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ヴェルダの御使いの正体
ヒラクは羊の皮袋に羊毛をつめたものに上半身を乗せ、重みのある布を体に掛けて眠っていた。
目覚めたヒラクの目に飛び込んできたのは、木の骨組みに白い布が掛けられた天井だ。骨組みは放射状に広がってたわめられ、天井から壁まで布で覆われている。
布全体が水を含んでいるようで、木の骨組みが重みできしんでいた。布のところどころから水が染み出して、骨組みをつたって雫となって落ちてくる。
ヒラクが寝ていた場所にも水滴が落ちてきたところだった。
ヒラクは起き上がって部屋全体を眺めた。
木の扉がある場所以外は格子の骨組みがぐるりと壁を作り、床は円形になっている。床といっても、織物が何枚か折り重なるように敷いてあるだけで、隙間から小石混じりの土が見える。素焼きの瓶の他にはランプが置かれているだけだ。
やがて木の扉が開き、ヴェルダの御使いが部屋に入ってきた。
ヴェルダの御使いは黒装束を身にまとっていない。左前に前身ごろを重ね合わせた立てえりの青い長衣を着て、腰の辺りに黄色の長い帯を結び、皮のブーツの中に白いズボンを入れている。ヒラクと同じ鮮やかな緑の長い髪は、無造作に一本に束ねられていた。
ヒラクはヴェルダの御使いの顔を見て驚いた。
「母さん!」
ヴェルダの御使いの肌の色は、抜けるように白いというわけではなく、日に焼けて頬骨のあたりはうっすらと赤い。眉も太く、りりしい印象を与える。だが、その顔つき、琥珀色の瞳はまちがいなくヒラクの母ウヌーアのもので、瓜二つと言っても過言ではない。
「母さん……どうして……」
自分をみつめるヒラクの目に、ヴェルダの御使いは困ったようにぎこちなく微笑む。ヴェルダの御使いの目のあたりと口元には、うっすらとしわが刻まれている。
ヒラクが会ったウヌーアはもっと若かった。
一体どういうことなのか……。
ヒラクは混乱した。
ヴェルダの御使いはヒラクの前に腰を下ろした。
「まずは私が何者かということを伝えなければならないわね」
「……母さんでしょう?」
「……そうまちがえるのも無理はない」
ヒラクは、その言葉の意味がわからなかった。
ヴェルダの御使いの声は母ウヌーアそのものだ。だが雰囲気がどことなくちがう。それは着ているもののせいかもしれないとヒラクは思った。それほど目の前のヴェルダの御使いは母によく似ている。
だがヴェルダの御使いははっきりと言う。
「私はあなたの母親ではない」
「だって、その顔……、声だって……」
「あなたのお母さんは、私の双子の姉よ。私は妹なの」
「母さんの妹……?」
ヒラクは改めて目の前のヴェルダの御使いをじっと見た。母とは別人であると言われても、すぐには信じられない思いだった。
「プレーナで、お母さんに会えたんでしょう?」
ヴェルダの御使いはヒラクに優しく尋ねた。
ヒラクは黙ってうなずいた。
「彼女は水の結晶の館にいたの?」
「あの場所のこと知ってるの?」
ヒラクは驚いた。
「私も姉もあそこで生まれたの」
「どういうこと? プレーナで生まれた? 大体ここはどこなの?」
ヒラクは立ち上がり、確かめるように外に出た。
外は雨だった。
雨雲と砂漠が平行に広がり、どこまでも続いている。
だがここは砂漠の真ん中ではなかった。
後方に連なる山が見える。
山に草木はまるでなく、むき出しの岩と土が雨に濡れている。
周囲の砂礫の地面には白い布に覆われた半球型の小屋がいくつか散在している。
ヒラクが今出てきたところもそれらと同じ外観だった。
内部には人がいるのだろう。変わった家だとヒラクは思った。
アノイでは、草木のツルで縛った木を骨組みにして、萱か葦で壁と屋根を作った。ここではその代わりに白い布で骨組みを覆い、壁と屋根を作っている。
「ヒラク、中へ入りなさい」
ヴェルダの御使いはヒラクが飛び出した入り口から出て声を掛けた。
「どうしておれの名前知ってるの?」
ヒラクは不思議そうに尋ねる。
「話は中でしましょう」
ヴェルダの御使いはそう言って、半球型の小屋の中に引っ込んだ。ヒラクも続いて中に戻った。
中に入るとヒラクはヴェルダの御使いに矢継ぎ早に尋ねた。
「なんでおれの名前知ってるの? これって家? 他にもあるけど誰が住んでるの? あの山の向こうはアノイの地なの? セーカはどこにあるの?」
「落ち着いて、ヒラク。一つ一つ説明するから」
ヴェルダの御使いはそう言って、自分の前にある敷物の上にヒラクを座らせた。
