吊橋

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 一週間後、七緒はどうにか起き上がって動ける程度に回復した。だが、長く寝付いていたせいか、すっかり体力が落ちてしまっていた。部屋の中を移動するだけでも疲れてしまう。翼人の屋敷は樹上に建っている関係でどの部屋も高さが違い、隣り合ってさえいない。少し歩くだけで疲れる七緒が樹上を移動し、梯子の上り下りができるとは到底思えない。七緒の復帰はまだ時間がかかりそうだ。  それでも彼女は早く復帰したいと体力をつけ直すために軽い運動を始めた。動いても眩暈はほとんど起きなくなった。体力さえ戻れば復帰が可能だと医師にも言われた。隻眼になったことで遠近感が狂ってしまっていたが、慣れさえすればどうにかなりそうだ。  そんな頃、七緒は刺繍をするようになった。眼帯にも季節の花を刺繍している。 「七緒って意外と器用なのね」  リーミンが不意と言った。男として育てられ、文武両道の七緒に刺繍ができるとは思わなかったのだろう。 「母に躾られましたもので」  七緒の少し骨ばった大きな手で艶やかな模様が描き出されていく。七緒は変色してしまった左目をただ隠すだけでなく、華やかに飾ることでリーミンが負い目に思う気持ちを軽くしたかった。 「以前言ったでしょう? 女としてしとやかに生きてほしいと母が願っていると。だからです。いい機会ですし姫も刺繍を覚えますか? この国のものとは少し異なりますが」  リーミンは心底嫌そうな顔をした。 「刺繍は見る方が好き」  七緒はくすくす笑って、一枚の手巾を差し出す。 「あなたのために刺しましたので使っていただけたらうれしいです」  リーミンは手巾を受け取って刺繍をなぞり、うれしそうに笑う。白い翼と鳶色の翼が刺繍されていた。形もよく似ている。 「お父様と私の翼ね。ありがとう。うれしいわ」 「なによりです、姫。ところで、そろそろ復帰させていただきたいのですが……」  リーミンはその言葉に唇を尖らせる。七緒はすでにずいぶんと回復し、医師も慣らす程度であれば復帰していいとも言っている。だが、リーミンが心配して部屋から出してくれずにいた。リーミンはしばらく不満げに唇を尖らせていたが、懐から手巾を出す。 「十数える間に私からこの手巾を取れたらいいわ」  その遊びは以前にも何度かしたことがあった。リーミンがやる気をなくしたときに五秒以上七緒に手巾を取られなければ勉強を中断してわがままを聞く決まりで、リーミンは七緒に勝てたことがなかった。だが、七緒が隻眼になり、体力が落ちているから猶予を長くしたらしい。 「わかりました」  簡単なことだと七緒は思った。 「行くわよ。始め!」  手が空を滑る。距離感がつかめない。その事実が七緒を動揺させた。 「八、七、六……」  七緒は自分の動きが以前とは比べ物にならないほど緩慢で精彩を欠くことに気付く。リーミンは以前よりはるかに動いていないのについて行けない。焦りばかりが彼女の心を支配する。 「三、二……」  時はもう残りわずかだ。七緒は不意と焦っている自分に気付く。できなくなっていて当然なのにどうして焦っているのだろう。そう思ったら身体が軽くなった。七緒は流れるようにリーミンの手から手巾を取る。 「取りましたよ!」  乱れた息を整えながら手巾を返すと、リーミンはひどく複雑そうな顔をした。たったこれだけのことで息を切らしているから受け入れがたいと思われているのだろう。 「約束ですよ。復帰させてくれますね?」  リーミンは唇をへの字にしたまま頷いた。リーミンは約束を違えるということをしない。七緒はわかっていてあえてそう言った。狡いことを言ったとは思ったが、このままではいつまでたっても部屋から出してもらえない。 「ずっと部屋にいたのでそろそろカビが生えそうです。明日からはちゃんとあなたの部屋まで行きますからね」 「ええ……」  七緒はリーミンの頬にそっと触れる。 「そんな顔をしないでください、リーミン。もう大丈夫ですから」  リーミンは泣きそうな顔でぷいと顔を背ける。 「七緒って本当に狡いわよね。私がリーミンって呼べば喜ぶってわかっていて困ったときだけそう呼ぶんだもの」 「大人なので狡いんです。あなたが笑ってくれるならなんでもします」 「なんでもしてくれるなら絶対に無理をしないって約束してくれる?」  七緒はその言葉にふと笑う。 「はい。約束します」 「絶対よ?」 「はい」  七緒はリーミンの額に軽く口づけを落とす。 「なに?」  七緒がそんなことをしたのは初めてだったせいか、リーミンは戸惑ったように額に触れた。 「有明の約束の印です」 「そうなのね」  リーミンは少し恥ずかしそうに笑って翼から羽根を一枚抜き取る。 「なにを?」 「お守り。私たちはこうするの」  リーミンはふわりと浮かんで七緒の髷に羽根を挿す。 「私のはお母様とお父様がくれたの。七緒には私があげる」  リーミンの赤毛にはいつも鳶色の羽根と白い羽根が飾られていた。鳶色の羽根はジージエの髪にも飾られている。チュンリンのものなのだろう。 「お守り……」 「羽の模様はみんな違うから誰からもらったかわかるのよ」  それはつまり誰の庇護下にあるか知らしめる意図もあるのだろう。リーミンの羽根を髪に飾るのは悪くない。そう思った。 「あなたのお守りがあればきっとどんな災厄も避けて通りますね」  その言葉にリーミンはふわと笑って、七緒を翼で包み込む。 「大好きよ、七緒」  七緒はリーミンの笑顔に胸がどきりと跳ねるのを感じた。その感情の名を七緒は知らない。
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