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その美しい人形に出会ったのは、近所の寺の朝市だった。
月一回、第三日曜日に境内で行われる朝市は、この田舎町の数少ない娯楽だった。
地方の子会社に左遷されて半年がたった。田舎町の夜は早く、すっかり朝型人間になってしまった楠萌香は、様々な店を冷かしながらあてどなく歩いていた。
都内にいた時には近所のコンビニへ行くだけでも、ナチュラルメイクをして、きちんとした格好をしていた。しかし今は、誰の視線も気にならないので、すっぴん眼鏡、髪は適当に結び、部屋着の気楽な格好だ。
ふと視線を感じ、木陰の下の店へ目を向ける。丁寧に並べられたアンティークの小物たちは朝の爽やかな空気の中で、怪しく耽美な雰囲気を醸し出している。
独特な空気感を放つ店の奥に置かれた人形へ、萌香は引き寄せられた。
「あの……」
「はい、いらっしゃいませ」
スリーピースを着て髪をぴったりと整えた初老の紳士は、背筋をぴんと伸ばして椅子に座っていた。読んでいた本を膝へ置き、銀縁メガネ越しに萌香を見上げる。
「その人形、見せてもらってもいいでしょうか?」
「……はい? ああ、あちら……ですか?」
萌香が指差したものを見て、店主は当惑したような表情を浮かべた。しかし振り向いて人形を手に取り、萌香へ渡す時には元の無表情に戻っていた。
うっすらピンク色の頬、豊かで艶やかな金の髪、中性的な顔立ち、唇をうすっらと開き、今にも可愛い声で話し出しそうだ。服装から判断するに男の子のビスクドール人形だった。
何より目を引いたのは光を反射して生きているように輝くラピスラズリのような青い瞳だった。
「わあ、意外とずっしりしているのですね」
「サイズが大きいにも関わらず、オールビスクボディですので、重さは結構ありますね」
「指先の爪まで繊細に作られてるんですね」
「有名な工房が作ったものですから、とても良いものですよ。それに、その人形は願いを叶えてくれるとも言われています」
店主の話によれば、この人形には持ち主の願いを叶えるという言い伝えがあるらしい。
前の持ち主もこの人形を買ってから、運が向上し、裕福になったそうだ。
「でもそんなに縁起のよい人形なのに、売りに出されるなんて」
「その方が亡くられてから、人形のコレクションを引き継ぐ人がおらず、親族の方がお持ちになったのです」
本当に綺麗な子。味気ない自分の部屋でこの子が待っていてくれたらと、想像するとテンションが上がる。
「ちなみに……おいくらなんでしょうか?」
他の商品もそこそこいい値段が付いている。あまり高額な出費はできないけど、三万円位ならどうにか捻出できるかも。
そんな心配をよそに、店主は「千円でいかがでしょうか?」とさらりと答える。
「え、そんなに安くていいのですか? 素人目に見ても価値がありそうな人形ですよね」
「ええ、その人形は持ち主を選ぶので、是非お客様へお譲りできたらと思いまして。ただしばらく楽しんだら、どこかのお店に売ってしまうことをお勧めします。……あと、くれぐれも人形に願い事をしないようにしてくださいね」
「小学生でもないし、願い事なんてしないですよ。それにこんなに素敵な人形を、売るわけないじゃないですか」
「それなら大丈夫だと思いますが、もし願い事をして、それが叶ってしまったら、人形に必ずあなたの血を与えて下さい」
「血ですか……?」
「願いが成就した時の対価は、血です。守れない場合、あなたに不幸が訪れます」
この現代でそんな迷信を信じるわけないじゃない。
店主の銀縁メガの奥の瞳をじっと見る。しかし揶揄っている様子も見えず「わかりました。気をつけます」と半信半疑で答える。
他の店を一通り回った後、もう一度あの店を見ようと木の下へ戻るが、店は既になくなっていた。
*
人形のある生活は、萌香の心を思った以上に癒していた。その日にあったことを彼に話しているだけで、気持ちの整理がついてスッキリとした気分になる。
