雪より白きは夜と朝

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雪より白きは夜と朝

 この時期のこの世界に、夜と朝の区別はない。神様がお休みをしているからだ。  空に住む神様は、雲を浮かべて雪を降らせたり、雷を落としたりする。夜と朝とを順番に空に昇らせるのも、神様の役割だ。  夜と朝は、とても仲良しの夫婦なんだそうだ。だけれど、夜と朝との区別がなければ、トナカイもフクロウも人間も皆困ってしまうから、夜と朝は一緒にいたいのを我慢して、神様に言われたとおりに、順番に空に昇っていく。夜が空へ昇るときは、朝は地面の下へ。朝が空へ昇るときは、夜は地面の下へ。この世界に生きる私たちのために、夜と朝は寂しい気持ちを我慢して、順番に世界を覆う。 「だけどあんまり寂しいから、一年のうち半分の間は、夜と朝は一緒に空に昇ることを許されているんだよ」  地平線を指しながら語る母の頬は、寒さに紅く染まっている。ついさっきの休憩では、油スープを飲んだのは私だけだったから、体が冷えてきているのかもしれない。白くぼんやりとした太陽の光を受けて、母の胸に金色の首飾りが煌めいている。私は母の指す方向を見たまま、「じゃあ私たち、いつ眠ればいいのか分からないわね」と言った。事実、私たちはもう、きっと一日か二日くらいは、起きたままなのだった。  母が言う。「疲れたら眠ればいいんだよ」  だったら母は眠るべきだ、と思った。  夜でも朝でもない時間は、一秒ごとに私たちのたましいを透かしていった。そして私たちはその分だけ、たましいであることに近づいている。私はまだ肉体をとどめていられるだろうけれど、母はどうだろう。  休憩をしなくては。そして、母が飲みたくないと言っても、油スープを飲ませなくては。私たちは、神様の目覚めを見守らなければならない。 ***  あの瞬間のことは、今でも鮮明に思い出せる。というより、忘れようとしても忘れられないたぐいの記憶だった。定期的に夢に見て、あの焦燥を嫌でも思い出す。そして飛び起きて、暗い暗い天井を小一時間も見上げる羽目になる。  あの日、アラートが鳴ったのは昼過ぎのことだった。「これは訓練ではありません」と、太文字にされた文句が、携帯電話の画面上にちかちかと点滅していた。高齢のため足腰にがたが来始めた母親が、「どうしたの」と私の手元を覗き込んでくる。 「いや、何だろう。地震速報じゃないし……ちょっとテレビをつけてみて」  母親の手がソファの上をまさぐって、探り当てたリモコンの電源ボタンを押した。民法はのどかな旅番組を放送している。チャンネルを国営放送局に変えるよう言うと、母親は素直にチャンネル切り替えボタンを押す。国営放送でも、これといって特別な番組は放送していないようだ。とすると、携帯電話のアラートの誤送信か何かだろうか。  迷惑なことだ、と携帯をポケットにしまう。それと同時に、テレビから大音量で不快な音が流れた。緊急放送、緊急放送です。これは訓練ではありません。繰り返します。これは訓練ではありません。音声とテロップが繰り返し危機を伝える。母親が、「あらあ」と他人事のような声を上げた。 「怖いねえ。どこだろう。どこの地域だろうねえ」  どこの地域……あの時の私たちは、災害というものをどこか局所的なものだと思い込んで疑わなかった。地震にしろ津波にしろ、あるいはミサイルの着弾にしろ……それはどこか限られた地域の、限られた悲劇なのだと。  果たしてどこの地域が、あの災害から逃れられたというのだろう。大なり小なり、影響を受けなかった地域などなかったに違いない。何日かのち、私たちはその広域にわたる被害に恐れおののくことになるのだが、それでもその時、私たちはまだ、私たちの身の上に降りかかる全てを理解したわけではなかった。私たちは耐えようとしていた。この災害が終わるその日まで。全ての苦難には終わりがあるのだと信じて……。 ***  母はとうとう目を覚まさなかった。太陽が地平線を三度かすめたとき、母は残りの油スープを私ひとりで飲むように言って、トナカイの首につけるための鈴を鳴らして、そして神様のもとへ行ってしまった。母は、この鈴を気に入っていた。鈴を鳴らすと、トナカイ好きの私が飛んできたからだ。私がどこへ行っても、これさえ鳴らせば探しに行かずに済むと考えていたようだ。  私はもう迷子になるような歳ではなかったけれど、母はいつだって鈴を懐に入れていた。鈴を鳴らさなくても、私はずっと母の隣にいたのに。でも、母が本当に呼びたかったのは私ではなくて、あのころと寸分違わないままの私だったのだろう。