吊橋

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 七緒は翼人しかかからないと思われていた伝染病に感染していた。翼人の密集する環境で数日過ごしたことで感染したのではないかというのが、医師の見立てだった。翼人であれば重篤になることは少なく、子どものうちに一度はかかるものだったが、ヒトへの感染は例がなく、どう転ぶかわからない。  三日三晩高熱が続き、意識も戻らず、もうダメかと思われた。だが、七緒は体力があり、運良く持ち直した。 「まぁ、七緒様! お気付きですか?」  七緒がぼんやり目を開けるとそばについていた召使いが驚きの声をあげた。 「こ、こは?」  意識が朦朧としていて、七緒はなにが起きたのかわからなかった。 「七緒様のお部屋でございますよ。三日三晩眠られて、もうダメかと……」 「そう、ですか……」  熱が高いせいか、身体が重く、息が苦しい。召使いに水を飲ませてもらうとのどの痛みが少しだけ楽になった。召使いが額に手を添える。ひんやりとして気持ちがいい。 「まだ熱がかなり高うございますから、安静になさってください」 「姫、は?」 「ご心配あそばしまして、ずっとおそばにいらっしゃいましたが、先ほど旦那様が連れ出されました。もうすぐお戻りになるのではないかと思います」  問題ないならそれでいい。その時、七緒は左目と頭が激しく痛むのを感じた。意識がぐるぐるとかき混ぜられるようだ。 「私は、なんの病気ですか?」 「私ども翼人の流行り病にかかられたのです。だいたいが子どものうちに一度はかかるものなのですが、人間である七緒様にうつるとは予想もできず……」 「そうでしたか……」  痛みがわずかに引き、七緒はふと息をつく。翼人の病気であれば当然かかったことはなく、重症化してしまったのだろう。三日も意識がなかったのであれば、リーミンにずいぶんと心配をかけてしまったに違いない。熱が高いせいか、頭痛のせいか、意識が朦朧とする。 「七緒!」  部屋に戻ってきたリーミンが突然七緒に抱き付いた。 「ごめんなさい、七緒。私のわがままのせいで大好きなあなたが死ぬところだった……七緒、もうわがままは言わないわ。だからいなくならないで、七緒」  リーミンの細い肩が揺れている。泣いているのだろうか。病で母を亡くした時のことを思い出させてしまったのかもしれない。 「大丈夫ですよ、姫……私は、頑丈ですからね……」  七緒はそう言ってやるのが精いっぱいだった。頭痛と高熱でうまく言葉が出て来ない。その事を察した召使いが気を利かせて、リーミンをなだめ、寝台から下ろしてくれた。 「ずっと、そばに、います……約束します……」 「約束よ」  七緒はどうにか頷いて目を閉じる。頭痛が酷すぎて、それ以上は無理だった。  リーミンの願いをあざ笑うかのように七緒の熱はなかなか下がらなかった。意識があっても高熱と頭痛が続くせいか食欲がなく、一向に回復の兆しを見せない。症状は改善するどころか悪化し、ひどい眩暈を訴えて嘔吐を繰り返した。病みやつれた頬はこけ、常にぐったりとして意識もはっきりしない。  ジージエが有明に急使を送るべきではないかと検討を始めたころ、やっと七緒の熱が下がった。けれど、左目が赤黒く変色し、失明してしまった。長引いた高熱のせいで視神経に異常をきたしてしまったらしい。片目であったことが不幸中の幸いだった。  リーミンがその事にショックを受けてしまったようだった。家出に付き合わなければ、七緒が病気で苦しむことも、左目を失うこともなかったと責任を感じているらしい。七緒はなんと言ってやったらいいかわからず、早く回復することに専念していた。まだ眩暈がひどく、立ち上がることさえままならない。  そんなある日のこと、ジージエが七緒のもとを訪れた。 「旦那様」  慌てて体を起こそうとした七緒をジージエは手で制す。 「そのままで大丈夫ですよ。まだ起きるのは辛いのでしょう?」 「申し訳ございません……」  七緒は高く積まれた布団に体を沈める。昼の間は少し体を起こしている方が楽だった。ひどい眩暈もいずれ落ち着くと言われているが、先の見えない不安に七緒は押しつぶされそうだった。ジージエがわざわざ来訪したのも七緒の進退のことだろう。本来人質としてこの国にいる七緒がリーミンの護衛兼教育係を務めるのは異例だった。すでに一か月近くも寝たきりで、隻眼になり、先行きも見えない。となれば本来の扱いに戻され、一室に閉じ込められてもなにも言えない。 「娘のわがままに付き合わせた結果、あなたに重篤な病を得させてしまったこと、父として、ユエ国の宰相として申し訳なく思います」  ジージエに深く頭を下げられ、七緒は戸惑う。 「私が病を得たのは誰のせいでもありません。申し訳なく思わないでください」 「それでもあなたの身柄の保証は私の責任です。リーミンはあなたのおかげで一回りも二回りも成長しました。だからこそ、あなたにこのような結果をもたらしてしまったことが心苦しいのです」  ジージエはふと息をついて金の髪を耳にかける。 「七緒さん、あなたが快癒するまでできる限りの医療を保証します。必要であれば転地療養も検討しますので、安心して養生してください」 「もったいないお言葉ありがとうございます」 「それから今後のことなのですが」  ジージエは言いにくそうに言葉を紡ぐ。七緒は胸の奥が冷えるのを感じた。やはり閉じ込められてしまうのだろうか。 「残念ながら隻眼になってしまったあなたには護衛を退いてもらうほかありません。ですので、今後はリーミンの教育係のみお願いできますでしょうか?」  その言葉に七緒は耳を疑う。完全に外されてしまうと思っていた。 「姫のおそばに残ってもよいのですか?」 「はい。