消えた少女

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消えた少女

 夜、ヒラクは、フミカのいる中庭に向かった。  眠ることができなかった。  水膜の空は暗く、発光する緑の水の明るさがぼんやりと闇に浮かぶ。  中庭を囲む廊下はひんやりと暗かった。  片側の壁のアーチ窓の向こうに、淡い緑の光に浮かぶひっそりとした庭園が見える。  ヒラクは中庭に足を踏み入れた。  水膜の空と同じ淡い緑の光が草木を浸す足下の水からも放たれている。  透明な遊歩道は闇の中に浮かぶように仄明るい光の道を伸ばしていた。  泉の前にはフミカが一人、佇んでいた。  フミカの透き通るような白い肌は薄闇の中で明るく浮き上がって見え、まるで体全体が発光しているかのようだった。 「……私を迎えにきてくれたの?」  フミカは静かに微笑した。 「……ちがうよ、フミカ」  ヒラクはフミカをにらみつける。 「フミカ?」  フミカは不思議そうにヒラクを見る。ガラス玉の瞳は怖いぐらいに透き通る。 「フミカはあなたの名前でしょう?」  その声は、夜の静けさに際立った。  ヒラクの背筋に冷たいものが走る。 「……ちがう、おれはヒラクだ。おまえがフミカだろう? それとも……おまえはもう一人のおれなのか?」  母が自分に名づけたかったという名前「フミカ」……。  母の望みが叶っていれば、フミカという少女がここに存在していたことだろう。  ヒラクは目の前のフミカこそ、もう一人の自分であると思った。  だが、それを認めることが怖かった。 「おれが母さんと暮らしていたら、おれはおまえになっていたのか?」  ヒラクは怖れを消そうとするように声を強めて言った。  フミカはその作り物のような琥珀色の瞳で不思議そうにヒラクをみつめている。 「答えろ。もしおれがフミカならおまえは誰だ? おまえはおれに成り代り、毎日母さんのそばにいたのか? 一体いつ? おれの知らない間におまえは、母さんを奪って、おれを裏切って……」  ヒラクは感情の高ぶりを押さえきれず、ぼろぼろと涙をこぼした。  自分が何に対して怒りを感じているのかわからなかった。  母が自分ではなくフミカを必要としていることが悲しいのか、フミカに嫉妬を感じているのか、それともフミカが自分に隠し事をしていたことに傷ついているのか……。  フミカはヒラクを抱きしめた。 「泣かないで。私たちはずっと一緒よ。私はあなたで、あなたは私。寂しくないわ。一つになるの」  ヒラクはフミカの腕の中で、うつむいたまま声を漏らす。 「一つになるってどういうこと? プレーナに還元されるってこと? そのために母さんと一緒に毎日祈っているの?」  ヒラクは顔をあげ、フミカを突き刺すように見た。  ヒラクは逆上して我を忘れていた。自分の言葉で胸を痛めつけながらも、自分を傷つけているのは目の前のフミカだと思い込んだ。  ヒラクはフミカをその場に押し倒し、そのまま馬乗りになった。 「おれはヒラクだ。たとえここにおれの居場所なんてなくっても、おれはヒラクだ、ヒラクだ、ヒラクだ! おまえが、おれの居場所ではなかったのだとしても!」  ヒラクはフミカの細い首に手をかけた。涙がぼろぼろと溢れて、見下ろすフミカの顔に落ちる。 「消えてしまえ……! そうすれば、おれはおれでいられる。おまえさえいなければ……」  思わず口をついて出た言葉を、ヒラクはすぐに後悔した。  フミカは瞬きもせずに泣いていた。  ヒラクはフミカの首から手を離し、声を張り上げて泣いた。  フミカはヒラクに組み敷かれたまま、ヒラクをじっと見上げている。  ヒラクは手の甲で涙を拭い、何も言わないフミカを見下ろした。 「フミカ……いや、ちがう。ヒラクとでも呼べばいいの? 名前は何? 答えてよ」 「……私に名前なんてない」  フミカは悲しそうに言う。  そして震える手をのばし、ヒラクの頬にそっと触れた。  フミカはヒラクをみつめて言う。 「私、あなたになりたかった……」  そうして一筋の涙が、こめかみからつたい落ちると、フミカの姿ははかなく消えた。  ヒラクはその場に一人きり、いつまでも座り込んでいた。
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