ひかりさんとケンさん

1/1
25人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「……えー、水原ひかりさん……水原早苗さんのご家族様ですね?」 「はい! あの、母が……水原早苗がこちらに救急車で運ばれたと伺いまして……母はどちらの病室におりますでしょうか?」  病院の受付でそう尋ねながらも、私はまだ現実味がなくふわふわした状態だった。  高校の授業が終わり、いつものようにファミレスでバイトしていると、いつもおっとりしている店長が、慌てたように早足でテーブルを片付けている私のところへやって来た。 「ひかりちゃん、急いで帰り支度して」 「え? やだなあ店長ったら。まだ一時間も働いてませんよ」 「お母さんがね、職場で倒れたらしくて救急車で病院に搬送されたんだ。だから急いで」 「──え?」  私の家は母子家庭である。  高校三年生の私と中学一年生の弟、そして小学校五年生の妹と母。  ごく普通の会社員だった父は、急性心筋梗塞で五年前に亡くなった。  家自体は亡き祖父母が建てたものだったのでローンなどはなかったが、古い木造家屋なのであちこち補修する必要があったり、固定資産税なども掛かる。  私には良く分からなかったが、亡くなった際にまだ四十歳だった父が払っていた厚生年金の額から算出された遺族年金では、子供三人を学校に通わせ食べさせて行くのは厳しく、そこそこの貯金はあったが母も働きに出る必要があった。  私が高校生になってからは学校に事情を説明し、家計のためのアルバイトを認めてもらったので、毎月得たバイト料は必要経費を除いて母にほぼ全てを渡していた。  部活動などしているゆとりはなかったし、数少ない友人と教室で話をするぐらいが楽しみの生活だったが、特にそれが嫌だったわけでもない。それが当然だと思っていたし、母の負担を軽くしたいと思っていたので、バイト出来る年齢になったことの方が友だちと遊ぶよりも嬉しかった。  高校を出たら就職したいと言う私に、母はずっと大学ぐらい行くお金はあると私を翻意させようとしていたが、元からそんなに勉強に興味はなかったので気持ちは揺らがなかった。  担任の佐々木先生も私の家の事情を知っていたため、就職に尽力してくれた。ごくごく平凡な成績の私でも十一月頃には中堅どころの会社の一般事務として就職の内定も貰えたのは、ひとえに佐々木先生の助力あってこそである。  これで春に卒業して正社員として働けるようになれば、もっと母に楽をさせてやれるはずと安心していた。  弟は私よりも頭が良かったし、大学だって行かせてやりたい。妹もこれからお金が掛かる。だから母と二人で頑張って家族を養って行かないと、と気負っていた。  だから病院に行った時には、既に母がこの世の人ではなくなっていた、などとは夢にも思っていなかったのだ。くも膜下出血だった。  親しく付き合うような親族もおらず、頼れる大人が周りに居なかった私は途方に暮れ、連絡出来るのはただ一人、担任の佐々木先生だけだった。  十年以上前に暴力を振るう旦那さんと離婚してからずっと独り身だった佐々木先生は、生活指導も兼任しており、だらしない服装の生徒や授業中お喋りしている生徒に厳しかったので、一部の生徒からは嫌われていた。だが言う相手によって態度が変わることもなく、生徒に理不尽な対応をした先輩教師にも向かって行ったりと尊敬している生徒は多かった。そして私の唯一の相談相手でもあった。  佐々木先生は連絡をしてからすぐに病院までやって来てくれ、その後も葬儀の手配から書類の手続きまで全部バックアップしてくれた。 「今は泣きたいだろうけどひとまず我慢よ。泣いてもやることは減らないのだから。弟さんや妹さんだって不安になるでしょう?」  と厳しい口調で言ってくれたので、言われた通りに何も考えずに動けた。佐々木先生がいなければ、私は幼い弟と妹を抱え絶望感に押しつぶされていたに違いない。  小さな骨壺に入った母を抱え、弟たちと自宅に戻った私は一人考えた。  あと数カ月後に働ける場所は決まっていたが、のんびりと卒業を待っている状況ではないのではないか。  裕福ではないが家族が一年は暮らせる程度の貯金はあるし、少し経てば母の生命保険も何百万か下りるらしい。だが母が亡くなったと言うことは、今まで母が稼いで来た給料が今後一切無くなると言うことを意味する。いつどんな時に大金が掛かるようなことがあるかも分からない。私の一馬力で未成年の弟妹を抱えて行かねばならないのだ。焦りが出て来た私は早速佐々木先生に相談した。 「……あのねえ水原さん。今時中卒扱いで正社員に雇ってくれるところは少ないわよ? 長い間修業するような技術職ならあるかも知れないけれど、一人前になるまで当然お給料は少ないだろうし」 「そうですか……あ、それなら水商売とかなら──」 「水商売って簡単に言うけどね、その手のお店があなたが定年になるような年齢まで雇ってくれると思う? お店を持てるぐらいまで行けば話は別だけど、若さも大切でしょう? ああいう華やかな場所って。