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くちづけ
それからというもの、ヒラクは聖堂で母と一緒にプレーナへの祈りを捧げるとき以外は、中庭でフミカと共に時を過ごした。
母にも言えない思いをヒラクはフミカに打ち明けた。
フミカは静かに黙って聞いていることがほとんどだったが、それでもヒラクはフミカといる時の沈黙や静けさが好きだった。
「ねえ、フミカ、いつもここにいるの?」
ヒラクは隣に座るフミカの横顔を見て尋ねた。
フミカは泉の水面をみつめたまま、静かに黙ってうなずいた。
「いつも一人なの?」
「……そう、一人」
フミカは息を漏らすように言う。
「寂しくない?」
「……寂しい?」
「うん、一人で、話し相手もいなくて、寂しくないの?」
「あなたは寂しいの?」
「おれは……」
ヒラクはうつむいた。
「寂しい……のかもしれない」
「あなたは一人なの?」
「ちがう、母さんがいる。でも……寂しい……」
「……なぜ?」
「なぜ? なぜだろう……。今まで、母さんがいなくて寂しいなんて思ったことはなかった。そんなこと、考えようともしなかった。なのになぜ、一緒にいる今が寂しいんだろう。離れていた分寂しいのかな……。だけどもう会えたのに、一緒にいるのに……。でも埋められない。おれの中の何か……。心の中にぽっかりとした穴がある。母さんはそれを埋めてくれない。埋めてほしいのに埋めてくれない。だから寂しいのかもしれない」
フミカは透き通る瞳でヒラクをみつめる。
そして静かに呼吸するように語りかける。
「その穴は、もう一人のあなた。あなたの欠けた部分。完全じゃないから寂しい。不完全だから求める。私も不完全な欠片。……同じね」
フミカはヒラクをじっと見る。
「寂しいのは一人だからじゃない。完全なものになれないから寂しい。求める気持ちがあるから満ち足りない」
「もう一人のおれってどういうこと?」
ヒラクは尋ねるが、フミカはただ寂しそうに微笑みかけるだけだった。
「秘密の遊びをしましょう」
急にフミカはそう言って立ち上がった。
そして遊歩道のうちの一つを駆けだした。
ヒラクも後を追いかけた。
遊歩道の脇にある大きな樹木の前でフミカは足を止めた。幹には小さな穴があいていて、木の破片で栓をしていた。フミカはその栓を引き抜いた。
「本当はいけないことなのよ」
いたずらっぽく笑うフミカの表情は別人のように明るかった。
少しすると、穴からどろりとした飴色の樹液が出てきた。
フミカは穴に口をつけて飴色の樹液を吸った。
「やってみて」
フミカはヒラクを見て言った。
ヒラクは少し戸惑いながら、同じように樹液の滴る穴に口を近づけた。
樹液はかすかに甘く、青臭いような木のにおいがした。それは聖堂の香炉の煙の香りに似ている。
ヒラクがくちびるを幹から遠ざけると、隣に立つフミカがまた同じ場所にくちびるをつけた。
それを見て、ヒラクの胸は高鳴った。
胸がどきどきして体が熱くなった。
そんなふうになるのはおかしいと思ったが、自分が女である自覚はヒラクにはまだない。かといって、男としての感覚が育っているわけでもない。
ヒラクは自分の感情を説明づけることができずに、ただ戸惑っていた。
そしてヒラクはハッとして顔をあげた。
フミカの顔が目の前にあった。
フミカのくちびるがヒラクのくちびるに触れた。
甘い樹液の味がした。
ヒラクは驚いて目を見開いた。
「本当はいけないことなのよ」
そう言ってフミカは悪戯っぽく笑った。そしてヒラクを抱きしめる。
フミカの細い肩が震えていた。
「私は欠けてしまった。だから完全にならなければいけない。満ち足りればもう求めない。完全になれば寂しくない」
震える声はか細くて、耳を澄ましてやっと言葉が聞き取れる。それはヒラクの心の隙間にそっと忍び込んでいく。
「どうしたら完全になれる?」
ヒラクはフミカが言う不完全さを自分の中の空虚さにあてはめた。
「私が私じゃなくなればいい。求められるものになればいい。価値あるものになれば、もう寂しさは感じない」
「どうすれば、価値あるものになれるというの?」
ヒラクは、まるで自分がそれを望んでいるかのようにフミカに尋ねた。
フミカはしばらく黙り込み、そしてヒラクから離れた。
「特別な存在になればいい。そうすれば人は求める。愛される。人に必要とされるほど、私は価値ある存在になる」
そう言って、フミカは遊歩道を駆けだして、樹木の陰に姿を消した。
ヒラクはその場にただ一人立ち尽くした。
口づけして、抱きしめて、そして置き去りにしてしまう……、そんなフミカの行動が、ヒラクの心を悩ませる。
受け入れればいいのか、追いかければいいのか、どう応えるべきかもわからない。
困惑の中にもどこか寂しさの入り混じる後味の悪さがヒラクの胸に残った。
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