手を置いて言った。
「お前が路上で飯食ってた日、昼間に携帯アプリで動画配信してたな?」
おじさんは真剣な顔つきと流した目で僕に言った。
「あ、ああ。してたよ」
「だよな。おれの娘がお前の動画配信見ててな。その日、馬場駅で飯食べることも、このカフェで働いてることも公言してたじゃないか」
その言葉に僕は歯に力を入れて、手に持っているトレンチを力強く握った。
「だけど、あんたが配信見たからって何で僕に会う必要があったんだ。わざわざ馬鹿にしに来たって言うのか」
「おれだって大人だ。そんなガキ臭いことはしない。ほら、これがおれの名刺だ」
僕は渡された名刺を食い入るように見ると、(株式会社スターティングオーバー 代表 桐島従野)
と記載されている。
「これがどうしたんだよ」
僕は言った。
「おれはこう見えて若者の将来を明るくする仕事をしている。社会に出られなくなった奴、親がいない奴、お前のように路上で飯食ってるような奴は救わなきゃいけないんだ。このおれの前歯だって1人で駅の地べたに座ってたガキに話しかけたら殴られたんだからよ」
おじさんは自慢気に言った。
「そうか。理由はわかった。だけどあの古波陀ってマスターが僕に娘を助けて欲しいってのはわからないな」
「部屋から出てこないんだ。古波陀の娘さんは。お前は動画配信で人生相談みたいなことやってるみてえだし、もうおじさんたちが何を言っても若者の心には響かないんだ。だから路上で飯食う辛さを知ってるお前に、一度現場を見てほしい。もちろん無理にとは言わねえ。今日23時、来てくれるか?」
おじさんは僕の顔を見て言った。
「まあ、マスターは飯永遠に食わせてくれるらしいし、行くよ」
僕はそう返事をして残っている洗い場の仕事へ戻った。
しばらくして客は全員帰り、店内はノーゲスになった。僕は22時過ぎたところでタイムカードを切り、制服のエプロンだけロッカーに脱ぎ捨てて玄関の扉を開けた。
「大希!」
繭美の声が後ろから聞こえ、僕は足だけ止めた。
「今日ならご飯作ってあげる」
「わりい。今日はだめなんだ」
僕はきっぱりと言い切り、外へ出るとおじさんが店の前でタバコの煙を夜空へふかしていた。
「行こかー」
おじさんは言った。
30分ほどかけて歩き、少し早い22時40分に着くと、店の前には古波陀さんが後ろで手を組んで立っていた。
「来てくださり、ありがとうございます」
古波陀さんは深々と頭を下げた。
「店は大丈夫なのか?」
僕は聞いた。
「はい。定休日です」
古波陀さんはそう言って僕たちを先導した。
道の脇に入り、ポツリポツリと住宅が建っているところまで来ると、古波陀さんはそのうちの一軒家で足を止めた。どこにでもありそうな普通の一軒家だ。
「ここがわたしの家です。娘は2階の部屋にいます」
古波陀さんはそう言って玄関を開け、僕たちは2階へ続く階段を上がった。
鼻から脳へとツンと突き刺さる臭いが充満し、彼女の部屋の周辺だけ暑い嫌な空気を切り取って貼り付けたような居心地の悪さだった。茶色い扉には〈入ったらヤル〉と彫刻刀のようなもので彫られている。
ここで桐島さんが手に持っていたカバンからノートを取り出して、僕に見せて小声で言った。
「これが今までこの子を説得しようとして複数の大人たちがかけた言葉だ」
そこには〈生きてたら絶対にいい事あるよ〉。〈君より辛い人だって、この世にはいっぱいいる〉。〈少しずつでいいから外に出よう〉。〈両親だって心配してる、周りの人もこんなに、ね?〉。〈まだ若いんだから何度でもやり直せる〉。などと書かれていた。
僕は無言でノートを桐島さんに返し、古波陀さんに娘さんの名前を聞いた。
「彩月だ。」
僕はその名前を頭に刻みつけて、部屋の扉のすぐ前に立った。
それを見た古波陀さんと桐島さんは静かに階段を下りていった。
僕は2回、ノックをした。その音はいつまでも響いている気がした。もう一度2回、ノックをした。中から一瞬物音がして、それはこちらに近づいてきた。ガチャリと鍵が開けられ、物音が離れていき、しだいに落ち着いた。僕は扉をゆっくりと開いた。
黒い塊があった。人間なんだろうけれど、それは黒い塊に見えた。女の子座りで包丁を持ってこちらを睨んでいる。信じられないほど警戒していることはわかったが、襲ってこないのは部屋にまだ足を踏み入れてないからだろう。
「彩月」
僕は真剣に彼女の顔を見て言った。
彼女は微動だにせずにこちらを見ている。
「今から僕と一緒に、死んでみる?」
しばらく僕らは見つめあった。彼女を取り巻いていた黒い突風のような空気たちが、ほんの少し、一瞬だけバランスを崩したような気がした。その時に僕は、今までに感じたことのない何か新しいものを手に入れたような、そんな感覚になった。
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