第1話

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 今は三月中旬の夕方六時だから、陽はほとんど沈んでいて、日中の温かさに比べてだいぶ冷え込んできた。  こんなときに行きつけの居酒屋でもあればいいのかもしれないが、そんな都合のいい場所を持ち合わせていない。 (……なんか、今日はまだ帰りたくないな)  穂高が住むアパートの目の前まで来たものの、家の鍵を取り出す気にはなれなかった。  どうせ帰っても誰もいないし、風呂を沸かしてから冷蔵庫にあるもので適当な食事を作るだけだ。今すぐ帰らなきゃいけない理由は何もない。 (もう少し歩くか……)  特に目的を持たず、自宅を素通りした穂高。  駅から遠ざかる方向には普段なかなか行かないから、この道の先に何があるのかはわからない。  行く当てがないこの感じが、今の穂高の状況にマッチしている。  そう思った穂高は、一人で苦笑しつつも、何か新しい出会いがあればいいなと、淡い期待も抱いていた。  しばらくは住宅街が続いていたが、やがて大きな交差点に出た。  ここを直進すると帰りが厄介になりそうだと思った穂高は、たまたま信号が青になっていた左方向へと歩みを進めることにした。
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