恋愛死

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初めて好きだと告白されたこの場所で、みな子の髪が、風に揺れる。 「ずっと一緒にいような」 純也の優しい面影と囁きがループする。 何度も奪われた唇に触れながら、涙が落ちてきた。 「別れよう」 二人で過ごした五年もの月日が、砂のように消えていく。 「このままで終わらせたくない…」 込み上げてくる熱い感情をなだめるように、目の前に現れた蝶。 「モンシロチョウ…」 みな子はモンシロチョウの後を静かに追った。 屋上の切れ端まできて立ち止まる。 モンシロチョウは、空へ向かいだし、みな子も両手を広げ、空へ飛び込んだ。 みな子は目が覚め点滴が見えた。 「ここは…」 身体を動かすと腰が痛み、オシッコのたまったビニールが見えた。 「おはようございます。目が覚めたようですね。お熱を計りにきました」 「あの…」 ピピッピピッ 「三十六、三度です」 看護師はカルテに書き込んでいた。 「あの…私、何が起きたのか覚えてなくて」 看護師は点滴を交換しながら 「奇跡的に助かったんですよ。たまたまマンション入り口付近に止まっていた布型トラックへ落下したので」 「落下…」 みな子は混乱したが、それ以上は聞けなかった。 暫くすると白衣を着た背の高い先生が入ってきた。 「具合はどうですか」 「腰の辺りが痛みます」 「段々によくなりますよ。この後、オシッコの管は外しますからトイレにいってみてください。歩けないようならナースコールで看護師を呼んでください。明後日、様々検査をしてみて何も異常なければ退院にしましょう」 「先生」 「どうしました」 「私は、交通事故だったんでしょうか…」 「交通事故ではありません。転落事故です。記憶がないのは、一種の記憶障害かもしれないです。その辺も踏まえて、検査をしてみましょ」 先生はそう答えると出ていった。 検査は午前中で終わった。 夜りなり、急に下腹部が痛みがだした。 トイレにいくと出血もしていて、みな子はナースコールした。 「生理だと思うんですが、かなり、お腹がいたくて」 「出血多いですか」 「いいえ。ただお腹だけが凄く痛くて…」 看護師は鎮痛剤を持ってきた。 「痛み止めで様子をみましょう。明日の回診の時に、先生に話してください」 「はい、わかりました」 みな子は薬を飲み横になった。 翌日、先生が回診にきた。 「昨夜下腹部に痛みがあったようですが、眠れましたか」 「はい、いつのまにか…」 「それは良かったです。出血の方はどうですか」 「まだ、続いています」 「では、一度産科の先生にも念のために診てもらって、退院という事にしましょう。午後から予約をいれておきますから」 先生はそう言い、隣にいた看護師に指示した。 午後になり、みな子は産科へ向かった。 患者さんは誰もいなかったが、先生はなかなか来なかった。三十分ほど待つと、ようやく看護師に呼ばれ中に入った。 「お待たせしてごめんなさいね。出産が長引いたものだから」 そう話す医師は女性で、みな子はホッとした。 先生は外科からのカルテをじっと読みながら二、三質問してきた。 「最後の生理はいつ頃終わったかしら」 「それが、覚えてなくて…」 「手帳か、何かに書いていないかな」 「すみません、書いていません」 「じゃ、尿検査をしてきてもらってから、診察しますね。緊張しなくていいからね」 先生は優しい笑顔を向けた。 みな子は尿検査をすませ、初めて診察台にのり両足を開くと、自然に下半身に力がはいりだし、深呼吸を促された。 「はい、終わりましたよ。ゆっくり下りて、着替をしたら、先ほどの診察室に戻ってください」 先生がカーテン越しに声をかけた。 みな子は着替え、用意されてた新しいナプキンに変え、診察室へはいった。 「これで最後ですから、ここのベッドに横になってお腹をだしてください」 先生は超音波検査をするジェルを用意し 「ちょっと冷たいけど我慢してね」 と言った。 先生は、モニター画面を見ながら二回ほど撮影をし検査を終了させた。 「着替えて椅子の方へきてください」 みな子は看護師に温かいタオルでお腹をふいてもらい、着替えて先生の前に座った。 すると先生の口から、信じられない話が始まった。 「立川さん、妊娠していたようね」 「妊娠、、、」 みな子は驚きのあまり声も出なかった。 「ただ、残念だけども、心臓が動いていないの。十週目かな、、そこで中から取り出す手術をしなければならないから」 「取り出すって中絶という意味ですか」 「そうです。一時間くらいの手術です。外科の先生には、こちらから話しておきますから」 みな子は信じられない気持ちで、病棟に戻っていった。 「妊娠って、一体、誰の子を…」 みな子は消えた記憶を取り戻す事ができず、狂いそうだった。 「みな子」 振り替えると母さんが立っていた。 「母さん、、、」 「先生から聞いたよ。母さんは、みな子が助かってくれた事だけで十分だよ」 「だって母さん、私、、、」 母さんはみな子を力強く抱き締めた。 中絶手術も無事に終わり、退院の日がきた。 「湿布は三週間分だしておきます。痛み止めも一応だしておきましたら、痛い時は我慢せずに服用してください。脳には一切異常はみられませんでしたから、安心して」 先生はそう言い、みな子に笑顔を向けた。 「記憶障害の方は、何かの拍子で戻る事もありますから気長に考えてください。それと産科の先生から言われてると思いますが、二週間したら受診にいらしてください。予約表をお渡しします」 「先生、色々と娘がお世話になりました」 母さんが深々と頭を下げた。 「いえいえ、元気に退院できて本当に良かったです。」 