「まず、ここがどこにあるかだけど……。セーカから見て北西に位置する場所で、アノイは東の山の向こう。これは組み立て式の家。私たちは砂漠から砂漠へ、オアシスであるプレーナを求めて移動している砂漠の遊牧民よ。セーカの民には黒装束の民と呼ばれている」
「黒装束の民? ここにいる人たちが? 聖地プレーナを守っているって人たちのこと?」
「事実はそうじゃないわ」
ヴェルダの御使いは軽くため息をついた。
「この地が砂漠と化す前にこの地で暮らしていたのは、セーカの民だけではなかった。セーカの民のように一所に留まらず、遊牧生活を続けていた民族も存在した。彼らは、突然渇きの地となったこの砂漠で生き延びるためにセーカを襲い、水や食糧を奪った。プレーナ教徒たちは、大地を砂漠に変えたプレーナに対して恐れを抱き、砂漠の果てから現れる遊牧民が食糧や家畜を強奪することさえ、プレーナの怒りの表れだと考えた。
この状況下で、食糧の確保は狼神の旧信徒たちの役割だった。プレーナ教徒たちは、セーカを襲う遊牧民を神聖視し、遊牧民へ差し出す分の食糧も含めて、すべての負担を狼神の旧信徒たちに引き受けさせた」
「そんなの不公平じゃないか」とヒラクは口をとがらせた。
「そもそも狼神の旧信徒とプレーナ教徒の関係は対等ではないの。プレーナ教徒たちは、プレーナの怒りを買ったのはプレーナではない神である狼神を信仰した狼神の旧信徒たちのせいだと思っている。だから、同じセーカの民でありながらも、狼神の旧信徒のことは自分たちプレーナ教徒よりも罪深い存在だとみている。プレーナの怒りが静まるよう祈りを捧げるのがプレーナ教徒の役目であり、そのプレーナ教徒が生きるための労働をすることが、狼神の旧信徒たちの罪の贖いであると考えられたのよ」
「もとは同じセーカの民なのに……」
ヒラクは納得いかない思いでつぶやいた。
「プレーナからみれば同じではない。神は自分を信じる者を救うのよ」
「救われなかったら信じられなくなるんじゃないの?」
ヒラクがなにげなく言った言葉にヴェルダの御使いは言葉を失った。
「プレーナ教徒ばかりひいきする神さまに救いなんて求めたって仕方ないじゃないか」
事実、狼神の旧信徒たちは自分たちだけが労働の負担をかけられることを納得しているわけではなかった。プレーナ教徒への不満はそのままプレーナへの恨みとなり、狼神の旧信徒たちの中には、プレーナに封印された狼神こそが自分たちを救う神であると信じる者も少なくなかった。
「私には、狼神の旧信徒たちのことはよくわからないわ」
ヴェルダの御使いはヒラクの言葉をはぐらかすように言う。
「ただはっきりしているのは、プレーナ教徒たちがプレーナの怒りを静める手段を必要としていたということ。そして、プレーナの仲介者としての役割を砂漠の遊牧民たちに求めたということ。プレーナ教徒たちは砂漠の遊牧民をプレーナの守護者として偶像化し、遊牧民たちもプレーナ教徒が求める役割を演じるようになった。プレーナ教徒を通じて遊牧民がセーカの食糧や物資を得るということではこれまでと何も変わらない。ただ強奪する必要がなくなったというだけ。遊牧民が望むものをプレーナ教徒たちは差し出してくる。遊牧民たちはただそれを受け取ってやればいいだけ。そんな関係がずっと続いていた」
「それっていつの話?」
ヒラクはヴェルダの御使いに尋ねた。
「遠い昔よ」
「誰から聞いたの?」
「見たのよ」
「見た?」
「私には、人には見えないものが見える。私はその当時の遊牧民たちがオアシスで話している場に確かにいた。だけど彼らには私の姿は見えていなかった」
「それって……」
ヒラクの胸は高鳴った。今ヴェルダの御使いが言っているのは、自分が実際に経験したことと驚くほどよく似ている。
ヒラク自身も人には見えないものを自分だけが見えていたということがある。それが事実でなのか、それともただの想像か、ヒラクには判別がつかなかった。時にはそれが他の誰かの記憶の一部だったり、言い伝えだったり、誰も知らない出来事だったりすることもあった。
いずれにしても、それが現実として実際に見えるのは、ヒラク以外にはいなかった。しかしヴェルダの御使いは、ヒラクと同じ経験をしている。
今まで誰にもわかってもらえなかったこと、自分でも理解に苦しんできたことが、今ここで明らかになるのかもしれないと思うと、ヒラクの胸は高ぶった。
【セーカの三神図】
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