吊橋

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「七緒」  七緒がぼんやりと座っているとリーミンが声を掛けてきた。復帰以降、座っていることが増えたから心配されたのだろう。 「どうしました? 姫」 「調子悪いのかなって」 「いいえ、そんなことはありませんよ。以前より疲れやすくなってしまったので座っていることが増えただけです」  七緒は開いたままだった本を閉じる。 「それならいいけど。ねぇ、七緒、ずっと外に出してあげてないから気持ちが塞いでるとかない?」 「そうですね……」  七緒は病を得て以降、一度も外出していない。すでに四カ月が過ぎてしまった。翼人の屋敷は木に建物が点在しているものだから、部屋の移動で外に出ていると言えなくもないが、木から降りてはいない。リーミンが七緒を心配するあまり外出を禁じているのだ。七緒がまた翼人の病気に感染しないとは言い切れない。だが、元々人質の身で外出を許されないのも当然だから、不満に感じてはいなかった。 「確かにずいぶんと外出していないので気が塞ぐというのはあるかもしれません。単に帰国の日が近いからかもしれませんが」  七緒は年に一度決められた日に帰国する。その日が迫っていた。毎年のことだが、七緒はその日が近づくと憂鬱になる。理由なら心当たりがありすぎてわからない。 「少しお出かけしない?」 「よろしいのですか?」 「ええ。人の多いところはダメだけど、景色のいいところに行きましょう。ジャオで」  七緒はその言葉に心底嫌そうな顔をする。初めてユエに来た日、丸一日寝込んで以来ジャオが大嫌いだった。その後も何度か乗ったが、酔わないということがない。できる限り乗るのを避けているが、今は断る理由が減っている。 「ジャオはちょっと……」 「抱えて飛ぶにはあなたは重いし、どうせ酔うでしょう?」 「地上まで下ろしていただければ走るので……」 「ちょっとした段差を見分けられなくて躓くあなたに森の中を歩かせるわけにはいかないわ」  七緒はため息をつく。確かに遠近感がつかめないせいで、段差がわからず躓くことがまだ多い。それにもうすぐ帰国の日が来る。そうなればしばらくリーミンと会えなくなる。せっかくの気遣いを無下にしたくなかった。 「わかりました。遠くはないのですよね?」 「ええ、遠くないところよ。できるだけ揺れないようにしてもらうわね」 「はい」  リーミンはうれしそうに笑う。その笑顔が見られるならなんでもしてやろうと思ってしまうのだから、困ったものだと七緒は思う。七緒は小袖を整えて、リーミンと部屋を出る。すでにジャオを運ぶ若者が二人待っていた。意地でも連れ出す気だったのだろう。七緒がジャオに乗り込むとリーミンの合図でゆっくりと浮き上がった。わずかな揺れですでに具合が悪くなりそうで、視線をできる限り遠くに移す。 「どこへ連れて行ってくれるのですか?」  すぐ横を飛んでいるリーミンに問う。話していれば少しは気が紛れる。 「丘よ。花の咲く季節だから」 「もうそんな季節なのですね」  病に倒れたのは晩秋のことだった。温暖なユエの短い冬はすでに終わってしまったらしい。眼下に広がる森は芽吹き始めた緑に染まっている。生まれが雪国の七緒からすればユエの冬は春のようなものだが、やはり気分が違う。 「ええ。私、十五になったもの」 「そうでしたね」  リーミンは春の生まれで、先週盛大に祝いをしたばかりだ。 「七緒の誕生日はいつなの? 教えてくれないけど」  七緒は思わず目をそらす。祝いたいと思ってくれるのはありがたいが、七緒には教えられない事情があった。 「実は自分でもわからないんです……」 「わからない?」 「はい。有明には誕生日の祝いをする習慣もなく、重視もされていないので知らないものが大半なのです。冬の生まれなのは確からしいのですが……」  ユエには誕生日を祝う習慣があるが、有明にはなく、重視もされていなかった。生まれ年と季節を覚えていても日付となると覚えていないものが大半だ。生まれた日の話になると必ず大雪が降ったということを引き合いに出されるから冬の生まれなのは間違いない。雪が深く音が吸い込まれて消えたがゆえに七緒の性別が容易に伏せられたという経緯もある。 「七緒にもわからないことがあるのね」 「もちろんたくさんありますよ。