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プロローグ 和平
鬱蒼とした森の中を騎馬武者の集団が行く。武具や馬具が静謐な森の中で無遠慮な金属音を響かせていた。山を下るにつれ森は徐々に開けてきたが、雪が解けたばかりの森はどこか陰鬱だ。春はすぐそこだというのになごり雪が木陰に残っているせいだろうか。
騎馬隊の中でひときわ目立つ緋縅の大鎧をまとい、愚かしいほど派手に飾り立てられた兜をいただく男がいた。彼こそ北方の山岳地帯を治める有明国の将軍、清川二緒だ。その彼が今、隣国との国境を目指すのは戦のためではない。戦であればこれほど派手な鎧で行軍するはずもなく、兵の数も少ない。これは和平のための行軍だった。
誰もが煌びやかな鎧をまとう集団の中にあって、一人だけ鎧もなく、暗色の直垂に侍烏帽子をつけただけの女がいた。白皙の頬に鋭い金の目、艶やかな黒髪のまだ十八になったばかりの清川七緒だ。彼女は二緒の末娘でありながら男として育てられた。そんな彼女がこの騎馬隊の中にあるのは隣国ユエに人質として差し出されるためだった。
平静を装ってはいるが、七緒の心中は穏やかではない。ユエとの和平の供物の一つにどうして自分が加えられると想像できただろうか。泣いて縋る母にこれも武士(もののふ)の務めと振り切ってきたが、七緒はそもそも男ではない。女であることが露見してしまった日にお前はもはや武士ではないと言い放ったのは父ではなかっただろうか。であるのに、武士として務めを果たせと言われた。父の始めた戦。男と偽ったのも父だ。自分の人生が自分のものではなく、狂っているのは父のせいであるというのに、責任を取らされるのはいつも七緒だった。しくじった出来損ないはどうなってもかまわないということだろうか。七緒は複雑な思いを抱きながら馬を駆る。
どうせ父の勝手で人質に出されるのであれば、一矢報いてやろうとさえ思ったが、平和の礎となれるのであれば犠牲になってもかまわないと七緒は思い直した。それゆえ彼女は馬上にある。髷を結わず大童にしたのは一つの反抗だが、なにも言われなかった。戦乱の申し子たる二緒にとっては些事でしかないのだろう。
不意に森が開け、広い川にかかった吊り橋が見えた。それが有明とユエの和平のために架けられた橋だ。ここで人質と和平の文書の交換が行われることになっている。この和平はどちらが有利不利ということもなく、ユエの翼人たちが平和を望んだがゆえに結ばれたものだ。予想よりはるかに多くの兵を失った有明にとっては渡りに船だったともいえる。
有明とユエでは国力の差が大きく、有明には数にものを言わせて侵攻を続けるという選択肢もあったが、翼を持つ彼らとの戦には失うものが多く、得策ではなかった。
翼人は広げると二間にも及ぶ大きな翼を持った種族だ。翼がある以外はヒトと大差ない姿形をしている。身の丈およそ四尺五寸前後と小柄で、見た目に男女の差はほとんどない。姿形に大差がないせいか、ユエではなににおいても男女同権だと聞いている。
そんな翼人たちの翼が空高くひらめくのが七緒の目にはひどく眩しく映った。白、焦げ茶、黄や青の翼をしたものもいる。そんな翼人たちが橋の向こうにゆっくりと降り立った。遠目では男女の見分けさえつかないが、衣装からして有明とは違う。温暖な気候ゆえかゆったりとした衣装を着ているようだ。有明側が鎧武者を連ねて来たというのに、鎧を着けているようにも見えない。
七緒は馬を降り、烏帽子を正す。
「七緒」
感情のない声で二緒に呼ばれ、七緒は無言で手を後ろに組む。二緒は七緒の手を麻縄できつく縛り上げ、腰に佩いていた太刀を取り上げる。罪人のようだと七緒は思ったが、それほどの感慨はなかった。
「父上、おさらばにございます」
「お前は死んだものと思う」
七緒は胸がつきりと痛むのを感じた。そこまでとは思わなかった。父の言葉に感情がないのは諦めていた。慣れていると思っていた。だが、死んだと思うと言われるなどとどうして思うだろうか。帝や二緒の気が変われば簡単に死ぬ地に送り出されるのに別れの言葉さえない。二緒は和平の文書を七緒の懐にぐいと押し込む。
「行け」
乱暴に背を押され、七緒はつり橋を渡る。揺れる吊り橋は二国の不安定な国交を象徴するようだ。中ほどで同じように手を縛られたユエの王子とすれ違った。王子は飛び立てないように美しい瑠璃色の翼も縛られている。だが縛っている紐は絹のやわらかいもので泣く泣く差し出されるのだと、畏敬と愛を一身に背負って橋を渡るのだと、その凛とした横顔からも知れた。だというのに七緒は麻縄で乱雑にきつく縛られ、荷物のように送りだされた。自分には父の愛さえありはしない。
