吊橋

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 初日こそ自分の部屋から離れたリーミンの部屋に行くだけで疲れ果てていた七緒だったが、そうかからずに以前のように軽快に移動するようになった。太刀を佩かなくなった以外は以前と変わらないようにさえ見える。  そんな頃、七緒の両親が訪れた。片目を失明するほどの大病を患った七緒を心配して訪れるのは不自然ではない。だが、有明の将軍たる二緒が国境を越えられたのはジージエやユエの王が規格外に寛大だったという部分が大きい。仲間の結束や家族の結びつきの強い彼らにとって七緒がこの国に一人でいることは同情の対象であり、さらに病を患ったのは哀れと寛大すぎる措置が取られた。流石に国境で武器にあたるものや筆記具をすべて没収されたようだが尋常な対応ではない。 「父上、お母様、ご心配をおかけしました。左目は失明してしまいましたが、イ・ジージエ宰相やリーミン姫の手厚い看護のおかげで快癒いたしました」  頭を下げた七緒を鈴乃が抱きしめる。鈴乃からは懐かしい香の匂いがした。 「痩せたのではないの? 左目を失ってしまうなんてかわいそうに……かわいいお顔をこんなに隠して……二緒さんがあなたを男として育てると言い出した時にもっと反対しておけばこんなことには……」  七緒は鈴乃の嘆きを聞きながら、相変わらず美しいとぼんやり思う。目の色は同じだが、鈴乃の目は大きなたれ目でやさしい印象だ。鈴乃のような顔で生まれていたら男として育てられることはなかったのだろうか。だが、女として育っていたら、ここには来られず、とうに政略結婚の道具にされていただろう。どちらがよいのか七緒にはわからなかった。 「お母様、私はこうなったことを受け入れています。なので、お母様がお嘆きになられると複雑です。確かに左目は変色し、失明してしまいました。隠すために眼帯で覆っていることで顔が隠れていることも事実です。けれど、お母様が刺繍を教えてくださったからこうして華やかな眼帯が作れました。男の姿であれ、女の姿であれ、私は私。そろそろ認めてはいただけませんか?」  認める。諦める。どちらでも構わない。もうどうしようもないことだから七緒は何かとその事を引き合いに出されることに疲れていた。止められなかった鈴乃の懊悩もわからないわけではないが、もう二十年の月日が経ってしまったのだから、諦めてほしいとも思う。 「七緒、もう私がとやかく言うべきではないことはわかっているけれど、普通の女の子として生きていたらこんな運命を背負うことはなかったのではないかと考えてしまうの。だから、あまり心配させないでちょうだい……」  鈴乃は七緒の顔を両手で包み込む。七緒を見上げる鈴乃のやわらかい金の目が悲しげに揺れる。母の心配がわからないわけではない。 「はい、お母様。リーミン姫にも決して無理はしないとお約束しましたので大丈夫です」  鈴乃はやさしく微笑んで七緒の頭を撫でる。七緒は四人姉妹の末の子だから、鈴乃にはいつまでも幼く見えてしまうらしい。 「そうね。小さなころから特別しっかり者の七緒ですものね。大丈夫よね」 「はい」 「七緒」  不意に感情のない冷たい声が割って入った。 「高熱が続いたと書かれていたが、左目のほかに異変はないか?」  二緒の言葉は相変わらず事務的だ。七緒は父の冷たい双眸が嫌いだった。その黒い目からはなんの感情も読み取れない。七緒の声からも自然と感情が抜け落ちる。 「一ヵ月ほど臥せっておりましたので、身体が鈍り、疲れやすくなりましたが、それだけです」 「うむ。鍛えれば元通りといかないまでも十分な働きができるようになるだろう。太刀はどうした」  七緒の腰には守刀しかない。 「護衛の任を解かれましたので刀を置きました。