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聖地が生まれた理由
ヴェルダの御使いは、すべてをヒラクに話すことにした。
「キルリナは他の娘たちとともに聖地プレーナを目指すためにセーカを旅立った。だけどそもそも黒装束の民がプレーナへの捧げものに若い娘たちを要求したのは、遊牧民の男たちにあてがうためだった。遊牧民たちはプレーナを信じてはいないし、ましてや聖地の在り処など知りはしない」
プレーナ教徒の若い娘たちは、食糧や家畜同様に、プレーナへの捧げものという名目で遊牧民たちに略取されているにすぎなかった。娘たちの中にはそのまま遊牧民の妻となる者もいたが、セーカに戻ろうと逃げ出して砂漠で果てる者、慰み者となることに耐えられずに自ら命を絶つ者もいた。
いずれの娘たちも自分たちの運命を呪い、プレーナへの信仰は捨て去った。
聖地など初めからなかったのだと自分自身に言い聞かせ、プレーナの存在を否定した。
だが、キルリナはちがった。
「多くの娘たちが聖地に到達するという目的を見失う中、キルリナだけは最後まであきらめることはなかった。プレーナを信じ、聖地にたどり着くことを信じていた。そんな彼女の想いが、聖地プレーナを呼び寄せた」
それは、「ヴェルダの御使い」として黒装束の民である遊牧民たちと行動を共にしていたヴェルダの御使いの母が見た光景だった。ヴェルダの御使いの母もまた、水に宿る過去の記録を見ることができた。
「この砂漠にはオアシスがある。移動する水場よ。プレーナは砂漠のどこに現れるかはわからない。ただその痕跡はわずかに残る。プレーナが留まっていた場所には、ほんの束の間、かつての大地が甦る。草木が生え、泉も湧くわ。遊牧民たちはその水場を求めて移動する。そしてオアシスが消失するまでそこに留まる。キルリナの痕跡はオアシスにも残っていた」
ヴェルダの御使いの母はそこで過去のキルリナの姿を見た。
キルリナはオアシスに湧いた泉に祈りを捧げていた。プレーナと一つになること、愛する者への想いを遂げること、それが彼女の願いだった。
この時すでにキルリナは、自分の中にザカイロとの間に芽生えた新しい生命が宿っていることを知っていた。その愛の証とともにプレーナに到達することを彼女は望んでいた。
キルリナが泉に向かって祈りを捧げていた時、突然オアシス全体が緑の眩しい光を放ち、水のようにうねりをあげて、キルリナの姿を呑み込んだ。
キルリナは光と水に溶け込むようにして姿を消した。
遊牧民たちは誰一人として気づかなかった。
ただ、オアシスが消失するとともに娘の一人も姿を消したというだけだった。
「キルリナは祈りの場を探していた。自分と自分の子どもが安心して過ごせるためのプレーナの守りの館を求めていた。そして生まれたのが水の結晶の館。それはキルリナの望みが生み出した聖地プレーナであり、誰もそのような聖地を想像した者はいない。そして彼女は自分の子どもを守るために、外界からの侵入者を拒んだ。そして一人あの場所で、女の子を産み落としたの。それが私の祖母で、ヒラクにはひいおばあさまにあたる人よ」
出産後、失われた体力がそのまま回復することはなく、キルリナは体を弱らせていった。それでもプレーナに祈りながら、子どもが歩けるようになるまではと命を削るようにして育てた。やがてそれも限界となり、彼女は生命の終わりを悟る。
「キルリナの心の中にはいつもザカイロがいた。いつか自分の子どもと一緒にザカイロの元に戻りたいとも願っていた。けれど彼女はそれが叶わないこともすでに知っていた。それでも彼女には執着があった。幼い我が子を一人残しておくこともできない。そんな彼女は自分がプレーナそのものになることを望んだ。あまねくプレーナとなることで、愛する者のそばで永遠に生き続けたいと」
ヴェルダの御使いはまるでその目で見てきたことのように話す。
実際にヴェルダの御使いは水晶の館に宿るプレーナの記憶を読み取っている。
ヴェルダの御使いは、聖室で横たわる自分の曾祖母と傍らに寄り添う祖母の姿を見たのだ。
『おかあさん、どうしたの? どこか痛いの?』
まだ三歳にも満たないだろう幼い女の子が心配そうにキルリナの顔を覗きこんでいた。
『だいじょうぶよ。よく聞いて。お母さんはこれからプレーナそのものになるの』
『おかあさん、どこかに行っちゃうの?』
不思議そうに首をかしげる我が子を、キルリナは潤んだ瞳を細めて憐れむようにじっと見る。
『ごめんね。ここには私しかいないのに……。でもね、あなたにはプレーナの守りがあるわ。私もあなたもプレーナとともにある。ずっと一緒だから。さびしくないからね』
キルリナは女の子に向かって震える手をのばす。
『さあ、おかあさんをあなたの祈りでプレーナに送り出してちょうだい。そしていつかまた会いましょう。次にあなたがプレーナに迎えられ、一つのものとなるときに……』
キルリナは急に息をつまらせて、苦しそうに顔を歪めた。それでも必死に言葉を続け、溺れるように呼吸する。
『あなたは特別な子……私の大事な……たった一人の……』
女の子はどうしていいかわからずただおろおろとしている。
キルリナの目が薄く濁る。