母よりも背が低くて、暇さえあればトナカイたちにつけた名前を得意げにそらんじて、守るべき弱弱しい子供だった私。それから、私を取り囲んでいた世界の全て。  私は父の顔を知らなかったけれど、叔父が父の代わりをしてくれた。それから祖父と、伯母とその子ら。あの頃私は、たくさんの命に囲まれていた。母はその命ごと私を呼びたかったのだ。  母の肉体は、鈴と一緒に氷河のたもとに埋めた。母のために鈴を残し、そして私と母を繋ぐよすがとして、私は母の首飾りをもらうことにした。これは、母が祖母から受け継いだものだ。祖母も、祖母の母からこれを受け継いだのだという。これをかけていれば、私が死んでしまった後、私を埋葬するものが誰もいなくても、私のたましいは母のもとへと飛んでいける。  ああ、だけど私は、とうとう一人になってしまった。  神様が、早く目を覚ませばいい。そうしたら一人ではなくなる。でも、神様は私と一緒に油スープを飲んでくれるだろうか。母が行ってしまったから、スープは飲み切れないほどにある。私が生きている間に、飲み切れないほどあるのだ。 ***  母の遺体をきちんと埋葬できなかった後悔は、結局後々まで私を苦しめることとなった。死者を弔うという行為を、それほど重要視するような人生観ではなかったはずなのだが、人間の価値観というものは案外容易く変化するものだったようだ。母の遺骨は、きっとまだ肉を引っ掛けたまま、海洋を漂っているだろう。生体を分解するような微生物すら激減した今、私たちは自然へ還ることすら困難になってしまった。  暇さえあれば、私は自分の死後のことを考えた。あらゆるものの死が蔓延した世界において、私一人の死がいったいどれほどの重みを持つというのか。私の死体は土にも水にも風にも還ることなく、永遠に地上に放棄されるのか。それを思うと恐ろしく、なぜ多くの人々がたましいというものを信じるのか、その真意がようやく理解出来た。  たましいが実在するのならば、人間に孤独はない。生と死は分かたれることなく、たましいで繋がっていられる。孤独ほど人をさいなむものはない。私はとうとう一人になってしまった。母を失い、とうてい家族とは呼べない他人と一緒に、シェルターに詰め込まれているだけの孤独な人間だ。  いや、それは一部間違いだ。私は孤独ではない。彼女がいる。終わりを迎えつつある世界で、双方これ以上ないほどくたびれながらも、なお私たちは惹かれ合った。母の遺体を泣く泣く海へ流さねばならなかったとき、そばに彼女がいてくれなければ、私はとうてい人間としての精神を保てなかっただろう。  彼女は母の胸から金のネックレスを取って、「これはあなたが持っていなくては」と言い、私の首にかけた。今になって思えば、彼女はああすることによって、私を孤独から救おうとしていたのだ。もう会えない誰かとの繋がりを、目に見えるものとして手元に置いておけるように。  しかしそれでも、私はどうしても孤独だった。孤独ではないはずなのに、いや、孤独ではないからこそ、どうしようもなく孤独だった。死はいつか私と彼女を分かつ。いつか私は、彼女の隣にいられなくなる。その時を思うと、どうしても……どうしようもなく……。 ***  昔、神様は今よりももっとたくさんいたのだと祖父が話していた。まるで眠っているかのように氷の下に横たわり、横たわったままで空のあらゆる動きを管理してくれていたのだと。だから今のように、夜と朝の交わりが、何か月も続いたりはしなかったのだ。夜と朝はきちんと交互にやってくるし、毎日のように雪が降ったりもしなかった。一年のうち少なくともひと月くらいは暖かな日が続くこともあり、人々はそれを春と呼んでいた。春には雨が降り……そこで私は、祖父の話に口をはさんだ。雨ってなあに? 幼い私の純粋な疑問に、祖父は悲しそうに眉をひそめた。暖かければ、雪は雨になるのだ。暖かければね。  私は雨を知らなかったし、外がまるで火を焚いた家の中のように暖かくなるなんて、とても信じられなかった。それでも、昔はそうだったのだと祖父は言った。けれど、氷の下の神様がひとり、またひとりと干からびて失われていくうちに、世界は少しずつ寒くなり、夜と朝の境目も曖昧になっていった。  神様は、いつ目を覚ますの? 私の問いかけに、祖父はどこか諦めたふうに首を振った。いつか。いつの日か。 「本当に、神様は目を覚ますのかしら。そして神様が目を覚ましたら、本当にこの世界は、楽園になるのかしら」  それは皆が信じていることではあったけれど、今となっては、孤独に耐えながら続いていく、耐えがたい生のよすがにすらならなかった。皆、死の世界へ行ってしまったのに、今さら神様が目を覚まして、地上に楽園が広がったところで、一体どうして喜べよう。  