隻眼で刀を振るうのは危険であることも加味しました」 「没収されたのでなければいい。遠近感の狂いは?」  戦の絶えない有明では隻眼のものはそれほど珍しくない。それゆえに二緒の問いは自然なものだった。 「かなりありますが、予測と慣れである程度補えています」 「そうか。ならいい」  二緒は口を閉ざした。二緒は以前からそうだった。七緒とは必要なことしか話さない。しかも、それは一方的なもので七緒の話を聞くことはない。それが情を移さぬためのものと爺やには言われたが、だからといって許容できるかと問われたら、否という答えしか七緒にはなかった。今回の来訪も鈴乃がうるさく言ったから来ただけなのだろう。その黒い目からはなにも読み取れない。七緒は父になにも期待しないとあの日決めた。 「お母様、私の小袖を手配してくれましたか?」 「ええ、もちろん。今日持ってきたのよ。急だったけれど、あなたが小袖が欲しいって書いてくれたことがうれしくて」  その言葉に七緒は複雑そうに笑う。いつも直垂や男物の着物で母を悲しませているのはわかっていたが、意に染まぬものを着る気がしなかった。今更だという思いもあった。幼いころに一度だけ奥の間で長姉がこっそり着せてくれたのを喜んでいたら父に殴り飛ばされた苦い思い出もある。けれど、刀を置いた今、自分の女性としての部分を顧みてもいいのではないかと思った。きれいな小袖が嫌いなわけではない。年頃の娘たちや、姉たちが華やかに着飾るのを羨ましいと思ったことがないわけではない。  人質になり、外国にいる今なら許されるような気がした。暗色の直垂を脱いでもいい。そんな気がした。 「少し、心境が変わったので……」 「そう。いいことね。凛々しいあなたもいいけれど、艶やかなあなたも見たいのよ。着てみる?」 「はい。お母様、手伝ってくださいますか? わからなくて……」 「もちろんよ、七緒。かわいくしてあげましょうね」  七緒は鈴乃と共に奥の部屋に行く。七緒の部屋だけは段差のない続きの部屋が二つある。ヒトである七緒のための気遣いだった。 「髪を結ってあげてもいいかしら?」 「はい。でも、この羽根は必ず挿してください」 「なにか意味があるの?」  鈴乃は羽根を外し、七緒の髷を解く。 「姫がくださったお守りなんです。翼人の方々は自らの羽根を抜いて渡すのです」 「大事にされているのね」  鈴乃はうれしそうに笑って、七緒の頬を撫でた。大切にされているという事実は母にとってうれしいことだったらしいと感じて、七緒は安堵する。平穏に暮らしていると知ってもらえれば少しは心配されずにすむかもしれない。 「はい、とても……」  鈴乃は七緒の黒髪を丁寧に梳いて、娘らしく結い上げ、羽根を飾る。 「あなたはとてもきれいな顔をしているのよ。七緒は私の自慢の娘」  七緒はなんと答えたらいいかわからず沈黙する。父に似た男のように凛々しい顔はきれいという言葉からは遠い気がした。鈴乃は気にした様子も見せず、七緒の顔にうっすらと化粧を施し、口を開いた。 「七緒、あなたが私への罪滅ぼしとして小袖を着て女性らしくしようとしているなら無理はしなくていいのよ。私のために心を捻じ曲げてほしいわけじゃない。確かに女と明るみに出てしまってから女性らしくしていないことに心配もした。色々言いもしたわ。でもね、そうして生きることが当たり前でない世界でそう生きることで、あなたが背負わなくていい苦労を負うのではないか、嫌な思いをするのではないかって心配していただけなの。二緒さんを止められなかった私の言えたことではないけれど……今のあなたを見ればそんな心配いらないってわかる。だから……」  七緒は肩に置かれた鈴乃のやわらかい手を握る。ほとんど刺繍しかしない鈴乃の手はしなやかでタコなどない。姉たちもきっと同じだろう。剣や弓の稽古のせいで硬く節の目立つ七緒の手とは違う。