その目はもう我が子の姿をとらえることはできなかった。
『私はプレーナ……永遠にともにある……プレーナそのものになる……いつも、あなたとともに……』
この言葉を、キルリナのたった一人の娘である、ヴェルダの御使いの祖母はずっと忘れなかった。
残されたヴェルダの御使いの祖母は、キルリナがプレーナになったのだと信じた。
そして母の姿を思いながら、一人、水晶の館でプレーナへ祈りを捧げ続けた。
やがてその祈りはプレーナを母キルリナの姿として擬人化した。
キルリナの娘は母であるプレーナを崇拝し、母が言い残した言葉どおりに自分もプレーナと一つになるのだと信じた。
「キルリナはプレーナそのものになることで自分の想いを残すことができると思っていたけれど、プレーナは祈る者の想いで姿も形も変えてしまう。皮肉なことにあなたのひいおばあさまがプレーナとなった母親のために捧げた祈りで、新たなプレーナが生まれた。キルリナの面影を宿すプレーナは、もはやキルリナ本人とはちがうものになっていた」
ヒラクの曾祖母は、自分はただ一人のプレーナの継承者であるプレーナの娘だと思った。そして、プレーナの娘の祈りでプレーナに送り出された母のように、自分もまたプレーナの娘の祈りでプレーナそのものになることができると信じた。
ヒラクの曾祖母は、キルリナが自分を呼ぶときの愛称こそそれを示していると考えた。
「ウヌーア」……それを、プレーナになるための「第一の地位」と解釈したのだ。
しかし本当はそうではなかった。
「ウヌーア」は「最初の子」という意味だった。
キルリナの中にはわずかばかりの後悔もあった。もしもプレーナを目指していなければ、ザカイロとの間に何人かの子を成し、セーカで家庭を築いていたのではないかという想いもあった。そしてどこかでまだそれが叶うのではないかと思っていた。ザカイロのもとに戻れるならば……。そんな願いも込めて、一人きりしかいない娘を「最初の子」と呼んだのだった。
「あなたのひいおばあさまは、自らを第一の地位であるプレーナの娘と称し、自分がプレーナになるためには自分に次ぐ第二の地位のプレーナの娘が必要だと考えた。そして受胎をプレーナに祈った」
「祈ると子どもができるの?」とヒラクはきょとんとして聞いた。
「祈りにより想いが現実化するのよ。この場合、父親となる存在が姿を現した。歴代のセーカの老主の中に、若い頃に女神プレーナと一つになったことがあると言う男がいたそうよ。その男は当時のヴェルダの御使いであった私の母に聖地へ再び迎え入れるように頼んだという。もしかしたらその男が私の祖父にあたるのかもしれない。でも母は、自分にひざまずくその男が自分の父親であるはずがないと言った」
ヴェルダの御使いは表情を曇らせた。ヒラクは、次から次へと浮かび上がる疑問に追われ、そのことに気づかない。
「聖地へ出たり入ったりって誰でもできるの?」
ヴェルダの御使いは、個人的な感情は排除して、ヒラクの質問に淡々と答える。
「たまたま祈りが重なったのよ。少なくともそのときその男は聖地に迎え入れられることを女神プレーナに祈っていた。そしてプレーナを具現化した水の結晶の館は、そこに住まうあなたのひいおばあさまの意識を宿して男を受け入れた」
セーカに住む敬虔なプレーナ教徒であったある男は、女神プレーナに恋焦がれるかのような思いで、聖地に強い憧れを抱いていた。
そんな男の眠りに女神プレーナは訪れた。女神は男が思い描いたとおりの姿をしていた。そして男を地下から外に連れ出した。
男が外に出てみると、夜の砂漠に淡く緑に発光する水辺があった。
女神プレーナは男を水辺に誘った。
男が女神を抱きしめると、男の体は水に沈みこむように女神の内部に溶け込んでいった。
気づけば男は水晶の寝台に眠る見知らぬ女の前にいた。
再び現れた女神プレーナは、寝台で眠る女の中に入り込んで一体化した。
寝台の女は緑の輝きを放ち、妖艶な笑みを浮かべて男を誘った。
男は夢とも現ともつかない状態で、女神プレーナが入り込んだ女を抱いた。
その女こそヴェルダの御使いの祖母である。
男はそれからも度々、女神プレーナに迎え入れられるようにして、ヴェルダの御使いの祖母のもとを訪れることになる。
「何だかよくわからないや。祈りとか意識とかさ」
ヒラクは投げやりな口調で言った。
ヴェルダの御使いは話に飽きた子どもをなだめるように言う。
「遠い話を聞いているみたいでつまらないかもしれないわね。じゃあ、あなたに関わりのある話をしようかしら。お母さんの話。聞きたくない?」
ヒラクはその言葉で再び興味を取り戻した。
ヴェルダの御使いは、さらに続く話に一呼吸置こうとするかのように立ち上がり、入り口の戸を開けて外の様子を見た。
「……止みそうにないわね」
天井を覆う布は雨を吸い込み、その重みで骨組みとなる木をきしませていた。骨組みをつたう雫は絶え間なく、その速度を増していく。
「まだ少しは持つかしら」
ヴェルダの御使いはそう言って、話を続けるために戸をしめた。
そしてヒラクは今まで知らなかった、母の物語を聞くこととなる。
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