すごく良いものを手に入れたなあと思いながら、朝のメールチェックをしていると、社内報メールが流れて来た。
今月の赤ちゃんというコーナーの中で、真っ赤な顔をした娘を抱く、伊達幸真の写真が目に入る。
その写真を見ると、先ほどまでの良い気分は、一気に陰鬱なものに変わる。
自分は、奥さんが妊娠している間の箸休めのような存在だった。妻とは別れると言うのは、不倫男の常套手段。
彼だけは違う、自分だけは違うと思う女もまたテンプレートなのだと今は分かる。胸の上に重石を置かれたように苦しくなる。
最後まで読まずに、メールを削除した。
クサクサとした気分で一日を過ごし、定時に退社する。家に戻ると、美しい人形の彼が萌香を待っていた。
「ただいま、ルーカス」
萌香はルーカスを抱きしめる。ずっしりとした重みが、心地よい。
「今日さ、社内報で伊達係長が娘の写真と一緒に出てたの。独身のフリして騙していたのに、不倫がバレて私だけ子会社に飛ばされて、何であっちは幸せ満喫してるわけ⁉︎」
ルーカスの濃い青の瞳が、光の加減でゆらりと揺れた。
「あいつだけお咎めなしって、どんだけ時代錯誤の会社なんだよ!」
忘れていた悔しさが込み上げる。
「あんな男、不幸になればいいんだよ……」
涙が溢れてくる。
「悔しいよ。私も結婚して幸せになりたい。どうしてこんなことに、なっちゃったんだろ。ルーカスは、ずっとそばにいてね」
寂しさと虚しさ、そして騙された自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。ルーカスを抱きしめながら、ベッドで横になっていると少しずつ安心してくる。そしていつしか眠りに落ちていた。
*
昼に公園で弁当を食べている時、同期の飯山慎二から、スマホへ送られてきたメッセージに萌香は驚いた。
『萌香、伊達係長、刺されて入院したみたいだよ』
え? 一体どういうこと?
慎二は、萌香の辞令に誰よりも怒ってくれたが、異動になってから少し疎遠になっていた。嫌われたのかと悲しく思っていたけど、そうではなかったらしい。
ためらいつつ慎二へ電話をかける。まるで萌香からの着信を待っていたかのように、すぐに電話が繋がる。
「飯山、久しぶり。連絡ありがとう。そ、それで、一体何が起こっているの?」
「あいつ、他にも社内の女子社員に手を出していたみたいだ。経理部の佐伯さんが、どうやら妊娠してしまって揉めたらしい。昨日会社の前で言い争いになって、佐伯さんが衝動的に刺してしまったんだ」
「……そんな」
「あんな男、刺されて当然だよ。もしかしたら、萌香の処分も取り消されて、こっちに戻って来られるかもよ。そもそもおかしいんだよ、萌香は被害者なのに子会社に異動させられるなんて」
「そう……なんだ」
「今度そっちへ出張ついでに行くから、その時に詳しく話すよ」
通話時間はわずかだったが、慎二に嫌われていたわけじゃなかったことが分かった。ただそれだけのことなのに、心が明るくなり、午後の仕事がはかどった。
*
「萌香、元気そうでよかった。でも少し痩せたな」
金曜日夜の居酒屋、二人はビールで乾杯をする。慎二が来たのはその電話から数日後のことだった。
「夜、やることもないし、早寝早起きしているからかなあ。会社までは自転車通勤だから運動もしてるかも」
「なかなか健康的な生活しているんだな。感心、感心」
そう言いながら、慎二はネクタイを緩め、ワイシャツの胸元と袖のボタンを外し、腕まくりをする。
逞しい腕とシャツ越しでもわかる、筋肉質の身体にドキリとする。
身体を動かすのが好きで、会社でフットサル部を作って毎週サッカーをしている。海外営業部のエースで、人望も厚く、同期の中で一番出世が早い。
久々に会う彼は、人気者のオーラが半端なく、目の前の爽やかハイスペックイケメンがまぶしい。
(私も国内営業部ではそれなりに頑張っていたのにな。差をつけられちゃったな)
そんな弱気な自分を知られたくなくて、冗談めかして慎二を揶揄う。