公家の生まれで少し浮世離れした母を七緒は少し鬱陶しいと思いつつ愛していた。母を悲しませることはできるだけ減らしたい。 「お母様、私は私であるために必死で走ってきました。父上に課せられた男として生きる道は楽ではなかった。十五で女と露見してからは茨の道でした。それは否定しません。お母さまの気持ちをないがしろにしてしまったことを後ろめたく思っているのも事実です。ですが、小袖を着ようと思ったのは病を得て、立ち止まり、やっと見えたものがあったからです。私は私であるために女であることを否定しようとしていた。私は女です。男になりたいわけではない。けれど、女である前に私として見られたかった。それゆえ女である自分を否定しようとしていました。けれど、そうではいけない。だから自分を見つめ直すために小袖を着ようと思いました。七緒のこの気持ち、理解していただけますか? お母様」  鈴乃はやさしく微笑んだ。 「それならいいのよ。着せてあげましょうね」  鈴乃は理解してくれたらしいと察して七緒はほっとする。鈴乃は察しが悪いわけではないが、感覚が違うがゆえに伝わらないことも多い。 「はい」  鈴乃は七緒に赤い牡丹の模様が大きく染め付けられた紫色の小袖を着せ、黒に銀糸の刺繍がされた帯を締めた。背が高くほっそりした七緒にはその小袖がよく映える。鈴乃なりに七緒がこれまで暗色の直垂しか着なかったから急に派手過ぎないようにと気を使ってくれたようだが、十分に華やかで、七緒は戸惑いを隠せなかった。 「とてもいいわ。どうかしら?」  そう言われて、七緒は恥ずかしそうに笑う。隣で娘のように笑う母は青い小袖を着ている。七緒は鈴乃のように小袖が似合っているとは思えなかったが、自分がちゃんと女に見えたことに安堵する。 「私、本当は小袖を着てみたかったのです。なんだかとてもうれしいです」  鈴乃はほっとしたように笑い、七緒の手を取る。 「二緒さんに見せてみましょう」 「はい」  七緒はまた殴られるのではないかと思ったが、鈴乃に手を引かれるまま二緒のいる部屋に戻る。二緒は七緒に一瞬視線を投げただけだった。その黒い目から感情は一切読み取れない。 「お前も女だったのだな」 「なんてひどい言い草かしら」  鈴乃がそう言ってくれただけで七緒はそれほど悲しい気持ちにはならなかった。二緒には期待すまい。そう思う。  その時、戸を叩く音がした。非公式な訪問だから七緒の部屋に通したが、ジージエが挨拶に来るのは当然のことだった。ジージエはリーミンを連れていた。リーミンはいつもと違う七緒に気付いて一瞬驚いた顔をしたが、すぐに目を伏せる。  ジージエは挨拶もそこそこに二緒に深く頭を下げた。 「清川将軍、私の監督不行き届きでお嬢様に病を得させてしまい、申し開きのしようもございません。本来であればこちらから参上すべきでしたのに……」 「顔をお上げくだされ、宰相殿。七緒が命を取り留めたのは宰相殿と姫君の手厚い看護があったからだと聞き及んでござる。病は誰の責でもあり申さん」  ジージエはほっとしたように顔を上げる。このことが国交問題になってもおかしくはなかった。防ぎようのないものでも打つ手を間違えれば戦争になる。それが人質を必要とする綱渡りの外交だ。 「ご温情感謝いたします。ご令嬢からお聞き及びかもしれませんが、今後も娘の教育係の任を続けていただくことにいたしました」 「不肖の娘が役に立つのであれば僥倖にござる」  その時、ずっと俯いていたリーミンが顔を上げ、二緒に礼を取った。 「七緒が病気になったのは私のせいなのです。ごめんなさい……」  鈴乃がすぐにリーミンの前にしゃがんだ。鈴乃は子どものあしらい得意だ。事前に手紙で含めておいてよかったと七緒は思う。リーミンがジージエに付いてきた時点でこうなることは薄々わかっていた。 