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歩き始めて、何かがおかしいと感じた。
自転車を降りた場所から北へ百メートルほど歩くと県道と交差する。そこを左に折れて最初の横断歩道を反対側へ渡れば数十メートルで実家に着く。
だが交差点まで来たとき、そこに見覚えのない歩道橋が県道を跨いでいることに気付いた。前回帰省した時には明らかに無かったものである。
おまけに新しく設置されたにしては、あまりにも老朽化している。手すりは錆び、階段の底板は波を打ち、渡ろうとすると今にも踏み抜いて穴でも開きそうなくらい心許ない。
不可解な気分を抱えながら、翔一は左折し県道に沿って歩いた。横断歩道まで行くのが面倒になり、車が来ないのを確認し県道を渡ろうと、右方向に視線を動かした時だった。
歩道橋のたもと、県道と先へと続く遊歩道との角に、小さな明かり灯っているのが見えた。
「高校の近くのお好み焼き屋、去年閉店したらしいぞ。」
一緒に飲んだ同級生の一人が、そう教えてくれた。
「というより、まだやっていたのも少し驚きだけど。」
「親父さんが亡くなったらしいんだ。俺たちが帰りに寄っていた頃は、まだ五十代の前半くらいだったと思うから、それから十七年たって、七十歳前後か。」
翔一は頭の中で計算をする。それほどの年数が経過してたことに改めて驚き、軽い眩暈すら覚えた。
「親父さんがいなくなった後、女将さんだけで半年ほど営業していたらしいんだけど、やっぱり一人だと大変だったみたいで。」
部活の帰りに空腹を満たすため、週に三回は行っていた。
そのお好み焼き屋に今、明かりが灯っている。
様子を見るだけと思って近寄った。それだけのはずだった。
店の目の前に翔一が立った瞬間、中から若い女性が飛び出してきた。ちょうど暖簾を下ろすところだったらしいその女性は、翔一の姿を見て最初驚きの表情を見せ、それから悲鳴のような嗚咽を漏らすと、そこから泣き笑いの表情になって、翔一に近づいた。
「来てくれるなんて…。もうお店を終わろうとしていたんです…。」
貞行さんが最後のお客さんで…本当に、良かった…。
女性は翔一の手を両手で包み込むように握った。翔一は訳も分からず、言われるがまま店の中に招き入れられた。
「街で飲んでいらしたんでしょ。ビールと、半玉を焼きますね…。」
女性はおそらく二十代半ば。美人とまではいかないが小柄で笑顔が可愛らしい。オーダーしてもいないのに鉄板に油をひき、具材を流し込む。中瓶のビールがグラスに注がれ、ラベルを見ると、翔一が知っている銘柄なのに見たことの無いデザインだった。
腹は満たされていたが肉の焼ける匂いが食欲をそそった。シンプルな豚玉にソースとマヨネーズをかけ、口にすると高校の頃の時間がリアルに蘇った。
「学校に通っていた頃、よく寄りました。練習が終わって、仲間とこいつを食べたっけ。」
女性は翔一の言葉に一瞬、手を止めたようだったが、その後は洗い物に精を出している。
「あの…閉店したってお聞きしたのですが…。」
明かりが点いていて驚きました…。
女性は夫婦の娘だろうか。店を継いだという話は同級生の情報にもなかった。
「正確には今日までの営業です。三月の末日。」
今一つ状況が分からないが、女将さんが店を閉めようとし、その後娘が継いだが、やはり閉店することになったということだろうかと、翔一は解釈する。
もう一つ聞かなければならないことがある。
「すいません、貞行さんというのは…。」
どなたですか? 僕に似ているんでしょうか…?
