吊橋

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 目覚めたら市を見て回り、民の暮らしを知る。そんな日を二日ほど過ごした。家出から五日目の朝、いつものように七緒が口を開いた。 「そろそろ帰られますか?」  帰らない。リーミンはいつもそう答えていたが、その日は違っていた。リーミンはなかなか口を開かない。七緒はリーミンが口を開くのを黙って待った。 「お母様のお墓に行きたいの」  七緒は目を伏せる。家出はそろそろ終わるのかもしれない。 「承知いたしました」 「いいの?」  リーミンの母の墓は高い崖の上にある。空を舞い飛ぶ彼らには難なく到達できる場所ではあるが、七緒が行くのは容易ではない。 「崖くらい登れないとお思いですか?」 「自力で登る気?」  リーミンは七緒を抱きかかえて飛ぶつもりでいたらしい。 「あなたに運ばれて嘔吐するなどという醜態を晒すわけにもいきませんし、あの程度の崖であれば道具がなくとも簡単に登れます。以前行った際は旦那様の指示に従いましたが、無様な姿を晒していたのはご存知でしょう」  七緒は乗り物酔いや飛行酔いが酷い。ジャオが特に苦手で長時間乗ると寝込むほど具合を悪くすることもある。頑丈で滅多に病気をしない彼女が臥せることはほかにない。そんな七緒が自分の脚に絶対の信頼を置くのは当然のことだった。 「わかったわ。無理について来なくてもいいから」 「七緒を舐めてもらっては困ります」  艶然と笑った七緒は高さ六丈に及ぶ切り立った崖を命綱の一本もなしに数分で登って見せた。 「一応聞くけど、人間ってみんなそう?」 「違います」  七緒は当たり前に答えて手に付いた土をはらう。ここまでくる道のりも七緒は地面を歩くのではなく、木から木へ飛び移ってきた。ヒトは本来地上を歩くもので、飛ぶものではない。 「私は父によく崖から落とされたのでかなり特殊な部類だと思います」 「崖から落とされた?」  七緒は特になんでもないように話したが、飛べないヒトには危険だということはリーミンでもわかったらしい。 「はい。這い上がらねば置いていかれますし、有明の森には危険な動物もいる。登らねば死ぬと思えばできないことなどないのです」 「そ、そう」  リーミンに引かれているのはわかったが、すべて事実なのだから仕方ないと七緒は思う。崖から落とされた件については爺やや母ばかりでなく父の側近でさえ諫言していたから常軌を逸していたのはわかっている。二緒は幼い我が子にも容赦がなかった。 「墓に参られるのではないのですか?」 「そうね……」  リーミンは小さく息をついて、墓前に花を供え、手を合わせる。年に数度は墓参りをし、命日には盛大な供養も行われている。リーミンの母、チュンリンは亡くなってまだ五年しか経っていない。墓はまだ新しい。五年という月日が母を亡くした子どもにとって長いのか、短いのか、七緒にはわからなかった。  七緒がここに来るのは三度目だった。遥か彼方まで見晴らせる眺めのいい場所だ。空を飛ぶ彼らが好む景色を死後も見られるようにということなのだろうか。  七緒はリーミンの後ろで手を合わせる。会ったことのないリーミンの母。リーミンの気性はジージエとあまり似ていない。おそらく母チュンリンに似たのだろうと七緒は勝手に思っていた。  自らの時を止めてしまうほどに愛する妻に似ている娘を愛しいかわいいと思わないはずがない。ジージエがリーミンをこの上なく愛しているのは問わずともわかる。慈しみ深い哀しげな眼差しが、娘の手をつかめず迷うその手が、言葉にせずとも愛していると語っている。それがリーミンに伝わっていないことが唯一の不幸だ。  二緒はどうなのだろうかと考え、莫迦らしいと打ち消す。非情な黒い目には感情がなかった。少ない言葉はただ命令するだけだ。