「飯山はまた筋肉ついた? シャツがパンパンじゃない」
「分かる? 俺、鍛えてるんだ」
「一体、どこを目指してるのよー」
「いいだろう」
しかし、そんな卑屈な気持ちは、彼の初夏の太陽な雰囲気で次第に溶かされ、新入社員だった頃のように話が弾む。
自分が単純過ぎて引くわ……。
あっという間に居酒屋の閉店時間になってしまった。
お互いに程よく酔っ払って気分がいい。久々に気の置けない人と話すのが、心地よくて萌香は「うちに来て、飲み直す?」と思わず言ってしまう。
「え……?」
戸惑った慎二の様子に、ちょっと調子良すぎたかなと思い、嘘だよと訂正しようと思った時、慎二が口を開く。
「じゃあ、ちょっとだけお邪魔させてもらおうかな」
「うん、それじゃあコンビニでお酒買おう」
久々に会った気心の知れた同僚と話したいだけだ。別に他意はないからと言い訳をする。
部屋へ着き、リビングの電気をつけると、ルーカスがソファーの上に座っていた。
「すごい綺麗な人形だな」
「うん、いつも話を聞いてくれるお人形さん。ルーカスって言うんだ」
「へぇ。いつも萌香の世話をしてくれて、ありがとうな」と慎二は人形の頭を撫でる。
優しいなとチラリと慎二を見つめる。
こんな人と付き合っていたら、今よりもずっと幸せだったかもしれない。
人恋しいからってそんなことを考えちゃだめだと妄想を打ち消すように、首を左右に振る。
ガサガサとコンビニのビニール袋を開き、買って来たビールとつまみを取り出す。
「どこかその辺に座ってて」
「お、おう」
部屋の中をキョロキョロと落ち着きなく見ていた慎二は、ルーカスの隣に座る。手持ち無沙汰なのか、ルーカスを膝に乗せ、触ったり可動域を確かめるかのように手足を動かす。
「近所の朝市で買ったんだー。ここで唯一の気を許せる子なんだよ」
「ふぅん、そうなんだ。何だか嫉妬しちゃうな」
「え、何で?」
「俺以外の男に心を許すなんて……」
腕を突然引っ張られ、突然目の前が真っ暗になった。慎二は萌香を自分の膝へ座らせ、抱きしめている。
「ちょ、ちょっと! どしたの?」
「萌香、好き……なんだ」
「え……⁉︎」
突然の告白に動揺する。
「お前だけが、左遷されて、何もできなかった自分にも本当に腹がたった。萌香の異動の後、連絡する勇気が出なかった……」
慎二の心臓がどくどくと激しく動いている。
「弱っているお前につけ込んで、こんなこと言うのはずるいと思うけど、どうしても萌香を側で守りたいんだ」
慎二は腕を解くと、鞄の中から書類を取り出し、萌香に渡す。
「これ、戸籍謄本。昨日取ってきた。未婚だから、安心して。お前を騙すことは絶対にしない」
渡された書類と慎二の顔を交互に見る。ドキドキと胸が高まるのを感じる。正直、今まで考えたことがなかった。ただの気の合う同期だと思っていた。
でも……。
「私、飯山が思っているような人間じゃないかも。それでも本当に私でいいの?」
「入社してから何年お前のことを見ていたと思ってるんだ。萌香がいいんだ。付き合ってくれ」
真剣な眼差しに胸が高まると同時に、嬉しいと素直に感じる。彼となら幸せになれる気がした。
「……うん。迷惑かけるかも知れないけど……」
「萌香、好きだ。本当に大切なんだ」
慎二は再び抱きしめると、啄むようなキスを何度も繰り返す。キスは次第に深くなっていく。そのままソファーに押し倒されてしまう。
「ちょっと、飯山!」
「あ、ごめん。焦り過ぎた。くそっ、俺余裕なさすぎだろ」
「でも嬉しいよ」
「――っ、煽るな。酔っ払った勢いで告白したと思われたくないから、明日の朝一番にまた告白したい」
「うん。今日は泊まっていって……」
二人の唇が再び近づいた時、横に座らせていたルーカスが、萌香の額に倒れてくる。
コツリと額同士があたる。
「こいつ、ヤキモチ妬いてるな」
「まさかぁ」
慎二と笑い合い、キスをする。
翌朝、改めて告白され、慎二との遠距離恋愛が始まった。
*
週末ごとに、慎二とお互いの家を行き来するようになってしばらく経った頃、伊達係長へ工場勤務の辞令がおりた。