「大丈夫、大丈夫ですよ、リーミンさん。七緒が病気をしたのはあなたのせいではありません。この国にいればいずれ同じ病気にかかったでしょう。それが少し早まっただけのことです」 「でも……」  リーミンは大きな赤い目に涙をいっぱいにためる。 「七緒があなたのせいだと言いましたか?」  七緒と同じ金色の目で見つめられてリーミンは頭を振る。 「そうでしょう? あなたが七緒に毒を盛ったというなら話は別です。でも、病というものはどこからともなく身体に入り込んでしまうもの。気を付けていても隙を突いて。だから、誰のせいでもないのです。けれど、久しぶりに会って七緒の笑顔がやわらかくなっていました。それはきっとあなたのおかげです。だからお礼を言いたいくらいですの。大丈夫、絶対にあなたのせいではありませんわ」  リーミンは泣きそうな顔で笑う。 「ありがとうございます、清川夫人」  七緒は少し居心地が悪くなって咳払いをする。 「姫、再三あなたのせいではないと申し上げているでしょう? 七緒、そろそろ拗ねますよ?」  七緒は涙を表すように指で右目の際から頬をつうとなぞる。リーミンは唇を尖らせて俯く。 「だって……」 「だっては聞きません」  七緒はリーミンの小麦色の頬に大きな手をそっと添える。 「そんなに気にされるとあなたのそばにいられません」 「いや!」  リーミンは七緒に抱き付き、翼で包み込む。 「もう二度と気にしないからそばにいて」 「はい、私の姫」  七緒が抱き返すとリーミンは幸せそうに笑った。 「七緒、今日は着物が違うのね」  リーミンは小袖の衿の模様をなぞる。これまでは模様といっても紋がある程度でこれほど色鮮やかなものはなかった。リーミンが触れているところには蝶の模様がある。 「小袖という女の着物です。似合いませんか?」  有明とユエは隣国だが、種族の違いもあり、文化がまったく違う。戦が起こるまでは互いにはっきりと関知しなかったほどだ。だから、リーミンには七緒の持ち物がすべて珍しいものだった。 「とっても素敵。いつもはお兄様みたいだったけど、今日はお姉様ね」 「元より女ですが?」  七緒の憮然とした言葉にリーミンはくすりと笑う。 「知ってる。でも、女らしくしてたことなんてなかったじゃない」 「そうですね。少し心境が変わったんです。しばらくしとやかに暮らすので姫にも付き合ってもらいますよ」 「えっ」  リーミンは心底嫌そうな顔をした。そんなことを言われるとは欠片も想像していなかったのだろう。 「家出の時にそういうお話をしたと思ったのですが、記憶違いでしたか?」 「覚えているわ……あなたって本当に策士」  リーミンにもそろそろ落ち着いた振る舞いを身に着けさせたいと七緒は思っていた。ちょうどいい機会だ。 「教育熱心と言っていただきたいものです」  七緒はリーミンの頬を両手で包み込む。 「あなたが大好きなので」 「もう! 私も大好きよ! 七緒!」 「はい」  七緒の笑顔がこれまで見たこともないほどやさしくやわらかいのを見て、鈴乃は幸せな気持ちになる。七緒はこれからもうまくやっていける。鈴乃はそう思った。  翌朝、清川夫妻は早々に帰国の途についた。元より非公式な来訪だったから長く滞在することはできない。有明は今も他国と戦を続けている。いくら冬季で休戦中とはいえ将軍の不在が長期に渡れば隙を突かれかねない。そこまでの危険を冒して見舞いに来たというのは稀有なことで、七緒の心に複雑な感情を残した。父には愛されてなどいない。むしろ嫌悪されていると思っていた。けれど、そうではないのだろうか。それともただの策略の一つとしてユエを来訪したのだろうか。わからない。
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