ドゥーア・ディンゴ

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ドゥーア・ディンゴ

 母ウヌーアがヒラクのもとを訪れることはなくなった。  ヒラクも聖堂に祈りを捧げに行くことはない。  むなしく過ぎていく日々、ほとんどの時間を、ヒラクはフミカのいる中庭で過ごした。  ここは自分がいるべき場所ではない。  そう思いながらも、ヒラクは同じ場所にずっと留まったままだった。  母の言う「外」に出る気にもなれなかった。そこにあるのは混乱だけだ。  プレーナのことはあいかわらずわからないまま、そして今いる自分が何者であるのかもわからないまま、疎外感に苛まれながら、ヒラクは毎日を過ごしていた。  母であるウヌーアはもう自分を必要としてはいない。だから会いにこない。  ヒラクももう会いたいとは思ってはいなかった。会っても、話しても、触れ合っても、確かめられるのはお互いを隔てる壁と埋められない溝だけだ。  フミカは何も言わない。何も言わず、そばにいるヒラクをじっとみつめ、ためらいがちに静かに微笑む。そんなフミカを見ていると、ヒラクは何だか切ないような、悲しい気持ちになる。  いつも一人でいるフミカ……。何かをあきらめたような目をした箱庭の少女……。  ヒラクは自分の寂しさ、むなしさを、フミカの心に置き換えた。寂しさを寂しさで埋めあえば、心が通い合う気がした。それは人形への愛着に近い感情だった。  実際フミカは人形のようだった。ガラス玉のような琥珀色の瞳は、ただ目の前のものを映し出しているだけのように見える。そこに映るヒラクさえ、風景の中に溶け込んでしまっているかのようだ。  時々、フミカは、ヒラクが名前を呼んでも応えないことがある。何度か呼びかけると、驚いたような顔でヒラクを見る。そして戸惑ったようにぎこちなく微笑みかける。 「……何、考えてるの?」  泉のそばに寝そべって、フミカの長く艶やかな緑の髪をつまみながらヒラクが言った。 「……何も」  フミカは相変わらず何も見ていないような瞳でヒラクを見た。口元には微かに笑みをたたえている。それが彼女の表情をより無表情でとらえどころのないものにしている。 「おれのことは?」  ヒラクは上目遣いで探るようにフミカを見た。  フミカは言っている意味がわからないというようにほんの少し首をかしげてヒラクを見た。 「おれがここにいてもいなくても、フミカにはどうでもいいこと? おれ、ここにいてもいいのかな……」  ヒラクは自分の居場所を確かめたい思いでいた。それを人から与えてもらいたがっていた。自分が寄り所とする場所が、自分にとっての居場所であってほしいと強く願っていた。  フミカのくちびるが小さく動いた。 「あなたがいなければ、私はここに存在しない」 「どういうこと?」 「あなたが名前を呼ぶから、私、フミカでいられる。私はフミカ。フミカはここにいる」  そう言って、フミカは花がこぼれるように幸せそうに微笑んだ。 「フミカはフミカだろう? あたりまえじゃないか。それ以外になんて呼べばいいんだよ」  ヒラクが言うと、フミカの微笑がかげった。 「呼び名は他にもある。だけど『フミカ』の方が好き。他に代わりがいないから。私だけを示す名前だから」 「フミカの他の名前って何?」   ヒラクは気楽にフミカに聞いた。 「ドゥーア・ディンゴ」  ヒラクは耳を疑った。 「私は第二の地位の者」  フミカは、はっきりそう言った。 「……どういうこと? それっておれのことだろう? 第一の地位はウヌーア、つまり母さんだ。第二の地位はその娘……まさか……」  ヒラクはハッとしてフミカを見た。 「代わりなんて他にもいる。それが私でもあなたでも、本当はかまわなかったの。そうでしょう?」  フミカはヒラクを抱きしめた。  ヒラクはフミカを突き飛ばした。 「おまえは一体……」  フミカはひどく傷ついたような顔でヒラクを見た。 「一人にしないで。あなたがいないと、私は不完全なまま……」  フミカは両手をのばして、再びヒラクを抱きしめようとする。  ヒラクはそんなフミカを恐れるようにみつめながら、首を横に振り後ずさりした。 「寄るな……おれは、ドゥーアじゃない、ヒラクだ!」  ヒラクはその場から駆け出した。  残されたフミカは、頬を伝った涙で溶け出すかのように、徐々に姿をかすませて、はかなく音もなく消えた。
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