第二話 さようなら、日常

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 ついていかなかったら後でもっとひどいことになりそうだし、何よりあの雰囲気の教室にいたくなくて、私は仕方なく実の後を追いかける。  実はまるで迷いなく歩いて、階段を昇っていく。  三階まで来ると、その先の屋上に続く階段は、私の腰丈くらいに張られたビニールテープと「関係者以外立ち入り禁止」の紙でそれ以上昇れないようになっていた。のに、実は何のためらいもなくテープを乗り越えて屋上へ向かう。  私もテープの下をくぐって、階段を昇る。  実がポケットから髪留め用のピンを取り出して屋上に続くドアの鍵穴を数秒いじると、あっという間にガチャッと手応えのある音がした。 「……相変わらず泥棒に転職できそうな腕だね」  ぼそっと呟くと、ドアを開け放った実は一瞬私の方を振り向いた。  細い瞳が、心なしか冷たく凍てついているように見える。 「言いたいことはそれだけか?」  女の子たちに向けた王子様バージョンとは真逆の、静かな低い声。  とは言っても、実だっていつもこんな低音なわけじゃない。  分かってはいたけど、だいぶ怒ってるな……。ますます後が怖い。  実が屋上に足を踏み入れる。  私も続けて高い空の下に踏み込んだとたん、ぐいっと勢いよく手首を引かれた。  不意打ちでよろける私の頭の上に、絶対零度の低く重たい声が降ってくる。 「……俺から聞きたいことは色々ある。けど、まずお前から話すことがあるなら、そっちを先に聞く」  私を見下ろす実の顔に、前髪がゆらりと影を落とす。  今まで見たことがないほど、冷え切った瞳。 「……手が痛い」 「それは我慢しろ」  緩むどころか、ますます手首に力がこもった。 「本当なら朝捕まえて、離さないつもりだったんだよ。昼休みまで我慢したぶん、褒められていいくらいだろ」 「別に自分で我慢したわけじゃなくて、私が止めたからやめたんでしょ」  断言できる。あの柏手を打たなかったら、実はあの場で私を捕まえて質問攻めにしてたに違いない。  実は瞳にまったく感情を浮かべないまま、くっと眉を寄せた。 「だから?」 「離して」 「無理。……『物黎(ものくろ)』、お前自分がやったことの自覚あるか? どれだけ心配したと思ってる」  モノクロ。私の名前の代わりだった言葉。  久しぶりに聞く名前だ。  もう二度と聞くことはないだろうなと思ってたから、なんだか懐かしい。 「それはごめん。でも、手は離して」 「絶対に嫌だ」 「離さないなら、私も『灯点頃(ひともしごろ)』に何聞かれても答えてあげないから」  灯点頃の響きも懐かしくて、思わず目を細めた。  一年前まで、ずっとこの名前を呼んでいた。たまにヒトモとかシゴロとかって略してはいたけど。 「……じゃあ、これなら?」  しばらく考えてから実――灯点頃は手首を離し、代わりに私の手を握る。  強く捕まえてたさっきと違って、宝物をおずおず触るようにそっと。 「これなら痛くないから及第点」 「よし、じゃあこれでいこう!」  ぱっと灯点頃の顔が輝く。  そして次の瞬間、またその顔が真剣に切り替わった。 「で、いきなり仮面屋敷を抜けたのはなんでだ?」  なんの迷いもなく、ド直球の質問がきた。  こういうところ変わらないなと思いつつ、私は淡々と答える。 「別に理由はない。いる理由がなくなったから」 「なんで?」 「なんでって言われても」 「いきなり、『物黎』はもう辞めたからバディ解散で今日から一人任務って言われた俺の気持ちを考えろよ」 「灯点頃の気持ちとかわからない。それは知ってるでしょ」  あからさまに不機嫌な灯点頃に対し、私は断言した。  コードネーム『物黎』。  小学二年生になる直前の春休み、私は「仮面屋敷」に入って、その名前をもらった。  所属する人間全員が仮面をつけてコードネームを使う、一般的にはまったく知られていない組織「仮面屋敷」。  組織とは言っても、やることは特に決まってない。依頼があれば叶える、ただそれだけ。どんな依頼でも断らず、そして絶対に失敗しない、何でも屋の強化版みたいな組織だ。  私はそこで一年間、ずっと灯点頃とバディを組んでいた。  三年生になって私が仮面屋敷を辞めるまで、ずっと相棒だったんだ。お互いのことはなんとなく分かる。  私が人の気持ちを理解も想像もできないことだって、もちろん灯点頃は知ってる。
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