それでも、一人でいるよりはましなのかしら。神様が目を覚ませしたら、一緒に油スープを飲んで、雪の原の向こうまでトナカイを追って行って……そういえば、暖かければ、もうトナカイを飼う必要もないのだったかしら。でも私、トナカイはずっと飼っていたい。  あなたはトナカイが好きなのね。母の声が聞こえた。母が鳴らす鈴の音も聞こえた。ああ、母が呼んでいる。すぐに行かないと。そうは思うのだけれど、体が動かなかった。私は石の上に腰かけて、氷の下を覗き込んだまま動けなかった。氷の下には、神様が眠っている。まだ干からびていない神様は、もうこのおひとりだけだ。目を覚ましてくれないかな。目を……。 ***  別れは、死を待たずしてやって来た。長い年月の中でシェルターの設備は劣化し、もはやこれまでのように大人数を養えるほどの力は残っていなかった。シェルターに残るか、シェルターを去るか。その選択を迫られたとき、彼女はシェルターの外に出て、自給自足の生活をするグループに入ると言った。彼女は冷凍睡眠処置を拒否したのだった。彼女の目は真剣だった。別れまでの貴重な数か月を、私たちは互いを説得するために費やした。  私は彼女に、共にシェルターに残り、冷凍睡眠処置を受けようと懇願した。処置を受けて地下に眠り、いつの日か地上がまた元の通りの環境を取り戻したときに目覚め、また新たな生活を始めよう。それが最善の選択なのだと。 「どうして、また元の環境に戻ると信じていられるの?」  彼女の言葉は鞭よりも鋭く私を打った。 「もう何年もシェルターにいるのに、外の世界は全然良くならない。私たちはもう、この世界を受け入れるしかないのよ。人類は、過酷な環境でも工夫して生きてきたでしょう。砂漠や極地に生きた遊牧民たちと同じことよ。生きていくの。外の世界で、生きていくのよ」  私にはどうしても理解できなかった。未来が今より良くなることはないと信じる、彼女のその前向きな絶望が理解できなかった。 「いつか、いつか元通りになるよ」  そう繰り返しながらも、私は自分の言葉にいささかも説得力がないことに気が付いていた。この災害はいつか終わる。あの日テレビから流れてきた緊急放送は、いつまでたっても私の耳の中に流れ続けていた。しかし、いつか途切れるはずだ。悪夢はいつか終わる。いつか……。 「いつかなんて来ないのよ」  彼女は、かさかさに乾いた声で言い切った。 「私たちの方から、出向かなければ」  私たちの最後の夜、私たちはこれまでのいさかいを全て忘れてキスをした。彼女にキスをしながら、私は母の形見のネックレスを、彼女の首にかけた。彼女が孤独から守られるように。孤独の中で、目に見える繋がりとして輝き続けるように。 「私たち、もう会えないのね」  彼女は泣いていた。私は彼女を抱き寄せて、その頭に頬ずりをする。 「また会えるさ。たましいになって」  現実主義者の私が、たましいなどという言葉を出したことが、彼女には意外だったようだ。私にも意外だった。けれど、私たちにはもうそれしか残っていないのだった。今生の別れを前にして、私たちが縋れるものは、目に見えないものしかない。 「そうね、たましいになって」 「いつか、たましいになって」  私たちは一晩を抱き合って過ごし、そして朝を迎えた。彼女はシェルターを出て、地上へと進出する。そして希望を同じくした数百人の仲間たちと共に、かつての遊牧民たちの生活を模倣しながら、コミュニティを広げていく。  私は地下のシェルターへ残り、冷凍睡眠処置を受ける。外の環境……気温や日照時間、そういったものをコンピュータが総合的に解析し、至適環境と判断されれば、自動的に解凍され、目を覚ます。  私が目覚めるのはいつになるだろうか。百年後か、千年後か……いずれにせよ、その時にはもう、彼女は世界のどこにもいないだろう。しかし私たちは、また会える。いつか、たましいになって。地上と地下、分かたれた世界を飛び越して。 「さようなら」  冷凍睡眠装置のガラス蓋の内側で、私は呟いた。さようなら、私の愛した世界。灰に覆われた暗黒の空、母の骨肉が泳ぐ海、彼女が懸命に生きていくであろう白銀の大地。  いつか、私が目覚めるその日まで。さようなら。 ***  目を覚ました。少しの間、眠ってしまっていたらしい。短く、断片的な夢を見ていたような気がする。それは昔、まだ家族が生きていたころの夢だったかもしれない。あるいはもっと昔、私が生まれる前の、私が知らない世界の夢を見ていたかもしれない。  焚き火は消えかかっている。私は油スープの入った水筒を取り出して、少し飲んだ。口の中をつるつると流れていく油は、私の体に熱と活力を与えてくれる。  ほう、と一息をついたとき、小さな音がした。