七緒は父との関係がよいとは爪の先ほども思っていない。たとえ自分が死んでも泣きもしないのではないかと思っている。だから、ぶつかれるジージエとリーミンが羨ましくもあった。父ではなく、母に似ていたら、ほんのわずかでも愛されたのだろうか。 「七緒、私ね……」  不意に話しかけられて意識が引き戻された。 「お母様を恨んでいた時期があるの」  リーミンは悲しそうに小さな墓石に刻まれた名をなぞる。 「病気で死んじゃったのは誰のせいでもないのに、私が嫌いだから置いて逝っちゃったんだって……拗ねて、大嫌いになって、恨んで……お墓参りになんか行かないって泣いてお父様を困らせた。でも、本当は大好きで、そばにいてほしくて、恨んでなんかいなくて……」  リーミンはあふれそうになった涙を拭う。 「病気で苦しい思いをしたのだから、安らかに眠ってほしい。今ではそう思う」  リーミンはふと息をついて両手を空にかざした。 「お父様のことも大好きで、そばにいたい。七緒、付き合ってくれてありがとう。家出は終わりにするわ」 「そうですか」  七緒は密かに息をつく。屋敷を出て五日だが、七緒は疲れていた。ずっと気を張っているのも楽ではない。シャーチーが隠れて付いてきているとはいえ、彼は七緒の監視でもある。一秒たりとも気は抜けなかった。それに心なしか体調も悪い。 「実はもう一人付いてきているわよね?」  その問いに七緒はドキリとする。リーミンが気付くとは思わなかった。 「どうしてそう思われるのですか?」 「あなたの監視が長時間外れるのは不自然だって気付いたの。慎重でお父様の指示は絶対に守る七緒が独断でこんなことさせてくれるはずがないし」  リーミンのことを侮り過ぎていたと七緒は反省する。リーミンもそれなりに状況を見て考えているらしい。 「仰る通り家出にご協力したのは旦那様の指示で、シャーチーが隠れて護衛してくれています。それでも少しは自由というものが知れたのではありませんか?」 「そうね。感謝してあげる」  リーミンの高慢な言葉に七緒はふと笑う。リーミンはそれでいい。しんみりしているより余程似合っている。 「さて、では屋敷まで競争でもいたしましょうか」 「え?」 「お友達ごっこの締めくくりです。行きますよ、リーミン!」  七緒は助走をつけて崖から飛び立つ。 「待ちなさい! 七緒!」  すぐにリーミンが追ってきた。七緒は木の反動を利用して前へと進む。リーミンが大きな翼で風をつかみ高く飛翔するのが見えた。 「あなたに勝たせなんかしないわ!」 「どうでしょうね!」  ひときわ高い針葉樹の先端に乗った七緒は体重を使って思い切り木をしならせ、勢いよく飛ぶ。一瞬でリーミンを抜き去った。 「あなたってめちゃくちゃよ!」  リーミンがすぐに追いついた。 「そうでなければあなたに付き合いきれません!」  そんなやり取りを繰り返しながら色とりどりに染まった秋の森の上を行く。針葉樹と広葉樹のまじりあった森の木々が色鮮やかに視界を染める。時折、通り過ぎる旗で屋敷にかなり近づいてきたことに七緒は気付いた。この競争ももうすぐ終わる。そう思ったら、なぜか名残惜しく、七緒は広葉樹の枝に立ち止まる。 「どうしたの?」  リーミンがそばで止まった。シャーチーの声と思しき呼び声が聞こえる。二人で競争するうちに楽しくて、かなりの速度が出てしまっていたから、追いつけないでいるのだろう。 「なんでもありません。出し抜く好機だったのに止まるとは甘いですね、リーミン」  七緒は足を振り子のように振り、木をしならせてから飛び立つ。 「あっ! もう!」  リーミンはすぐに並んだ。またどんどん速度が上がって行く。これほど夢中になって体を動かすのは初めてで楽しくて仕方がない。七緒は知らぬ間に声をあげて笑っていた。リーミンの笑い声も聞こえる。この時がこのまま続いたらいいのに。