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◇
今からざっと二百年ほど前のこと。
シグリットは、「シグリット・リレア」という名の聖女だった。
魔王がもたらした世界の危機を救うため、女神の導きによって十五の時に選ばれた。
手を一振りするだけで、千の魔物を打ち払い、千の傷を癒す……ことは流石にできなかったが、魔物を倒す力も、傷を癒す力も確かにあった。
聖女になってから約五年間、シグリットは王国騎士団と共に魔王討伐の任務にあたった。騎士団の実力は申し分なく、実際に危ないところを何度も助けられたことがある。
ただひとつ文句があるとすれば、騎士団から派遣されて来た護衛騎士の男についてだ。
その護衛騎士の名はラシュティバルトといって、その長ったらしい名前通り、非常に鬱陶しい男だった。
『前線に出過ぎないでください!』
『もっと周囲をよく見てください!』
『怪我人を一人で担いで行かないでください!』
『新人を片っ端から口で負かさないでください!』
『寝る前は返り血を拭いてください!』
『地べたでいきなり寝ないでください!』
『前に出過ぎです! 下がって!』
『貴女はもっと周りを頼って!』
腹の立つことに、こういう風に言われている時は大抵向こうの方が正しいので、いつもシグリットはむっつり黙って反省するしかなかった。
特にシグリットが傷を負った時の口うるささは凄まじく、「貴女は自分の傷は治せないんですよ! なのにそんな無茶をして!」と、いつもの倍くらい怒られた。
今思えば、彼は危惧していたのだろう。シグリット自身が取り返しのつかない傷を負うことを。
結果だけ見れば、彼の懸念は正しかった。
シグリットは魔王と相討ちになって、腹に負った傷を治すこともできずに死んだからだ。
その後のことはあまりよく知らないが、像が立ったり、シグリットの名前が流行ったり、誕生日が祝日になったりと、まあ色々あったらしい。蔵書室の『王国聖戦記』で読んだ。
それからあの本には、聖女の護衛騎士についても、聖女の死後どうなったのか一文だけ記述があった。
シグリットが死んだ後、あの男は……
「それ何してんの? シグリット」
ふいに横から声をかけられて、シグリットは思考の海から浮かび上がった。
声の方を向くと、修道院の仲間が不思議そうに自分の手元を覗き込んでいる。
シグリットの手元——蔵書室の机の上には、分厚い本に古紙とハサミ、それから一輪の青い花が並べられていた。
「押し花を作っているのよ」
「押し花?」
「そう。最近よく花が手に入るから」
「ふぅん、花がねぇ……」
「ええ」
「…………」
「…………」
「あ〜!! そっか! なるほど花!! 花ね!」
突如として膝を打ち大声を出す仲間に驚いて、シグリットの肩が跳ねる。ちなみに彼女は先日「玉の輿なら修道院に寄付よろしく」と言っていた人物である。
「何よいきなり。うるさいわね」
「それってあれでしょ、あのラシットハルトナルトさんからもらった花でしょ?」
「そうだけど、ラシットハルトナルトさんは誰なのよ」
恐ろしく言いづらい名前になっている。もう最初の「ラ」と最後の「ト」ぐらいしか原型を留めていない。
「初めて来た日からもう一月くらい経つんだっけ。なんか最初はものすごい大きな花束を贈ってくれてたよね」
「……花束は管理が大変だからやめろって言ったら、今度は毎回違う花を一輪だけ贈ってくるようになったわ」
ラシュティバルトが今世で初めて訪ねて来たあの日。
突然結婚の申込を受けたシグリットは、「嫌よ」とバッサリすっぱり断った。
落ち込み固まる男を追い返し、その日はそれでお開きになったのだが、そこでハイおしまいと言う訳にはいかなかった。
その数日後、あの男は「いきなり結婚は先走りました」といかにも反省している風の顔で再びやってきて、それから週に一度は必ず何かしらの理由をつけてシグリットに会いに来ては贈り物をしていく。
ちなみに最も多い理由は「今日は青空だったから」である。馬鹿なのか。
あの男のことを思うと、シグリットの眉間に自然とシワが寄る。口をへの字に曲げ、黙々と手を動かす彼女の様子をぼんやり眺めていた仲間は、不思議そうに問うた。
「ねぇ」
「なに」
「シグリットはさ、その人のこと嫌いなわけじゃないよね」
いきなり核心を突くどころか抉ってきたその言葉に、シグリットの手がピタリと止まる。
「確かにいつもしかめっ面して会ってるけど、それはアンタの標準装備っていうか、今に始まったことじゃないしさ」
「…………」
「結構な面倒くさがりのくせに、毎回もらった花をこうやって押し花にしたりして大切に保管してるし」
「…………」
「それに何より、どんなに悪態ついたとしても、“もう来ないでほしい”とはアンタ絶対に言わないじゃん」
「…………」
自分は側から見てそんなに分かりやすい人間だったろうかと、シグリットは思う。
きっと無意識のうちに浮かれていたのだ。もう会えないと思っていたのに、急にひょっこり目の前に現れるから。駄目だと分かっているのに、無遠慮に手を差し伸べてくるから。
指摘に対して否定も肯定もしないシグリットに、さらに仲間は続ける。
「いきなり結婚まではいかなくてもさ、恋人とかにはなってみてもいいんじゃないかなぁとか、外野から見てる分には思ったりするんだけど」
「……そうね」
目を伏せたまま、シグリットは小さく頷く。
ちょうど押し花の作業が終わり、花を挟んだ分厚い本をそっと閉じる。
その閉じた本のタイトル——『王国聖戦記』を睨みつけながら、シグリットは言葉をこぼす。
「でも私とあの男は、一緒にならない方がいいわよ」
今日の花は、この本の四五八ページと四五九ページの間に挟んだ。ちょうどこの辺りは、聖女が死んでからすぐ後のことを記している部分でもある。
その四五九ページの、前から数えて三行目。
繰り返し繰り返し何度も読んだから、あの一文がどこにあるのかもう覚えてしまっている。
『聖女の死後、彼女の護衛騎士はその跡を追って殉死した。』
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