不思議と涙は出なかった。泣いてたまるかと思ったわけではない。ただ、思っていたよりもずっと父に失望していたのかもしれない。七緒は傲然と頭を上げてユエの宰相の前に立った。
宰相イ・ジージエは白く大きな翼で金の髪をしていた。翼人にしてはひょろひょろと背が高く、とろりとした赤い目をしている。どこかおっとりしたやさしげな顔で女と見紛ったが、男だと聞いている。どうしてこのなよなよした男があの二緒から優位に和平を取り付けられたのかわからない。有明側が人質を条件に出した時、帝ではなく二緒の身内を要求したのもこの男だという。人は見かけによらないということだろうか。
「ようこそ、清川七緒さん」
ジージエの声は男にしては高く、女にしては低い。やはり見かけや声から性別はわからなかった。
「私たちにはあなたを拘束する意思はありません」
ジージエが指示を出すと七緒の麻縄が解かれた。冷たいだろうと勝手に思い込んでいた手はやさしく、あたたかい。
「武器も必要であれば所持を認めます。あちらで取り上げられたようですが、どうしますか?」
その言葉に七緒は戸惑う。これほどの自由を与えられるとは思わなかった。腰に帯びたままの小さな守刀も取り上げられるとばかり思っていた。すぐに牢に入れられることまで覚悟していたのに予想外の待遇だ。少数の犠牲で有明の先兵に大打撃を与えたがゆえの余裕だろうか。
「お許しいただけるなら太刀を佩きとうございます」
物心ついたころから履いていた太刀がないのは落ち着かなかった。ジージエはやさしく笑って焦げ茶の翼のずんぐりした部下に七緒の太刀を取りに行かせた。
「本当に良いのですか?」
太刀を受け取ろうとして迷った七緒の問いにジージエはゆっくりと口を開いた。
「私たちはあなたと友人になりたいのです。監視はさせていただきますが、監禁したり、拘束したりするつもりはありません。武器を取り上げないのは信頼の証です。あなたが私たちに害をなす意思を認めた場合、その限りではありませんが……」
平和を望む穏やかな民だという話は事実なのだろうか。有明が侵攻しなければ彼らが武器を取ることもなかったのかもしれない。護衛と思しき数人の翼人は武器を所持しているが、ジージエは丸腰で防具らしいものも着けていない。和平の仕上げであり、危険がないとはいえ、有明が裏切らない保証はないというのに。
七緒は目を伏せ、差し出された太刀を腰に佩く。
「わかりました」
ジージエの言葉には裏がない。そう感じた。
「では参りましょうか。ユエにはほとんど道がありませんから乗り物を用意いたしました。どうぞ」
示された乗り物を見て、七緒は天を仰ぐ。七緒はかつてその乗り物に乗ったことがある。彼女は乗り物酔いをするのだが、その乗り物に乗ったときは特別酷かった。だが、わがままを言える状況ではない。ジージエの不思議そうな視線を避けて、七緒は頭を下げる。
「お気遣い感謝いたします」
七緒は人一人がちょうど座れる大きさのかごに乗る。その乗り物はジャオといい、翼人が腰に取り付けた器具でかごを吊り上げて運ぶ簡素なもので、本来は大きな荷物を運ぶためのものだ。そのせいか、信じがたいほど揺れるのだ。翼人の羽ばたきによる上下の揺れに加え、風を受けて前後左右に揺れる。飛び立ってそうかからずに七緒は具合が悪くなっていたが、旅程はまだ二日ほどかかると聞いている。七緒は早々に覚悟を決めた。
船酔いは慣れると言ったのは誰だったろうと七緒は憎々しく思う。どうにかユエに到着はしたが、七緒はもう吐くものがなくなっていた。それでも吐き気が治まらず、青い顔でぐったりしていた。ジージエが色々と手を尽くしてくれたが、徒労に終わり、彼女はたった二日の旅でずいぶんと憔悴していた。
そんな彼女のもとに赤毛の子どもが姿を見せた。鳶色のハヤブサのような翼に褐色の肌をしている。とろりとした大きな赤い目に見覚えがあるが、気の強そうな短い眉が印象を変えていてわからない。大きすぎる龍の腕飾りをつけ、ゆったりとした袖と美しいひだの袴に似たスカートをはいている。三つ編みにした赤毛に花飾りをつけているところを見るに少女らしい。召使いの子どもにしては身なりがいい。
「ニンゲンって思ったより怖い顔じゃないのね」
子ども特有の高い声だった。その言葉にどう返すべきか迷っているとジージエが姿を見せた。
「リーミン! この部屋には近づいてはいけないと言ったでしょう! 申し訳ありません、七緒さん。すぐに連れて行きますので……」
ジージエは嫌がるリーミンの手を引いて、急いで去って行った。ジージエの娘のようだ。その意志の強そうな赤い目が嫌に印象に残った。
翌月、ジージエにしたいことはないかと問われた七緒はリーミンの護衛兼教育係に志願した。なぜそんなことをしたのか、七緒にもわからなかった。
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