リーミンにはあなたが必要です」 「姫がこの目のことを気にされるのでは……?」  七緒の目は変色したままだ。空気に触れるだけで痛むため、やわらかい布で覆っていた。見舞いに来るたび、リーミンは七緒の左目を見ては悲しそうにする。 「気にするでしょうね、責任を感じて昨日も隠れて泣いていました。でも、それ以上にリーミンにはあなたが必要です。あの子が翼に誰かを入れたのは妻が逝ってから初めてのこと。それだけあなたが特別なんです」  家出をしている間、夜は必ず入れてくれた。高熱にうなされている間、寒さに凍えるとやわらかなあたたかい翼が触れた。それに意味があったのだろうか。 「翼に入れてくださるのは暖を取るためだけではないのですか?」 「人間のあなたにはわからない感覚でしたね。私たちの翼はとても繊細なもので、羽根は簡単に抜け、乱れれば飛行に支障が出ます。その翼に入れるというのは私たちに取って最上の愛情表現です。親は子を翼であたため、守り、育てる。本来のあの子は情が深く、泣いている子であれば誰でも、それこそ仲の悪い子でも、翼に入れていました。けれど、チュンリンが逝ってから絶えていたのです。愛することに、愛されることに憶病になってしまっていた。そんなあの子がもう一度、誰かを愛そうと、愛されようとしていることがうれしいのです。私ども親子のわがまま、受け入れてもらえますか? 七緒さん」  七緒はゆっくりと目を伏せる。その思いを全力で受け止めたい。 「謹んでお受けいたします。身体が回復次第、おそばに参りたいと思います」 「ありがとうございます、七緒さん。必要なものがあればなんでも言ってください。有明には私から手紙を出させていただきます」  七緒は困ったように笑い、左目を覆う布に触れる。 「母に泣かれてしまいそうなので、私の手紙を同封させていただいてもよろしいでしょうか?」  有明とユエは隣国ではあるが、首都は遠く離れ、連絡の手段は限りなく少ない。手紙一つ出すのも容易なことではなかった。 「かまいませんよ。母君も心配なさっておいででしょう。あなたの母君はきっとおやさしい方なのでしょうね」  七緒は母鈴乃のやさしくやわらかい手を思う。きっと今も心配しているだろう。 「母は今も私が男としてこの国にいることを快く思っておらず、こんな状態に陥っていることが知られたら嘆かれるだけではすまないと思います。私にはもったいないほどやさしい母なのです」  困ったように笑う七緒にジージエはやさしく微笑む。七緒はまだ二十歳。親が心配するのも無理からぬことだった。 「愛しい我が子を人質として敵国に差し出すというのは並大抵のことではないでしょう。私からも重ねてお詫びしておきましょう」 「ありがとうございます」  ジージエはゆっくりと休むように告げて去って行った。心配事が一つ片付き、七緒はほっと息をつく。リーミンにそばにいると言ってやるのは簡単だが、人質の身である七緒が実行するのは簡単ではない。ジージエが政治的に非情ではなくて助かった。父としての側面が強く作用したのかもしれないが、教育係としてそばにいられるなら何の問題もない。  隻眼ではこれまで通り刀を振るえるとも思えず、移動も従前のようにはいかないだろう。今は守るのではなく、守られる立場になったのだ。それは大人しく受け入れようと思う。  だが、七緒は眩暈が落ち着いたら、少しずつ慣らし、以前のように動けるように努力するつもりでいた。大人しくしているのは性に合わない。  その時、リーミンが顔を覗かせた。不安そうな顔をしている。七緒が手招きしてやるとリーミンはすぐにそばに来た。 「お父様はなんて? 七緒は閉じ込められてしまうの?」  やはりそのことを心配していたようだ。七緒はリーミンの頬にそっと触れる。 「大丈夫ですよ。姫の護衛は外されましたが、教育係として残していただけることになりました。身体が治り次第復帰します」 「よかった」  リーミンはほっとしたように笑う。 「今日も眩暈がひどい?」 「少しですが減った気がします。きっと大丈夫です」 「左目は痛む?」 「痛みはもうないです」  見えなくなるまでの間、七緒はひどい痛みに苛まれていた。今はすっかり痛みが引いている。回復はそう遠くないのかもしれない。 「そばにいていい?」 「はい」  リーミンは寝台に上り、翼で七緒を包み込んだ。七緒はジージエと話したことで緊張し、逆立っていた神経が落ち着くのを感じた。リーミンから向けられる好意が七緒はうれしかった。大事な姫であり、妹のようにも思う。病気をしてしまったばかりにリーミンを悲しませていることがつらい。七緒は考えながら口を開く。 「姫、私はあなたが好きです。だから、左目が見えなくなってしまったことや、まだ起きられずにいることにあなたが責任を感じて泣いているのはとてもつらく、悲しいのです。七緒は必ず元気になります。左目が見えなくとも以前と同様に暮らせるように努力します。だから、そんな顔をせずに、生意気で元気な笑顔を見せてくれませんか? リーミン」  七緒はリーミンの頬を両手でやさしく包み込む。リーミンは一瞬泣きそうな顔をしたが、笑って見せる。 「私も七緒が大好きよ」 「私も大好きですよ、姫。あなたの翼の中にいるととても心が安らいで眠くなってしまいます……」  リーミンの翼の中はあたたかいだけでなく、ひどく心が落ち着く。リーミンの最上の愛の形だからだろうか。 「寝てもいいのよ。起きるまでそばにいてあげる」 「はい」  七緒はすぐに眠りに落ちた。七緒は回復していないせいか、よく眠る。一時期よりはずっと起きているが、眠っている時間が長い。リーミンは褐色の小さな手で、七緒の大きな白い手を握る。 「今度は私が守るから……」
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