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15 隠し通せなかった罪
そっと、触れていただけの唇が離れる。
永井の唇は少しカサついていた。目の前の男の目には、やはり感情が乗っていなくて、どういうつもりでキスをしたのか分からない。
恋人契約というのなら、こういうことも込みなのだろう。でも遥は、はっきり言って戸惑っている。
このまま最後までしてしまって、それが谷本にバレたら? 遥が永井に惹かれかけていると知ったら、彼女は何と言うだろう?
「……やはり成人していても、責任は年長者にあるか……」
目の前の男は、そう呟いて離れた。そして頭を撫でられ、先に進まないと知ってホッとする。
「すみません……嫌な訳じゃ、ないんです……」
そして、やはり谷本のことを考えていたうしろめたさに視線を落としてそう言うと、眼鏡の奥の瞳が和らいだ気がした。そしてその変化に、やはり遥はドキリとするのだ。
多分永井は、遥が戸惑っていたことに気付いていた。契約とはいえ、こんな風に優しく扱われることなんてなかったから。商品としての小井出遥ではなく、ひとりの青年として扱われることに、遥は慣れていない。
「気にしなくていい。私たちは『恋人』だからな。双方合意があってこそだ」
正直、永井が今までのひとと同じように遥を扱うなら、そのつもりで応じることができただろう。けれど永井は、本当に遥の気持ちを考えてくれている。それは遥にとって初めてのことだった。
(あまえても、いいのかな?)
谷本との関係を知っていて、そこから逃がしてくれると宣言し、そのためには何もかも手伝ってくれるという。遥をただの性欲の捌け口として扱わず、むしろ自分より遥を優先してくれる。
いい? 男のひとにはこうやって、快楽を教えてあげればいいの。
唐突に谷本の声が頭の中をよぎり、遥はヒュッと息を飲んだ。どうしてこんな時に、と込み上げてきたものを、グッと喉を詰めて堪える。
「遥? ……とりあえず座ろう」
永井がそっと背中を押した。その時、遥のポケットの中でスマホが震え、肩を震わせる。このタイミングで電話を掛けてくるのは、谷本しかいない。
「遥、まだ二十時過ぎだ。出なくていい」
永井が言う。確かに、大人が出歩いて遊ぶにしてはまだ早い時間だ。けれど、出ないとのちのち嫌なことになる。
すると、遥が躊躇っているうちに着信は切れた。しかしすぐに掛かってくる。着信件数をたくさん残して、圧力をかけるつもりだ、と遥は戸惑い永井を見た。
「どうして親の言うことを聞く必要がある? 聞かないと嫌なことをされるのか?」
遥の戸惑いを感じ取ったのだろう、永井はそんなことを言ってくる。
「んなわけないじゃないですか。ただヒステリーを起こされて、面倒なだけです」
ただでさえ口うるさい谷本が、喚いて泣く姿はそう何度も見たいと思う遥ではない。けれど決まってその後には、彼女は鬱憤を晴らすかのように遥に手を出してくるのだ。そんなの、……そんなこと、自分の口からは絶対に言えない。
「なるほど、嫌なことをされる訳だな」
「違う!」
遥は弾かれたように叫ぶ。それでも冷静な永井の顔にハッとし、墓穴を掘ったことを悟った。
「僕は……『小井出遥』だ。傲岸不遜で、プライドが高くて、かわいくて……っ」
そう、ただの母親に怯える遥は『小井出遥』じゃない。こんなこと、誰にも知られちゃいけなかったのに、雅樹が余計なことをして、永井にも知られた。
「……帰ります」
何度も震えるスマホに耐えきれなくなって、遥はドアに向かって歩き出す。しかし、永井はその腕を掴んだ。
「遥、待ちなさい。きみはきみをいじめるひとの所に、戻ろうとしているんだぞ?」
「それでも! そんなのでも僕の……母親なんです……。僕がいなかったら、母さんは……!」
遥は続く言葉を発せられなかった。永井が遥の腕を引き、その広い胸の中に閉じ込められたのだ。
途端に遥はまた酷く安心し、一気に視界が滲んだ。
分かっている。谷本は遥を自分の所有物か何かとしてしか見ておらず、母親としての役割は一切してこなかったことを。
本当に見てほしいのは谷本で、本当に愛して欲しかったのは谷本だったのだ。それらを得られないまま遥は大人になり、思春期を拗らせている。
「もういい遥、十分だ」
「……え?」
永井はそう言うと、スマホを取り出しどこかに電話を掛けた。
「あ、お世話になっております……」
相手は誰だろう、と思っていると、永井は空いた手で遥のスマホを取り上げた。あっと思った瞬間には、彼が震えるスマホの電源を落としたのが見える。
「ちょっと! そんなことしたら……!」
遥は慌ててそのスマホを取り返そうと、手を伸ばした。けれど永井の広い胸に再び押し付けられ、動くことは叶わなくなる。
「まだ証拠は不十分ですが、言質は取れました。……ええ、嫌なことをされると……すぐに動いた方がいいと思います」
「……っ! まさか社長!? ……嫌だ! 離せ!」
永井と協力していた雅樹が相手だと気付き、力いっぱい罵る。けれど二人からすればまだまだ子供な遥の罵りなど、彼らは歯牙にもかけない。
「ええ、こちらは大丈夫です。木村さんは谷本さんを……はい。……失礼します」
永井は電話を切ると、遥を両腕でキツく抱きしめる。遥は嬉しいのか、困惑しているのか訳が分からなくなって、涙腺が崩壊した。
「……っ、あんたたち、僕を騙したな……っ、こんな、こんなの……っ」
「落ち着きなさい。きみが受けていたのは虐待だ。いつまでも谷本さんのそばにいては、きみはずっと売れない」
「違う! そんなのじゃ……! この僕がそんな目に遭う訳がない!」
華やかで、汚いものを隠している芸能界。遥のそれは隠し続けなければいけないもので、例え身内でもバレていいものではなかった。だからずっと黙っていたのに。
「帰ります! 恋人契約も破棄で。違約金でも何でも払いますから!」
そう言って全力でもがき、永井の腕の中から出る。そしてまだ永井の手の中にあった遥のスマホを奪い返し、部屋を飛び出していった。
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