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ヒラクかフミカか
それから毎日、ヒラクは中庭でフミカを探した。
だがフミカはヒラクの前に姿を見せることはなかった。
「いなくなった……。おれが消したのか?」
ヒラクは自分の両手をじっと見た。フミカの細い首の感触が、まだ手に残っている気がした。
自分はなんてひどいことをしたのかと、自己嫌悪で悔やむばかりだ。けれども一番認めたくないのは、そのことで得た安堵感だ。
ヒラクはどこかでほっとしていた。これで自分は消えなくてすむと思った。
ヒラクは自分を失うということを怖れていた。本来ここにいるべきはずなのは、母とともにここで生きてきたであろう「フミカ」という架空の存在だ。
五歳の頃を分岐点にして、分離した未来に生きる「ヒラク」と「フミカ」。
決してつながるはずのない二つの世界が重なり合ったとき、今度は「ヒラク」という存在が架空のものになり、消えてしまうと思った。
自分はフミカにとってかわられ、ヒラクとしての記憶も、行動も、何もかも、なくなってしまうのだと思った。
「ヒラク」は跡形もなく消えて、「フミカ」に統合されてしまう。そう考えると、ヒラクは虚無の闇にじわじわと侵食されていくようなおぞましさを感じる。死んだらただの骨になると言った父の言葉にぞっとしたときと同じ怖さだ。自分が消える、消去されるという感覚は、ヒラクにどうしようもない恐怖と不安を与える。
フミカは消えてしまったのか? その存在は消去したのか?
けれどもヒラクの心の中で、その存在は消えはしない。ヒラクにはそれが怖かった。フミカはいなくなったのではなく、自分の中に潜んでいるだけではないのかと思えた。フミカは自分を内側からのっとろうとしているのではないかとおびえた。
その考えを打ち消したくて、ヒラクは中庭の隅々まで、フミカの姿を探し求める。だが求めれば求めるほど、自分の中のフミカの存在が大きくなっていく。
ヒラクは中庭を飛び出して、聖堂に向かって走った。
聖堂には母ウヌーアがいた。
ヒラクは息を弾ませて母の前に立った。
「……おれは誰?」
ウヌーアはじっと我が子をみつめる。その沈黙が何を意味するのか。ヒラクはごくりとつばを飲んだ。
ウヌーアはくすりと笑った。
「あなたはドゥーア・ディンゴ。第二の地位の者」
「そんなこと聞いているんじゃないよ」
ヒラクは苛立ちをあらわにした。
「母さん、おれの名前は何? ヒラク? フミカ? どっちなの?」
「……私の娘はあなただけ。第二のプレーナの娘は、あなたを置いて他にいない」
「でも、母さんはおれじゃなくてフミカと一緒にいたんでしょう? 毎日ここで母さんと一緒に祈りを捧げていたのはおれじゃない。フミカだ」
「……さっきから何を言っているの?」
ウヌーアは怪訝顔だ。
ヒラクは、ウヌーアには自分とフミカの見分けがついていないのだと思った。
母は今いる自分も毎日ここで祈りを捧げていたフミカも同一人物だと思っているにちがいない。それならば……。
ヒラクは母に打ち明けることにした。
「母さん、ここのところ、おれは一緒に祈りを捧げていないよね? どうして急にここに来なくなったのか不思議に思わない?」
ウヌーアは、ヒラクが何を言い出そうとしているのかまるでわからないといった様子だ。
「……おれじゃなかったんだ。今までここで母さんと一緒に祈りを捧げていたのはおれじゃなかったんだ。フミカだ。おれは、もう一人いたんだ。本来ここにいるべきはずのおれ。母さんが望むとおりのおれだ」
ヒラクは自分の言葉に悲しくなった。母の望む自分を自ら消してしまった。本当は、母は自分ではなく、フミカにいてほしいと思っているはずだ。それなのに……。
「それなのにおれは、おれがおれでいたいがために、フミカを消してしまった。だからフミカはもういない。いくら母さんがここで待ってもやってこない。一緒に祈りを捧げることはもうできないんだ……」
ヒラクはぼろぼろと涙をこぼした。
ヒラクの濡れた頬をウヌーアの手が優しく包み込んだ。
「おかしな子ね。どうしちゃったの? 一緒に祈りを捧げることはないってどういうこと? さっきまで一緒に祈っていたというのに」
ヒラクは凍りつくように表情を硬くした。
「さっきまで一緒にってどういうこと?」
ヒラクの声が震える。
「今日だけじゃないわ。毎日一緒にお祈りしているわ」
ウヌーアの言葉にヒラクは動揺した。
「だってフミカはもういなくなったんだ。それなのに毎日ここに来ているってどうして? おれとは別に存在し続けているの? 一体どういうこと?」
ヒラクは混乱した。
姿を現さなくなったフミカ。それでもまだ母と共にいる。そして自分もここにいる。ヒラクはどう解釈していいのかわからなかった。
「落ち着きなさい、ヒラク。あなたは今、変化の過程にあるの。あなたの中で聖なるものと不浄のものがせめぎあっている。だからいい子にしていたかと思ったら、そんなふうに突然わけのわからないことを言い出したりするのね。しっかりなさい。あなたはあなたでしかないの。……『フミカ』はここにはいない」
ウヌーアは小さな子どものかんしゃくをいさめるように言う。
だが、母の表情が一瞬曇ったのをヒラクは見逃さなかった。
「フミカがいないなんてどうして言えるの? 今だっておれの中にフミカが……」
「やめて!」
ウヌーアは鋭く言った。
「『フミカ』の話はしないで。ここは選ばれた者しか存在できない聖域なの。あなたは特別な人間なの。それでいいじゃない。何が不満なの? 何が気になるの? あなたはたった一人の選ばれた人間よ。他の誰でもないわ。偉大なるものの一部になれるの。素晴らしいことじゃない。他の誰もそんなことできないのよ」
突然取り乱した母をヒラクは呆然と見た。
「ああ、頭が痛いわ。あなたの中の不浄のものが私のことを苦しめる。今日はもうこれ以上話しかけないで……」
ウヌーアはヒラクのそばを離れ、祭壇の前にはい寄り、一心不乱に祈り始めた。
ヒラクは中庭に戻った。
フミカが消えていないのなら、また目の前に現れてくれるのではないかと思った。
だがフミカは姿を見せなかった。
ヒラクはひどく傷ついていた。
結局は母に拒絶された痛みをフミカに和らげてほしいのだろう。自分がその手で消し去ろうとした存在に……。
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