本社の営業でばりばりと仕事をしてた彼にとっては、降格し、工場の一作業員として勤務することは屈辱的なことだろう。
そして伊達係長は奥さんとは、離婚したらしい。
「ルーカスが来てから、何だか私の人生が好転してるみたい」
パジャマ姿の萌香は、ベッドの上で横になりながらルーカスに話しかける。優し気に微笑む彼は、今日も静かに話を聞いている。
(……これって、ルーカスが私の願いを叶えてくれたってことになるのかな? でも私は別にお願いをしたわけじゃないよね? 話しかけていただけで……)
心でそう思いながらも、あの日の店主の言葉が頭によぎる。
『くれぐれも人形に願い事をしないようにしてくださいね』
『願い事をして、それが叶ってしまったら、人形に必ずあなたの血を与えて下さい』
血を与えるって、中二病じゃあるまいし。
「そんなことしたらルーカスが汚れちゃうよね?」
その時、ガチャガチャと玄関のドアノブが音を立てる。
何? もう深夜なんだけど……。
萌香は、ルーカスをベッドにあおむけに置き、音を立てないようにしながら恐る恐る玄関のドアの方へ近づく。
ドアノブは激しく回され、ドアは押したり引いたりされる。ドンドンと大きな音が部屋に響く。
チェーンをかけているから、中へ入ってくることはないはず。酔っ払い!?
ドアに近づいてはみたものの、のぞき穴から外を見る勇気がなく、その場でうずくまってしまう。恐怖で心臓がバクバクしている。
通報する? でも怖くて動けない……。動いたら中に入って来てしまうような気がして、身体を両腕で抱きしめる。じっとりと汗が全身に滲む。
人形の呪い!? いやまさか……そんな。
どのくらいの時間が過ぎただろうか。しばらくすると部屋に静寂が訪れた。
慎二に電話しようかと一瞬思ったが、毎日忙しい彼を起こしたくなくて、ベッドへ静かに戻る。
あれ、さっきベッドに上向きに置いたのに。何でお座りしてるの?
ルーカスはベッドの上で座っており、濃い青の瞳は萌香を無言で凝視している。
背筋がゾッとする。
萌香はルーカスの視線に耐えられず、タオルでぐるぐるに包み、ソファーにそっと置いた。
今はごめん、ルーカス。あなたは何も悪くないと思うけど。
心で言い訳をして、目をつぶったが誰かに見られているような気配を感じ、一睡もできなかった。
*
翌朝、恐る恐る部屋の外に出たが、何の異変も無く、拍子抜けしてしまった。
昨夜の怖がった自分がバカみたいだ。
会社に着くと、隣の席の女性社員が話しかけてくる。
「楠さん、最近この辺りに不審者が出るみたいよ。娘の小学校の連絡網で回ってきたのよ。あなた一人暮らしでしょ? 気を付けた方がiいいよ」
「……ありがとうございます。気を付けます」
昨夜のあれは不審者の仕業……だったのかもしれない。
大きなトラブルも無く、今日も仕事を終えていつも通り帰路に着く。
そう言えば、ルーカスをグルグル巻きにしたまま、出てきてしまった。悪いことしちゃったな……。
今日は金曜日。慎二は出先から直帰して、そのままこちらに来ると言う。彼が来れば、この不安な状態はきっと終わる。
萌香は少しだけ周りを警戒しながら、マンションの部屋の鍵を回す。
電気をつけると眼前に荒らされた部屋が現れる。衣類は全て棚から引き出され、家具は壊されている。床は足の踏み場もない。
そして部屋の真ん中に全身黒のスウェットに身を包んだ伊達幸真が、立っていた。
「萌香、久しぶり。また、会えたね」
「伊達係長……、どうしてここに……」
「君とやり直したくて来たんだ。やっと真実の愛に気付いたんだ」
萌香は後退る。コツリと落ちているものにぶつかる。下を見れば、それは服を切り刻まれ、ひび割れているルーカスだった。
幸真は一歩前に進む。
「いや、来ないで。近寄らないで」
「照れているのかい? 可愛いね。もう妻とも離婚したから、君と結婚できる。約束しただろう?」
「もう全て終わったことです」
「君も私のことを拒むの? 永遠に愛しているって言ったじゃないか」
