吊橋

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 翌朝、リーミンは目を覚まして翼の中に七緒がいることに驚く。だが、すぐに家出をして木の上で寝たことを思い出した。七緒が寒さに凍えないように翼の中に入れたのだった。秋も深まり、朝の空気は冷え切っている。  七緒の白皙の頬に長い黒髪がかかっていた。これまで七緒の顔をまじまじと見たことはなかったが、思いのほかやさしい顔をしている。ずっと厳しいばかりで冷たい人間だと思っていたが、違うのかもしれない。初めて会ったころ、それほど長くなかった髪はずいぶんと伸びている。願掛けで切らないのだと、一度だけ聞いた。なんのための願掛けなのかは教えてくれなかった。顔にかかった髪を耳にそっとかける。七緒が突然目を開けた。鋭い金の目が一瞬リーミンを睨んだが、すぐにふわりとゆるんだ。七緒は警戒心が強い。触れられたから目を覚ましたのだろう。 「姫、お目覚めでしたか」  名前で呼ばれなかったことをリーミンは少し残念に思う。 「今起きたばかりよ。名前で呼んでくれないの?」 「そうでしたね、リーミン。おはようございます」 「おはよう、七緒。今日はどうするの?」  リーミンが翼をたたむと七緒は体を起こし、乱れた髪を解く。彼女が髪を解くのをリーミンは初めて見た。黒髪に縁どられたきりりとした横顔にどきりと心臓が跳ねるのがわかった。これまで男性にしか見えていなかったが、七緒はやはり女性だ。それも大人で特別美しい。 「身支度を整えたら食事をして市を探しましょう」  七緒はそう言いながら整えた髪を赤い紐で結び直す。いつもの姿に戻ったことでリーミンはなぜかほっとする。どうしてそう感じたのかはわからなかった。 「ご帰宅されたければそれでもかまいません」  リーミンはむっと頬を膨らませる。 「まだ帰らないわ!」  七緒は小さく笑う。リーミンは七緒という供がいるから強気だった。それを七緒に見透かされているとわかっていても帰りたくなかった。 「お付き合いいたしましょう」  二人は川で顔を洗い、身支度を整える。すぐに火をおこした七緒が懐から携帯用の餅を出したのを見て、リーミンは思わず声をあげた。 「なんで昨日出さなかったの?」  その言葉に七緒はくと笑って口を開いた。 「生存の手段はいくつも持っておくものです。昨日は木の実を食べる選択を取ったまで。木の実はお嫌いでしたか?」 「そういうわけじゃないけど……」  もともと木の実を常食している。嫌いなはずがない。七緒は餅を昨日作った箸に刺してあぶる。 「簡単で、便利で、なんでも思い通りに出てくる生活をなさりたいなら帰宅されるのが最良の道ですよ」  七緒の低い声には挑発するような響きがあった。 「帰らないって言ってるでしょ!」  七緒はくすくす笑い、焼けた餅をリーミンに渡す。 「腹が減ると余計に腹が立ちます」  リーミンは憮然として餅を食べる。なにも味付けのされていない携帯用の餅はひどく素朴で物足りない味がした。文句を言えばまた嫌味で返されるのもわかっている。これが父の庇護のもとにいないということなのだろう。  簡単な食事を終えてリーミンは空から市を探す。翼人たちの家は樹上に作られるが、家が建っている木には色鮮やかな旗が立っている。旗が多く集まっている場所が市だ。市はすぐに見つかった。リーミンは七緒のもとに行くために地上に降りる。 「ねぇ、七緒、市がものすごく近いのだけど、実は知っていた?」 「さあ、どうでしょうね?」  七緒はリーミンの報告も聞かずにさっさと歩き出した。 「私が方角を言っていないのに正しい方向に進むってことはやっぱり知っていたのね!」 「はい。お屋敷育ちのお姫様に家出がどれだけ大変か知っていただこうと思いまして」 「七緒って実はイジワルなの?」  リーミンの疑いの眼差しに七緒はくつくつと笑う。 「そうとも言いますね。教育係として好機を逃さなかったとご理解いただきたいところでもあります」 「そうなの?」 「はい。自然と親しむ野宿は楽しくなかったですか? リーミン」 「楽しかったから少し困ってる」  リーミンは不満そうに唇を尖らせる。初めての体験ばかりで楽しかったのを否定できない。 「いいことです。お屋敷の中にいては知れないことの方が多いですから。今日は服を買ってから市を見て回りましょう。私が目立つのはどうしようもありませんが、あなたは着替えればそれほど目立ちませんから」  リーミンは小首を傾げる。 