氷にひびが入る音とも違う。トナカイの角がこすれる音とも違う。小さな硬い音は、もう一度、確かに静寂を揺らした。 ***  目を覚ました。一体どれくらいの間、眠っていたのだろうか。冷凍睡眠が解けたにしては、少しおかしい。何のアナウンスもない。世界はどうなったのだろう。私の知る「元の世界」に、戻ったのだろうか。  冷凍睡眠装置の内部から、操作パネルをいじって情報を得る。システムはずいぶん劣化していたが、なんとか最低限の情報が得られた。いわく外気温は氷点下だし、ここ九十日間の日照時間のデータも正常ではない。正常環境ではないのに解凍されたということは、装置そのものに何らかのトラブルが発生し、安全システムが作動したということだ。そのまま、隣接する冷凍睡眠装置の作動状況を確認する。そして、私の眠っていた装置を除いて全ての冷凍睡眠装置が、生命維持機能を喪失していたことを知る。そちらの方は、安全システムすら機能しなかったらしい。  長い長い眠りの結末を、私は瞬時に悟った。私や、私と共に眠りについた皆が望んでいたいつかは、結局来なかったのだ。  不思議と、絶望はなかった。この結末をどこか心の隅で予想出来ていたような気がする。溜息をついたとき、小さな音がした。冷凍睡眠装置の機械音とは明らかに違う。小さな柔らかな音は、もう一度、確かに静寂を揺らした。  それは、雪を踏みしめる音だった。冷凍睡眠装置のガラス蓋を、誰かが覗き込んでいる。 「……神様?」  ガラス蓋を押し開けて上体を起こすと、その少女は私を神様と呼んだ。私は首を横に振る。 「神様じゃない。私は、ただの人間だ」  少女の顔に失望が浮かぶ。しかしそれも少しの間だけで、すぐに同じ顔に、強い意志の色があらわれた。それは昔、私がひどい熱風邪をひいたとき、何が何でも治してやろうと枕元に詰めていた、母の表情によく似ていた。  少女は私を焚き火のそばに座らせて、温めたばかりのスープをくれた。塩気がなく油ばかりが浮いた白いスープは、しかしとても美味かった。少女はしきりに、私の体のことを気にしていた。私を決して死なせまいとする意志が、少女の瞳に光を与えていた。  私は少女の好意に感謝しつつ、二杯目のスープを飲む。不思議な気分だった。長い眠りから覚め、しかし渇望した正しい世界は目の前になく、ただ滅びの光景だけが広がっている。そこで私は、スープを飲んでいる。  滅び――そう、まさにこれは滅びそのものだった。シェルターのいくつかの設備を無理やり動かして、それを知ることになったのだが、私たちは滅びの世界に生きているのだ。  かつて私が生まれ育った文明は、小惑星の衝突により壊滅した。地下シェルターに避難して生き延びた人々は、冷凍睡眠処置を受けるグループと、地上で原始的な生活を試みるグループとに分かれたが、結果的にそのどちらも長続きはしない運命だった。  冷凍睡眠装置は、当初想定した以上の長期間作動により次々と不調をきたし、中の人間は眠ったまま死んでいった。地上で生きようとしたグループは……長い年月の間に、彼らの身に起こったことの記憶は具体性を失い、神話として語り継がれるようになった。そして彼らは、日に日に過酷になっていく世界の中を、わずかの家畜たちを伴って細々と生きた。  地上に生きた彼らは、そして地下に眠った私たちは、知るよしもなかった。隕石が衝突したその衝撃によって、地球は太陽を周回する軌道からはじき出されたのだ。地球はその地軸を不規則に揺らしながら、ゆっくり、ゆっくりと太陽から遠ざかりつつある。  そのデータを示したのを最後にして、機械は二度と起動しなかった。雪上に座り込み、茫として現実を噛みしめる私の肩を、少女がつつく。 「ねえ、神様。行くところがないなら、私と一緒に行きましょうよ」 「だから、神様じゃないったら」 「何でもいいの。一緒に行きましょう」 「どこへ」 「ずっと向こうへ。トナカイを追って、ずっとずっと向こうへ行くの」  私は少女の示す先を見た。地平線の上には、私が知るよりもずいぶん小さく頼りない太陽が、ぼんやりと光っている。夜でもなく朝でもない、その光は白銀の大地を長く伸び、私たちのもとへとかろうじて届いている。私は大気をつらぬく光線を目で追って、そしてその到達地点に、なにか煌めくものがあることを知った。少女の胸に、金色のネックレスが輝いている。  そうか。あるいは私は、再会を果たしたのかもしれない。長い生と死の先に。純白の滅びの上に。夜と朝の睦みの中に。 「よし、では行こう」  油スープを飲み、私たちは歩き始める。ずっと向こうへ。 <完>
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