「やめて! 私のこと騙していたくせにっ」
萌香は、幸真を突き飛ばす。幸真は、よろよろと後ろへ倒れ、尻餅をつく。
彼はげっそりとやつれ、肌は黄色く不健康で、目は落ち窪んでいる。余裕があり自信に満ち溢れていた、かつて自分が好きだった人はどこにもいなかった。
「そうか。君も裏切るんだね」
ポケットから、サバイバルナイフを取り出す。
「一緒に死のう。妻にも捨てられ、娘にも会えない。会社でも工業勤務で社会的地位は地に落ちた」
ゆらりと立ち上がると、ナイフを両手で持ちながら近づいてくる。
怖くて足がすくむ。逃げないといけないのに。
「あんた! 何やってるんだ!」
「慎二!」
玄関のドアが開き、慎二が駆け込んでくる。
慎二は萌香をとっさにかばう。
幸真は顔を歪めて、怒りの形相で睨みつける。
「萌香、お前浮気したのか! 許さない……」
次の一歩を踏み出した時、幸真は転倒する。
手に持っていたナイフが力なく地面に落ちる。
「萌香、外へ逃げるぞ!」
その隙に慎二は萌香と共に部屋の外に出て、通報をする。
しばらくするとサイレンの音が聞こえ、警察官が部屋の中で呆然としている幸真を連行していった。
荒らされた部屋の中を見ると、ボロボロになったルーカスが転がっていた。
あの時、幸真が転倒したのは、ルーカスを踏んだからだったのね。
「ルーカスが守ってくれたの?」
萌香はひび割れても未だに美麗に微笑むルーカスを見つめる。ラピスラズリの瞳が問いに肯定するかのように揺れている。
「ありがとう。怖がって、ごめんね」
そっとルーカスを抱き上げる。
ちくりと手首に痛みが走る。
「痛っ」
手首を見ると、ぷっくりと血が出ていた。
そしてルーカスのうっすらと開いた口元は血で赤くなっている。
「えっ!」
思わず萌香は、手を離す。カシャリと音を立てて、再び人形は床に落ちる。
ボロボロに壊れているにも関わらず、退廃的な美しさが漂う、胡乱な微笑みに背筋が凍る。
でも割れた破片で手を切っただけ? 人形が噛むなんて、ありえない……よね?
「慎二……もう、やだ……」
「怖かったよね。もう大丈夫だから」
慎二に抱きしめられているにも関わらず、いつまでも震えは治らなかった。
*
事件があった数ヶ月後、萌香は本社の元の部署へ、戻れることになった。
部屋にあったものはほとんど処分し、この町から去る。
人形を買ったアンティークショップとは、どうやっても連絡が取れなかった。ただこれ以上手元にルーカスを置いているのはよくないと、寺へ送り供養してもらうことにした。
色々なことが立て続けに起こったこともあり、人形を手放したことでとても清々しい気持ちになった。
引越先は都内の一等地に建つ、慎二の高級マンションだ。
「慎二、本当にここへ入居して大丈夫なの?」
「心配症だね。俺のマンションだから問題ないよ」
後から知ったことだが、慎二は会社の創業者の孫らしく、将来は現社長の父親から会社を引き継ぐことになっているそうだ。
立場を公にせず、今は一社員として働いているらしい。マンションは、婚約祝として社長からの贈り物だった。
「慎二、おぼっちゃまだね……」
「それほどでも」といたずらっ子の様に笑う。
「プレゼントがあるんだ」
慎二は紙袋をクローゼットから取り出し、中のものを丁寧に取り出す。
金の髪、白磁の肌、バラ色の頬、中性的な美貌、そして生き生きとしたラピスラズリのような揺らめく瞳。
「ル、ルーカス……何で」
手放したはずのルーカスが再び、元の美しい姿で目の前に現れた。
「人形供養の寺から、何かの手違いで返送されてきちゃってさ。せっかくだから修理業者を探して、直してもらったんだ。大事な人形だっただろ?」
慎二は、ルーカスを萌香に渡す。
ずっしりと重みを感じる。
「また会えたね」
慎二の優しい声が、甘美に重たく響き、逃れられないルーカスの視線がねっとりと萌香に絡みついた。
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