「私の服は目立つの?」  リーミンの服は宰相令嬢にふさわしく、上質な絹でスカートの丈も長い。上衣にいたっては金銀の刺繍に宝石も縫い込まれている。昨日からいろいろしたせいで長くふわりとした白い袖は汚れていた。 「目立ちます。まず庶民は絹の服を着ません。特別な日だけです。こういった装飾品もガラスで、刺繍よりも染のものが多い。そしてなにより丈です。庶民はひざ丈のスカートに下履きを合わせています。袖も手が出るものでゆとりもこれほどない」  リーミンはそう言われて召使いの服を思い返す。確かに七緒が言ったような服装をしているものが多い。 「そうね……この腕飾りも外さなくてはダメ?」  リーミンはゆったりした袖を捲り上げて腕飾りを見せる。腕飾りは金で龍の彫り込まれた豪華なものだ。 「その腕飾りは特別なものなのですよね?」  腕飾りはリーミンにはサイズがあっておらず、大人っぽい見た目で似合ってもいない。だが、いつも身に着けているから七緒もそれが特別なものだとわかってくれているらしい。 「お母様の形見なの」  亡き母が最期の日に腕に着けてくれて、そのままリーミンの腕にある。 「ならば隠れる服を選びましょう。大切なものは無くさぬように身に着けておくのが一番です」 「よかった」  リーミンはほっと息をつく。 「お母様が私を守ってくれるようにって願いを込めてくださったものなの。だから特別なのよ。まだ似合わないけれど、いつかきっと似合う日が来るって、お母様が……」 「そうですか……必ず来ますよ」  七緒はそう言って耳飾りについと触れる。七緒はいつも赤い房の付いた牡丹の耳飾りを着けているが、まったく似合っていない。 「七緒の耳飾りも特別なの?」 「はい。母が願いを込めてくれたものです。少しはしとやかになるようにと」  その言葉にリーミンは思わず笑う。七緒はしとやかという言葉からは程遠い。物腰はやわらかく上品ではあるのだが、しとやかではない。 「十八の誕生日に贈られて、無茶を言うとは思ったのですが、母の願いを無下にするのも忍びないと着けています。ですが、あなたに笑われていることが証明しているように願いはむなしく、似合いもしません」  七緒が肩をすくめるのを見て、リーミンはくすくすと笑う。七緒の暗色の装束の中で耳飾りだけが赤いから浮き上がって見えるのだ。彼女の振る舞いや顔立ちばかりが原因ではない。 「しとやかな七緒は想像できないわ」 「母と姉たちに仕込まれはしたので半時程度ならしとやかなふりができますよ」 「それなら今度見せてもらわなきゃ」  七緒はくすりと笑って、リーミンの長い赤毛を指に絡める。 「その時にはあなたにも付き合っていただきますよ」  その言葉にリーミンはうんざりした顔をする。リーミンは堅苦しいことが嫌いだった。父の宰相という地位ゆえに時折そういった場に出されるが、終了時間ばかり気になってしまう。 「宰相の子なんてなにもいいことはないわ。あなたみたいに自由が欲しい」 「自由というものはそれだけ責任も伴います。自由があればいいというものでもありません」 「よくわからないわ」  リーミンは唇を尖らせる。 「いずれわかります。リーミン、将軍の末娘に生まれ、男として育てられ、あまつさえ人質としてここにいる私が自由に見えるなら、あなたの目はとんだ節穴です」  七緒の突き放すような冷たい声にリーミンはなにも言えなかった。七緒は自由に動いているようでいて、常に監視の目にさらされている。夜になると七緒の部屋は外から施錠がされている。外出も監視がついていると聞いた。今も本当は二人きりではなく監視がついているのだろうか。七緒の冷たい横顔からはなにも読み取れない。 「ほら、見えてきましたよ」  話をそらすように七緒が指さした先には小さな店がいくつも並び、多くの人々が行き来していた。どの店もゴザを敷いただけの簡素なものだ。森を守るための工夫なのだろう。彼らの自宅はその木の上にあるが、買い物中は飛行して互いの翼がぶつからないように地上に降りる。市では地上近くを飛ぶものはいない。 「人がたくさん……もしかしていつも窓から見えていた場所?」  リーミンの部屋は見晴らしがよく、遠くまで見渡せる。一か所、色鮮やかな川のように見える場所があった。 「そうです。初めてでしょう?」 「ええ」 「まず服を買いましょう」  リーミンは七緒に連れられて服屋に行った。