知らない物事というのはなくなることがありません。苦手なこともですが」 「苦手なこと?」 「こうやって運ばれるのも、しとやかにしているのも苦手です。努力で減らせないことはないのですが、どうしようもないこともありますし」  リーミンはくすくす笑う。七緒は週の半分は小袖を着て過ごすようになったが、所作は相変わらずだ。それでも努力しているらしく少しずつよくなっている。 「七緒は七緒らしいのは男の姿だと思う?」 「わかりません。こうして小袖を着るのも好きですし、直垂を着るのも好きです。どちらも私らしいと思います。姫はどちらが好きですか?」 「どっちも好きよ。凛々しい七緒もきれいな七緒も七緒だもの」 「そうですか」  七緒はふと笑う。七緒は少しずつ変わろうとしていた。隻眼になったことで以前できたことができなくなり、助けてもらうことが増えた。だからこそ、助けを求めることを覚えようとしている。そうしていることも悪くないと思えるようになってきた。自分一人の力だけですべてをどうにかできるわけではない。自分自身にも当然のように欠点があり、できないこともある。そういったことを受け入れられるようになったのは鈴乃が言ったようにリーミンの影響が大きいかもしれない。リーミンはいつも受け入れてくれる。 「あ、ほら、見えて来たわ」  リーミンが指した先に七緒は視線を移す。薄紅に染まる丘が見えた。 「お父様が言っていた通り満開ね」 「なんの花ですか?」 「桃よ」 「有明の桃とは色が違います」  有明の桃の花はもっと色が薄かった。 「そうなのね。有明は寒いから?」  有明はユエよりも北方にあり、標高も高いため寒冷だ。雪も深く、冬も長い。七緒が色白なのはそのせいかもしれない。 「そうかもしれませんね。植物の植生もかなり違っていますし」 「そうなのね」  七緒はゆっくりと地上に下ろされた。いつもより、少しだけ乗り物酔いが酷くなかった。話しながら来たおかげだろうか。これまで無言で乗っていたのがよくなかったのかもしれない。 「大丈夫そう?」 「歩いていればよくなるでしょう」 「よかった」  リーミンは七緒の手を取る。七緒は少し驚いたが、そのまま歩き出す。リーミンは歩くつもりらしい。七緒はリーミンに合わせてゆっくり歩く。桃の花の甘い香りが空気を染めている。久しぶりの外出に七緒は気分が明るくなるのを感じた。 「桃の花がきれいですね」 「そうね。あなたの顔色もよく見えるわ」 「そんなに悪かったですか?」 「白すぎるんだもの」 「こればっかりは生まれつきですから」  七緒はくすりと笑って、肩をすくめる。確かに有明でも色が白い方だった。血色がいい方ではないから屋内にいると顔色が悪いと言われることは少なくない。翼人たちは肌が日に焼けているものが多く、リーミンのように元々肌が褐色のものもいる。そんな中で七緒の色の白さは自然と目立っている。ジージエも色白だが、七緒ほどではない。 「あなたのように美しい褐色の肌だったらいいと思わなくはないですがね」 「そうなの?」 「大切なかわいい私の姫のことですから、すべて愛しいのですよ」  リーミンは顔を真っ赤に染めて、とろりとした赤い目を伏せる。 「誤解されても知らないんだから……」 「誤解されてもかまいません。私にも、あなたに捧げたものが恋か忠義かわからないのです……」  顎を引き上げて一つしかない金の目で真っ直ぐに見つめると、リーミンは言葉をなくした。沈黙が二人の間に流れる。リーミンが口を開こうとしたのを見て、七緒は顎を離し、目をそらす。 「冗談です」 「からかうなんてひどいわ!」 「姫があんまりおかわいらしいもので」  七緒はリーミンを抱き上げて額同士をくっつける。まだ自分の抱く感情がなんなのかわからない。もう少しこのまま子どもとの遊びのままでいたい。 「大好きですよ、姫」  その言葉の本当の意味をリーミンにはまだ知られたくない。眼帯にした藤の花の刺繍の花言葉をリーミンが知らないように、自分の心も知らないままで、無邪気にいてほしい。 「私はずっとあなたと一緒よ」 「はい」  七緒はリーミンを下ろしてまた歩き出した。長い黒髪と赤毛が並んで揺れる。
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