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寂しさと価値
「今日もお祈りはちゃんとしたの?」
水晶と樹木の聖室に、母はヒラクを訪ねて言う。
夜、眠る前の確認だ。
ヒラクはあいまいにうなずく。
「最近は一人でも祈りを捧げられるようになったのね。えらいわ。でも明日は一緒に祈りを捧げに行きましょう」
「ちゃんと一人でも祈れるよ。別に一緒じゃなくてもいいだろう?」
ヒラクは不機嫌に言った。
母の関心は、ヒラクがプレーナに祈りを捧げたのかどうかにある。そのことをヒラクはおもしろくなく思うようになっていた。
「どうしたの? どこか具合が悪いの?」
表情を少し強張らせながらも、母は笑顔を崩さず言う。
その言動の一つ一つがヒラクに小さな失望を与えた。
時々ヒラクは、自分の要求に応えない母親にかんしゃくを起こす子どものような気持ちになる。
では母に何を望むのか? 何をしてほしいというのか? ただ抱きしめて、優しくして、そばにいてくれればそれでいいのか?
いや、それで満足できたなら、このような苛立ちはないはずだと、ヒラクは薄々気づきはじめている。
「ヒラク、今はもう私以外に話をする人なんていないわよね?」
そう母が聞いてきたときも、それは自分への関心ではなく、人から何かよけいなことを聞いていないかという心配だというのは、ヒラクにもなんとなくわかった。
「ここには他に誰もいないだろう? それとも誰かいるの? 会ってはいけない人でも?」
ヒラクは探りを入れるように聞いた。
母はフミカのことを知っているのだろうか?
だが母は笑っただけだった。
「何を言っているの? ここはプレーナに最も近い選ばれた者だけが住まうことができる場所なのよ。私たちの一族以外には存在することもできないわ」
「一族って?」
それはヒラクも聞いたことのない話だった。
「そうね、あなたにはまだ話していなかったわね。いいでしょう。あなたは正当な継承者。私を継ぐ者。時は近いわ……」
ヒラクの母は、ヒラクの目をじっと見て、緑の髪を指ですいた。
「プレーナは偉大なる女神よ。いつまでも若々しく衰えることはない。母であり娘であるのがプレーナなの。プレーナの娘は一人きり。たった一人選ばれた者がプレーナの娘。つまり、私でありあなたよ。母であるプレーナと一つのものとなり、娘から母になる。母は娘と同化する。そして永遠に生まれ、回帰する」
ヒラクは母の言うことがまったく理解できない。
それでも、その言葉には納得できないものがあった。
「そしたらおれはいなくなっちゃうの? 母さんも? 消えちゃうの? そんなの嫌だ!」
「おかしなことを言う子ね」
ヒラクの母はくすりと笑った。
「より偉大なものに還元されるだけよ。いい? 私たちは選ばれた者なの。特別なの。プレーナは何よりも尊い存在。そのプレーナと一つになるということは、どんなことよりも価値のあることなのよ」
「価値……?」
ヒラクは、フミカのことを思い出した。
価値あるものになれば寂しくないと彼女は言った。
だがその価値とは何なのか。
ヒラクはプレーナと一つになるということが、素晴らしいこととは思えなかった。
それでも母がそれを価値あることとみなすなら、それはヒラクにとっても価値のあることになるのだろうか。
母にとって価値あるものに自分がなれば、母に愛してもらえるのだろうか。
そして自分は満たされるのだろうか。
それが、フミカの言う、価値あるものになれば寂しくないということなのか……?
ヒラクにはわからなかった。
「……母さんは、寂しくないの?」
ヒラクは母に尋ねた。母は不思議そうな顔をする。
「私が? どうして? 私は常にプレーナとともにある。選ばれた者だもの。特別なの。寂しさなんて感じる必要がないでしょう?」
「おれは……寂しいよ……」
ヒラクはしぼりだすような声で言った。
「だいじょうぶよ」
母はヒラクを抱きしめた。
「あなたは、自分がどれだけ特別な存在であるかをまだ何もわかっていないの。あなたは生まれながら素晴らしい種を持っている。素晴らしい実りを得る種よ」
「……実がなるかどうかなんて種の段階でわかるもんか」
ヒラクは反抗するように言った。
「わかるわ。あなたは選ばれた子だもの」
「選ばれていなかったらおれはなんの価値もない人間なの?」
「そんなこと考える必要はないわ。あなたは選ばれた。だから特別なの。偉大なるプレーナの御意志よ」
「……おれの意志は?」
「プレーナと一つになること以外に大切なものなんてないわ」
「……」
ヒラクは納得がいかなかった。
なぜと問われればわからない。
だが、その反発こそがヒラクの意志であると言えた。
「……とにかく、この場所から出てはだめよ。外には穢れがあるわ」
「穢れって?」
「私たちより下等な者がこの場に祈りを捧げているの。救いを求める者たちよ。関わらないようにね。私たちとはちがうのだから」
外というのはフミカのいる中庭のことだろうか?
いや、ちがう……。
ヒラクは聖堂の祈りの声を思い出した。
祈りを捧げていた多くの娘たち。彼女たちはどこから現れたのか。
ヒラクはふとある場所を思い浮かべた。それは、聖堂の祭壇の反対側にあるアーチ型の扉の向こうだ。
(明日はあそこに行ってみよう)
そう心に決めてから、ヒラクは目を閉じ、眠りについた。
扉の向こうで何が待つかもわからずに……。
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