七緒は翼人の服は大きさも合わず、背に穴が開いていて不都合だからと着ないが、靴だけは特注していたから知っていたらしい。有明の靴よりもユエの靴の方が樹上で動き回るのに向いているのだという。やはり生活様式の差から来るのだろうかと思いながらリーミンは服を見る。 「好きなものを選んでください」 「どれでも?」 「はい」  リーミンはうれしくなっていつもよりずっと華やかな色柄の服を選ぶ。ひざ丈の花模様のスカートに青い下履き、緑の上衣を選んだ。靴に桃色の花飾りがついたものを選ぶと、七緒は同じような花飾りの付いた指なし手袋を追加してきた。腕飾りを隠すためらしい。七緒が支払いを済ませる間にリーミンは部屋を借りて着替えた。 「ねぇ、どうかしら?」  リーミンは七緒の前で得意げにくるりと回る。普段より格段に短いスカートでひだの数も少なく、かなり身軽だ。 「いつもよりずっと速く飛べる気がするわ」 「そうでしょうね。とてもかわいらしいですよ」 「ありがとう」  絹とは違った手触りだが、軽くて動きやすい。 「ねぇ、七緒、さっきお店の人に渡していたものはなに?」  七緒は一瞬呆れた顔をしたが、すぐに目を伏せた。 「あれはお金です。なにをするにもお金が必要です。ですが、お金には限りがあるので大切に使わなければなりません」  七緒は二種類の銀貨を出した。数字と文字が刻まれている。大きさもかなり違っているようだ。 「リーミン、これが銀貨です。大きいものが一分、小さいものが一朱です。もっと細かいものや、大きい貨幣もありますが、ひと先ず一分二朱をあなたに渡すので自由に使ってみてください。先ほど購入した靴が一朱です。欲しいものを手当たり次第に買ったらあっという間になくなります。よく考えて使ってくださいね」 「わかったわ」  考えて使ったつもりだったが、四半時も経たずに銀貨は消えてなくなった。 「思ったより早かったですね」  七緒にそう言われてリーミンは泣きそうになった。無駄遣いをしているつもりは欠片もなかった。珍しいものばかりで自制ができなかった。いつも着けているものより粗末な耳飾りや指輪、初めて見る菓子は本当に欲しかったのだろうか。 「さて、あなたが使った一分二朱ですが、手に入れるために私の場合であれば半日、庶民であれば三日働かなければなりません。自由でいるためにはそれ相応のお金が必要で、お金を手に入れるためには働かなくてはならない。これが自由に伴う責任の一つです。わかりましたか?」 「ええ……私って本当に何も知らないのね……」  勉強はたくさんしてきたつもりだったが、外の世界のことは思った以上に知らなかった。世間知らずと七緒やジージエに言われる意味が少しずつわかってきた気がする。 「知らないということを理解できたことはとてもいいことです。知らなければ知ればいい。簡単なことでしょう?」  その言葉にリーミンはふと笑う。くよくよしていても何も始まらない。 「ええ。そうね。私もっと知りたいわ、七緒」 「いい心がけです」  七緒に頭を撫でられ、リーミンはうれしくなる。七緒は理解させるために実践させてくれるからわかりやすい。ほかの教育係ではさせてくれないことでリーミンはいくら色々言われても七緒が好きだった。  その日はあちこち見て回り、屋台で食事を取った。屋台で食事を取るというのもリーミンには新鮮だった。七緒が夜は宿を取ってくれたが、リーミンには驚くことばかりですっかり疲れ果てていた。 「お風呂でさっぱりしてから眠ると疲れがより取れますよ」  七緒に促されてもリーミンは動けなかった。七緒にかなり雑に風呂に入れられて、寝台に転がされたが、リーミンには文句を言う気力も残っていなかった。 「仕方のない方ですね」  ため息をついた七緒がしばらくして隣に横たわったのに気付き、翼で包み込むのが精いっぱいだった。  七緒はリーミンの顔にかかった髪をそっと避けてやる。七緒も疲れていた。一人で行動するのと、守るものがいるのでは疲労が全然違う。自分を信頼してくれるリーミンをかわいく思わなくはないが、この状況が疲れるのを否定できない。先ほど連絡の手紙を飛ばすとき、シャーチーの姿がわずかに見えた。今日も安心して休める。  二人と言ったのに寝台が一つしかなかったのはいただけないが、木の上よりは余程休まる。七緒もすぐにまどろんだ。
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