みな子も頭を下げた。 「それでは、お帰の際は気を付けて。少し家でのんびり静養してくださいね」 先生はそう言うと、明るい表情で見送ってくれた。 二週間ぶりの我が家は、心が和んだ。 「やっぱり家はいいわねぇ」 「そうかい、ゆっくり静養しなきゃね、そういえば、お友達が何人かお見舞いにきてたよ」 みな子は贈り物の前に座り宛名をみた。 「母さん、宛名みても、なんか曖昧で」 「そっか、気にしいで。先生が言った通り気長にいこ。今はゆっくり静養しなきゃ」 そう言いながら病院荷物を片していた。 みな子は見舞いの中に、向日葵のポストカードを見つけた。 「早く元気になってくれ。ごめんな」 「誰だろう」 みな子は宛名を見た。 「川上純也」 思い出せない。。。 「そうだ、手帳」 みな子は急いで部屋へ向かった。 「手帳、手帳、あった!」 みな子は、特にこれといった予定が書かれていない手帳を見て落胆した。そしてボールペンを手に取り、八月二十八日に退院と書いた。 ページをめくり次回受診予定日を書き込みもうと、九月十一日を見て驚いた。 「純也誕生日、これって、、、」 そして、慌てて手帳の最後のページを開いた。 「あった…川上純也」 アドレスのページに、たった一人だけ大切そうに書かれている名前。 みな子は向日葵のポストカードに書かれていたメッセージを思い出す。 「ごめんなって、この人ってもしかしたら…」 みな子は手帳を鞄にしまった。 「みな子、母さんちょっと買い物に行ってくるから」 下から母さんの声がした。 「あっ、待って、みな子も一緒に行く」 みな子は携帯電話を買わなければと慌てた。 「大丈夫なのかい、外暑いけど」 「うん、大丈夫。携帯電話を買わなきゃ、何かと不便だから」 みな子は、これで川上純也が、何者なのかがはっきすると思った。 産科の受診日がきた。 手帳にしるされていた川上純也の誕生日。 「母さん、準備できたよ」 「早いわね、あら、綺麗なワンピース」 母さんは、みな子の明るい様子を喜んでくれた。 病院に近づくと、みな子は何か起こる予感がして緊張していた。 「みな子、終わったら電話してよ。迎えにくるからね」 「うん、じゃあ、行ってくるね」 母さんは病院入口でみな子を下ろし、軽く手を振った。 午前中ということもあり待合室には、お腹の大きな女性が何人かいた。 「ほんとなら自分も」と考えると複雑な気持ちにもなり、手にしている五十五番と印刷された診察表を見つめていた。 「五十一番の方」 看護師さんが呼んでいる。 「お名前で失礼します。川上恵美様」 みな子は一瞬ドキっとした。 「川上…」 下を向き覗き込むようにその女性を見る。 女性は振り返り一緒にきている男性に小さく手を振った。みな子は、その男性の横顔をどこかで見たような気がして胸騒ぎがした。 「もしかして、あの人が…」 思いきって席を立ち、待合室から離れた。 そして、その男性が見える場所から川上純也に電話をする。心臓の鼓動が耳まで聞こえ、携帯電話を持つ手が震える。男性がポケットに手をいれ携帯電話に出ようとした時、五十五番の診察ランプが点滅をし始めた。 「はい、もしもし」 みな子はハッとした。 「この声は…」 無くなっていた記憶が、一気に甦ってしまった。 「お名前で失礼します。立川みな子様」 看護師の声に純也は慌てたように辺りを見回す。みな子は電話を切り診察室に歩きだした。そして純也の前で足が止まった。 「みな子…」 そこへ診察が終わったばかりの恵美が、笑顔で駆けてきた。 「純也、順調だってよ」 みな子は、なにも言わず診察室へ入っていった。 家につき、消えていた記憶が甦り、みな子は落ちていった。 時計の針が、刻一刻過ぎていく。 みな子は、どうしても純也と、このままで終わりたくなくてメッセージを送った。 「お誕生日おめでとう。向日葵のポストカードありがとう。」 すると直ぐに折り返しメールがきて、みな子の心は嬉しさで一杯になった。 「メールは送信になりませんでした」 みな子は狂ったように、何度も何度もメールを送信し、涙で携帯画面が見えなくなった。 「私ばかりなんで、、あの時死ねばよかったのに」 みな子は携帯を投げつけ、ベッドに入ってむせび泣いた。 翌朝、母さんの声がした。 「みな子、仕事に行ってくるよ、サンドイッチ作ってたから」 みな子は声を振り絞り 「いってらっしゃい」 と、応えた。 母さんの優しさが胸に染みる。こんな親不孝な娘に全く変わらない愛情を注いでいてくれる。 私のお腹にいた赤ちゃんは、死んでよかったのかもしれない。きっと不幸になったに違いない。みな子はそんな気持ちになっていた。 その時携帯電話が鳴った。 母さんかと思い投げ捨てた携帯を拾うと、川上純也からだった。 「あっ、もしもし、みな子」 みな子は返事をしなかった。 「ごめんな、色々大変だったんだってな。俺もかみさんに、子どもができたりして、もう無理だなって思ってさ、別れるしかなくて」 みな子は、自分にも純也の赤ちゃんがいたことを話さなかった。 「ごめんな、それを言いたくてさ」 純也は一方的に話し、電話を切った。 みな子はビルの屋上にいた。 一歩、一歩と、みな子の足は、屋上と空の境界線に向かっていく。 「着いた」 あの時と同じ場所にみな子は立った。 大きく深呼吸をし目を閉じる。 その時、何かがみな子の頬にふれた。 「あっ、」 みな子は空に背を向け、手招きするかのように飛んでいるモンシロチョウを追いかけた。 「また、会えたね。」 みな子はそう話しかけると、屋上を後にした。
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