七緒はそう思わずにはいられなかった。だが、楽しい時ほどすぐに終わってしまう。二人は屋敷のバルコニーにほぼ同時に降り立った。 「引き分けですね」 「そうね」  二人とも息を切らせていた。 「いつも落ちそうになるのはワザとだったのね」  その言葉に七緒はくすりと笑う。 「やっと気付きましたか?」  リーミンはため息をついてバルコニーに寝転がる。 「もう、狡いんだから」 「大人なので」  七緒は隣に腰を下ろして息を整える。息が苦しくなるほど体を動かしたのはいつぶりだろう。二人よりもさらに息を切らせたシャーチーがバルコニーに降り立った。 「リーミン様、七緒様、限度、という言葉を、ご存知か」  シャーチーは手すりにつかまって身体を折り、肩で息をしている。全力で飛ばしてきたが追いつけなかったらしい。シャーチーはジージエよりも年かさで若くはない。それにシャーチーの焦げ茶の翼は雀のような小鳥のものに似ていて、小回りは利くが高速での飛行に向いていない。そのせいもあるだろう。 「申し訳ありません、シャーチー。楽しくてつい……」 「夢中になってしまったの。ごめんなさい、シャーチー」  我が子ほどの年の二人に謝られて怒れるはずもない。シャーチーはため息をつく。 「次はなしですよ」  二人はふわと笑って頷く。ジージエの気まぐれに付き合っている方が余程楽だとシャーチーが思ったのを二人は知らない。  リーミンは二人と共にジージエのもとに向かった。 「ただいま、お父様」  五日ぶりに帰ったリーミンをジージエはなにも言わずに抱きしめる。 「心配かけてごめんなさい」 「おかえりなさい、リーミン。無事に帰ってきてくれた。それだけで十分です……」  ジージエの声が震えていた。いくら護衛を付けたといっても心配で仕方なかったのだろう。 「お父様、あのね、大好きよ。だた、もう少し私を見てほしいって思うの。私はいつまでも泣いてばかりいる小さなリーミンじゃない。もう十四歳よ。世間知らずだってこともよくわかった。だからもっと色々知りたいの。お父様、今の私を見て、もっと色々教えて」  ジージエはその言葉に一瞬驚いた顔をした。リーミンはこれまでジージエとぶつかってばかりで丁寧に言葉を紡ぐということができなかった。だからこそ、その事がジージエに我が子の成長を意識させたのだろう。ジージエはふと笑ってリーミンの両手を取る。 「そうでしたね。あなたももう十四歳。いつまでも子どものままではない。私ももっと素敵に成長したあなたの姿が見たいです。また一緒に色々なことを見て学びましょう」  あの日から止まっていた父の時がゆっくりと動き出した。リーミンはそう感じた。 「ええ、お父様」 「大好きですよ、リーミン。世界に一つだけの私の宝物」  リーミンはジージエに翼で包み込まれて恥ずかしそうに笑う。その言葉がくすぐったくてうれしくて、なんと言ったらいいのかわからない。ジージエはやさしく微笑んでリーミンの頭を撫で、七緒とシャーチーに視線を向ける。 「五日間ご苦労様でしたね。慣れない任務は疲れたでしょう。今日、明日はゆっくり休んでください」 「はい」  シャーチーは頭を下げて去って行ったが、七緒が動かない。リーミンは不思議に思って顔を覗き込む。 「七緒、どうしたの?」  七緒が突然、その場に倒れた。 「七緒!」  リーミンが助け起こそうとして触れると七緒の身体が異様に熱い。先ほどまであれほど楽しそうにしていたのが嘘のようだ。 「お父様大変! 七緒は熱があるわ!」 「なんと」  ジージエは急いで医師の手配を指示する。ヒトである七緒に翼人の医師を呼び、正しい診察結果が得られるかどうかはわからないが、ユエにヒトの医師はいない。
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