第三話 一回だけでいいんだ

2/4
前へ
/18ページ
次へ
「……ご近所ってなに?」 「ああでも言わないと、物黎(ものくろ)と一緒に帰る口実、なくなるだろ」  家に向かう道を歩きながら、私はじっとりとため息をついた。  灯点頃のほうは見ない。ひたすら前を見てぽてぽてと歩く。 「まさか家までついてくる気?」 「それ以外になんの目的があって、俺が物黎と一緒に帰ると思う?」 「虫よけとか。今は春だし、それなら助かるけど」 「……物黎、まさかあの時の、普通の虫よけだと勘違いしてたのか?」 「だって虫よけって言ったのは灯点頃」 「いや、そういう意味じゃなくて」  訳が分からない。そう言えば確かに、真冬になんで虫よけ? とは思ったけど、隠語だったのかな。  そこまで考えて、思い当たったのは仮面屋敷の暗号くらいだけど……それなら、調べなくてもいいな。というより、調べたくない。 「私、できればもう、仮面屋敷には関わりたくない」 「ちょっと待て、なにをどう勘違いしてる?」 「勘違いじゃない」  私は足を止めて、じっと灯点頃を見上げた。 「私はもう、仮面屋敷を辞めた」 「そうだな」 「灯点頃のバディでもない」 「――けど、俺はもう一回、輝千と任務がしたい」  何を言っても聞かない灯点頃に、私ははあっと大きく息をついた。 「――もう灯点頃嫌い」  軽い返事が返ってくると思っていた。  けど、隣で微かに空気が揺れる気配がして、それっきり何もない。  あれ、と思って隣の灯点頃を見上げると……一瞬だけ、灯点頃の瞳に、かすかに痛いような、少し切なそうな、苦しいような、そんな感情が浮かんでいるように見えて。  けれどすぐに灯点頃はふっと目を閉じて表情を緩めたから、胸に引っかかった顔も見えなくなってしまう。  ……なに。  なんだったんだろ、今の。  気のせい、じゃない。  強張った顔つきは、絶対、気のせいなんかじゃなかった。  目を細めて灯点頃の顔を凝視していると、灯点頃の唇がかすかに動き、「……そうだな」と声が落ちた。  いつもよりもずっと、やわらかなその声は。  私を傷付けないようにというよりは、自分の胸の奥の傷を隠そうとしてるように聞こえた。  なにかがひっかかって眉をひそめた瞬間に、ふわりと長いまつ毛が動いて目が開き、いつも通りのまなざしが私に流れる。  目が合って、灯点頃の目が愛しいものを見るように、痛みをこらえるように、静かに細められた。 「そうだよな」  私じゃないどこかに言ってるみたいに、灯点頃は小さく小さくもう一度呟くと、唇の端をかすかに持ち上げて微笑む。 「知ってる。……でも、一回でいい。今夜だけ、俺のワガママに付き合って。そしたらもう、何もしないから。俺のことも仮面屋敷のことも、忘れたいならそうしていいけど、だけど今日は、俺と一緒に来て、前みたいに、一緒に任務やってよ。一回でいいんだ」  一回だけでいいんだ。  そう言うと、灯点頃は顔ごと視線を逸らして、かすかに目を伏せた。  私は灯点頃の横顔から目を逸らさない。  でも、灯点頃と視線は合わない。  私の方を向かずに、すこし先の地面を見つめたままで、ごめんな、と灯点頃が呟いた。  私は何も言わなかった。ううん、とも、うん、とも、それ以外の、なにかを聞いたり励ましたりするような言葉も。  何か言いたくなったわけでもないし、何かを言おうとしたわけでもない。  何も言えなかったわけでもない。  私はただ、あんまり話さなくて、思ったことを声に出そうと思うこともそんなになくて、ふと何かを考えても、それを口にはせずに黙ってる。  そういう性格で、そういう体質で、そしてそれを灯点頃はよくわかってて、灯点頃の前では無理に何かを取り繕ったり、沈黙を続けないように必死に話し続ける必要がないだけ。  お互いに黙ってても、心の底の根っこはどこか同じで、言葉にしなくてもなにかが伝わる。  細かいことが全部通じるわけじゃないけど、なんとなく相手が自分と同じことを考えてることとか、居心地がいいこととか、自然に息ができることが感覚的に分かった。  今までもそうだった。  だから何も言わなかった。  それだけだ。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加