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その余市港に翔の姿があった。翔は漁船の一つに近づいて声をかけた。
「すみません、神威岩まで連れて行ってくださいませんか?」
「お兄ちゃん、東京から来たって人だな? 地獄穴を探しているのか?」
「そうです。お願いします」
逞しい相貌の中年の漁師はじっと若者を見つめた。
「乗りな」
「ありがとうございます」
漁師は何も言わなかった。地獄穴伝説は余市に暮らす者ならほとんどの者が知っている。亡くした恋女房を惜しむ漁師が海に身を投げたに過ぎない物語を、ロマンチックに語り継いできたのは、この余市の町が積丹ブルーの海に囲まれ、リンゴの花香る情緒あふれる町だからだ。
漁師は、愛する者を失った若者の心を思いやると、ただの言い伝えだとは口にすることができなかった。漁師はゆっくりと口を開いた。
「神威というのはアイヌ語で神のことなんだ」
「そうですか」
「神が宿る場所だと思わないか?」
「ええ、空の青、海の青が融合する場所。まさに神々が群雄割拠する聖域だなと感じました」
「そうだな。だからこそ生まれた地獄穴伝説なんだろうな。大自然の驚異に畏怖を抱く人間が創り出した想像の産物が地獄穴伝説だ」
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