0人が本棚に入れています
本棚に追加
目の前で終バスに行かれた。
つい話が盛り上がり、ポケットに入れていたスマホのアラーム音にも全く気付かなかった。あとはタクシーを拾うか歩いて帰るしかない。三月末にしては暖かい夜で、酔った勢いも手伝って冨山翔一は後者を選んだ。
国道をしばらく歩いてから近道をしようと脇へ逸れた。深夜にも関わらず多くの車が行き交う幹線道路を離れると、不意に夜の地方都市の静けさが辺りを覆った。そこから更に住宅街の奥へと進むと、南電道路に行き当たった。
浜南電鉄――通称「南電」は、この街を走る唯一の私鉄だ。市の中心部にあるJRの駅から南西へ伸びた浜南本線は、街の西隣にある湖畔の温泉街までの約十キロを結び、今も昔も観光路線としての需要がある。一方で北へ向かう北遠線は、市民の通勤通学のための路線として開通したが、市街地を縫うように走るルートを取ったせいか、直線区間が殆ど無く迂回がやたらと多い。距離のわりには時間もかかり、次第に別の交通会社が乗り入れた路線バスに客足を奪われはじめると、やがて廃線の憂き目にあう。南電道路はその廃線跡を整備して作られた、いわば遊歩道だった。
道の脇には民家がせり出すように建てられている。かつてはそれを掠めるように二両編成の赤い電車がここを走り抜けていた。北遠線は翔一が生まれたその年に廃止されたので、翔一自身はここを電車が走る光景を見たことは無かった。
単線の軌道幅より少しだけ広い遊歩道を進んでいくと、南電道路唯一のトンネルの前にやって来た。レンガ造りの外観に続いて、コンクリート打ち放しのトンネル内部には埃の溜まった蛍光灯が連なっている。中には交換がなされていないのか、弱々しく点滅を繰り返すものもあった。
翔一は少しだけ怖気づいて入口で足を止める。一部では心霊スポットとも呼ばれるこのトンネルは距離にして百メートルほどの長さだが、くすんだ明かりに照らされた内部やその先に見える漆黒の出口を見るに、深夜に一人で来る場所じゃないよな、と少しばかりの後悔を覚えた。さりとて今から国道に戻って遠回りをする気にもなれず、ここは急ぎ足で一気に通り抜けるべく深呼吸をし、それからしっかりと前を見据え、足を踏み出そうとした。
「どこまで行かれるのですか?」
その声に、翔一は短い悲鳴をあげた。人が近くにいる気配など全く無かった。
「すいません…。誰かがいるとは全く思っていなかったので…。」
自転車に跨った男がこちらを見ている。翔一と同じくらいか少し年上のその男は、丸刈りの頭に恰幅の良い身体つきをしており、笑うと人の良さそうな表情になった。
「どこまで行かれるのですが?」
翔一が言葉を出せないでいると、男は再びそう、尋ねてきた。
「深夜にここを歩いて北の方角へ向かうのは、たいがい終バスに乗り遅れた人です。違いますか?」
男の優しい語り口につられて翔一は、そのとおりです、と答えた。三たび行き先を聞かれたので、広橋町の二丁目です、と答えた。
「それは歩くと随分かかります。この時間ですから大人の男性でも危険が無いわけではありません。よかったら私の自転車に乗っていきませんか。第一高校前までですが、そこからならすぐ近くでしょう…。」
男は翔一に、後ろの荷台に乗れという。自転車の二人乗りなど高校の時に彼女を乗せて走った時以来だ。しかも今回は相手が男性、加えて翔一が後ろに乗る立場。気恥ずかしいと言えば気恥ずかしい。
「北遠線が走っていた頃は、この時間でもまだ電車があった。バスになってから、かえって不便になりました。」
ずいぶん昔の話をする、と翔一は思った。この男だって、おそらくここを電車が走るのを見たのは、ほんの幼少期の頃のことだろう。
「臨時列車です。どうぞ、後ろにお乗りください。」
酔いがまわって歩くのが少し辛くなっていたところだった。男は悪い人間には見えなかった。翔一は彼の申し出を受け入れ、自転車の荷台に跨った。
「北遠町行きの臨時列車、間もなく発車します。和泉公園より先にお越しの方は、これが本日の最終列車となりますので乗車をお急ぎください。」
かなり再現度高く駅員のアナウンスを真似てから男は走り出した。トンネルを呆気なく抜けると、自転車は夜の遊歩道を疾走していく。
「ちょっと飲んでます?」
翔一が荷台から男に声をかける。
「なぜですか?」
「なかなかテンションの高い出発アナウンスだなと、思ったものですから…。」
翔一とて飲んでいなければ男の申し出を受けていたかどうかわからない。そのくらい今の状況が奇妙なシチュエーションだとは感じる。
「そういうことにしておきましょうか。」
男は機嫌良さそうに言うと、その後しばらく黙った。夜風が頬を叩きつけるが、その芯にもう冷たさはない。春の風だと翔一は感じた。
「ずっとこちらにお住まいですか?」
もうすぐ目的地というところで、今度は男が問いかけてきた。
「いえ、今は東京です。実家がこっちで、久しぶりに帰省して高校の同級生と飲んでいたらバスを逃してしまって…。」
そうですか…。男はそれ以上何も言わなかった。
「すいませんが、私はこの裏が家なんで、ここまででいいですか?」
やがて自転車は減速すると、男が先に降りた。周りの景色を見ると、翔一の母校でもある第一高校の外壁に沿ったかつてのプラットホームの遺構が、街灯の淡い光に照らされている。
「ありがとうございます。ここからならすぐ近くです。五分も歩けば着きます。」
私も貴方と話せてよかった…。男はそう言って再び自転車に跨る。翔一はもう一度お礼を言うと、男は何も言わず笑顔だけを返してきた。そして走り出して少ししてから、
「次は西丘町、西丘町に止まります。」
夜空に通る大声でそう言うと、そのまま北に向かい、やがて見えなくなった。
「やっぱり、飲んでますよね…。」
翔一は男が去った後で一人、呟いた。そうでなければ駅員のアナウンスの真似など、大の大人がするとも思えなかった。
最初のコメントを投稿しよう!