そう聞こうとしたが女性が同時に口を開いたため、その台詞にかき消されてしまった。
「母の体調が悪くて、だったら私が続けようと思ったんですけど…やはり母の味は私には出せない。そのせいか、お客さんも減り店はずっと赤字。場所も良くないんです。住宅街の真ん中で線路のすぐ横。電車が通ると古い建物は揺れてお客さんの会話も聞こえなくなる。でも、母がずっと守ってきた場所だったので、何とかしたくて…。」
父親の話が一切出てこないことは気になった。それに電車が通って店が揺れるとは一体どういうことか? ここに北遠線が走っていたのは今から三十年以上も前のことではなかったか…。
「けど、一番の大きな理由は、貴方にもう会えなくなるからです…。」
翔一は女性の顔を見た。笑いながら涙を流していた。
「言ってしまいました…。」
女性は天井を見上げる。これ以上涙をこぼすまいとしているようだった。
「海外へ赴任して一年ぶりに会えたといっても、この先も何年になるか分からないんですよね。でも私はこの地を離れられない。店は今日で無くなるけど、病気の母の面倒は私が見るほかありません。」
貞行さんという男性は、果たしてこの女性のことをどう思っているのだろう? 両想いなのかそれとも女性の片思いか、それを聞くに聞けないのが翔一はもどかしかった。
「あと少しで最終列車がここを通ります。」
女性の声のトーンが不意に低くなった。
「店は続けられず、貴方の姿ももう見られない。母の看病にも疲れて、もういいかなって…。」
あの歩道橋から電車に飛び込んで死のうと、少し前まで本気でそう考えていました…。
翔一はその場を動くことが出来なかった。目の前には先ほどより勢いを失った湯気が店内の空気に溶けては消え、あとは掛け時計の秒針が刻む音だけが、耳の中でエコーとなる。
翔一は箸を取ってお好み焼きをすくった。口の中に運ぶと甘辛い味覚がふわっと広がる。高校生だった頃に食べた味とまったく変わらない…。
「私には、多分この先何も無いんです…。」
女性は自らに言い聞かせるように、呟く。
「世の中は煌びやかで、私にも何かいいことが起きるんじゃないかって、そう思っていたんです。でも、私の周りでは何も変わらなかった…。」
そう言われてふと壁に掛けられたカレンダーを見やる。三月の隣には四月があった。そしてその中の、ある日付を翔一の視線がとらえた。
まさかとは思ったが、そういうことか、と妙に納得する自分がいる。翔一は覚悟を決めて口を開いた。
「僕がこんな勝手なことを言っていいのか…。それに、信じてもらえなくても構わないのですが…。」
そう、前置きをしてから話し始めた。
店は、続けた方がいいです。いえ、ぜひ続けてください。僕の知る限りでは、二年後にここから歩いて三分の場所にもう一校、新しい高校ができます。その隣には市民病院が移転してきます。市立図書館も新設されます。街は少しずつ変わり、この店にお好み焼きを食べに来る人は、間違いなく増えます…。
それと、店が振動する問題は、あと一年以内に解決するはずです。理由は何となく内緒にしておきます。すぐにわかる話なので…。
女性は翔一の話す未来を黙って聞いている。その目は翔一の言葉を信じていいのか、それとも出まかせな台詞に対して怒りを表明すべきなのか、揺れているように感じた。
そして翔一は、いちばん伝えるべきことを、女性の目を見て口にする。
「僕は残念ながら、もうここに来ることは出来ません。そんな人間が何をいい加減なことを言っているんだと思うかもしれませんが…。近い将来、貴方には大切な人が現れます。信じてもらえないとは思いますが、それは本当のことです…。」
その男性と出会い、この店はあと三十年以上続くことになる。人のよさそうなご主人が奥の調理場で黙々と働き、貴方はお客さんの対応をする。部活を終えた高校生や病院勤務の職員、新しくできた住宅街に住む家族たちがここを訪れ、ご主人がやがてその人生を終えるまで、店はずっと繁盛するはずです…。
「だから続けてほしい。豚玉、とても美味しかったですよ。」
「気持ちは嬉しいけど、貴方にそう言われても…。」
困惑の感情を絞り出すように、女性はそう呟いた。翔一はそれを聞いて頭を下げた。ごめんなさい…。
「けど、本当に美味しかったです。職場に戻ったら、この街に出張する同僚たちに店のことを話すつもりです。美味しいお好み焼き屋があるから、寄ってほしいって…。」
それを聞いた時、女性は視線を翔一の方に向け、それまでより強めの口調で言った。
「そういう優しさは、優しさとは言わないんですよ。」
怒ったのかと思った。いや、半分はそうだったろう。だが女性はすぐ笑顔になり、ありがとうございます、と頭を下げた。
不意に外から轟音が響き、店が振動した。最終列車が通過したのだろう。
「確かに揺れますね。」
翔一は笑ってそう言った。女性は黙ったまま、しかし同じように笑った。
店を出ようと翔一は立ち上がり、もう一度カレンダーを見る。錯覚ではなかった。翌月の二十九日の下に、小さな赤文字で「天皇誕生日」と記されていた。
店を出ると、そこには見慣れた景色が広がっていた。県道に架かる錆びた歩道橋など、どこにも存在しなかった。そして振り返った時、今しがたまで灯っていたはずの店の明かりも、もうどこにも見えなかった。
南電道路も、むろん遊歩道のままだった。
県道に沿って歩くと、コンビニの前にさしかかる。煌々とした店の入口に立つのぼりの旗には、売り出し中のアイドルグループとコラボレーションした商品が宣伝されている。ミネラルウォーターを買おうと店内に入ると、前年にブレイクしたバンドのヒット曲が絞った音量で流れている。
翔一はスマホをかざして代金を支払う。星が跳ねるような音が流れ、アルバイトの店員が支払いを確認すると、ありがとうございました、と感情の無い小声で言う。
歩きながら翔一はペットボトルに口を付ける。喉を潤しそして立ち止まり、
「やっぱり、飲んでましたよね…。」
と、呟くと、少しだけ笑ってから再び歩き始めた。
店の若い女性には、確かに面影があった。そして、ここまで翔一を運んできてくれた自転車の男性にも――店の奥の調理場で黙々と働いていた――その面影が間違いなくあったと、そう感じた。
どこか遠くで警笛が鳴ったような気がした。翔一はそれを耳にすると、県道から離れ、そのまま振り返ること無く、住宅街へと足を進めた。
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