そういう接客業が天職だって人も確かにいるのだけど……水原さんって性格的に不器用って言うか、お店に来る男性を適度におだてたり、セクハラされそうになっても上手く躱したり、いい気分にさせて貢がせるのが平気なタイプではないと思うのよ。自分にお金使わせるのは申し訳ないとか思っちゃうでしょう? 気を悪くしないで欲しいのだけど、正直向いてないと思うわ私は。お酒飲み過ぎて健康に害が出たら働けなくなるし、弟さんたちだって困るじゃないの」  そう言われてしまえば確かに、と思ってしまい返す言葉もない。 「大事なのは、水原さんが健康で長いこときちんと仕事が出来る環境であることよ。そして、高卒の資格ぐらいは持ってないと、今後転職する際にも確実に苦労する可能性が高いってことなの。仕事に恵まれなくなるってことは、先々弟さんたちにも迷惑が掛ってしまうことにも繋がるわ。だから高校はきちんと卒業しなさい」 「はい……」  私はやはりまだまだ子供で、目先のことしか考えられない。亡くなった母に申し訳ない。  落ち込む私の肩をポンポンと叩いた佐々木先生は、優しく告げた。 「急いては事を仕損じる、って言うじゃない。慌てたくなる気持ちも分かるけど、どっしり構えていた方がいい時もあるのよ。卒業しても私は相談に乗れるし、困ったことがあったらいつでも連絡しなさいな」 「はい……本当にありがとうございます」  私は本当に周囲の人に恵まれている、と頭を深く下げるのだった。  幸いにも卒業後入社した会社は良い先輩ばかりで、会社も家庭の状況に理解があった。  母が亡くなり姉弟だけの生活になった私たちを心配してくれ、小さな子供だけで夜の留守番させるのは、と残業などもなるべくさせないようにと気遣ってくれたし、田舎から送って来たからと野菜を持って来てくれる先輩もいれば、人気のある映画のチケットを「家族で観に行っておいでよ」とくれる先輩もいた。  家は母親が代わっただけの母子家庭みたいなものだったし、生活は節約しなければ貯金も出来ない状況だったので食料も助かったし、娯楽は一番後回しにせざるを得ない部分だったので本当に有り難かった。  普段ワガママも言わない弟や妹が目を輝かせて映画の感想を話す姿を見るのは嬉しかった。  佐々木先生とは卒業後も月に一度ぐらいは近況報告を兼ねて食事をしたり、お茶を飲んだりする関係が続いていた。私には第二の母のような存在だ。  これは卒業した後に聞いた話ではあるが、実は母と佐々木先生とは十年以上前からの手芸教室の仲間だったそうで、教室の外でも気も合ったのでずっと仲良くしていたそうだ。小学生の頃には何度か私の家にも来たことがあると言っていたが、正直全く覚えていない。  だが母には娘の行く高校が自分のところだと分かった際に、決して自分と友人であることは言わず、当然だが他の生徒と変わらず対応して欲しい、と念を押されたらしい。 「あの子はそう言うところはしっかりしてるので多分心配ないとは思うけれど、母親の友人と分かれば精神的に甘える部分が出るかも知れないし、就職や進学の相談になった場合に無自覚にプラスアルファを期待するかも知れない。何かのきっかけでクラスメイトに洩れれば、貴女が贔屓してなくてもそう思われたり、いじめなどに繋がったりするかも知れない」  と言われたからだそうだ。 「まあ結局彼女が亡くなってしまったから、深く関わらざるを得なくなってしまったけれど、それはごめんなさい。──あ、だけどちゃんと卒業までは友人の娘ではなく、普段通りのおせっかいな教師として接してたでしょう?」  そう打ち明けられた時にはとても驚いたが、考えてみれば佐々木先生はクラスのどの生徒の相談にも親身に乗っていたし、大人が出ることが必要な時にはちゃんと前に出て生徒を保護していた。今で言えば若干鬱陶しい先生と思われるかも知れないが、必要以上に深入りもしなかったし、実際そのおかげで私も救われた。母の友人だと言われなくても結局頼ってしまったし。隠していたことを謝罪されてもかえって困ってしまうのだ。単純に昔の母のやらかしなど色々聞けて楽しかったりと言う思わぬご褒美要素もあって、私は佐々木先生と会うのがいつも楽しみだった。  高校を卒業して四年が過ぎた頃のこと。  ある時、奈津さんがお茶を飲みながら私に尋ねた。 「ひかりさん、そろそろ気になる男性とか結婚を考えてる男性とかいないの?」 「え? やだなあ奈津さんってば! そんな人いませんよう」  去年佐々木先生から、流石に卒業してから何年も経って、私もひかりさんと呼ばせてもらっているし、年は離れているけど信頼のおける友人関係だと思っているから、いい加減に先生呼びを止めてくれないかしら? と言われ、現在は先生の名前の奈津子から取って奈津さんと呼ぶようになっていた。  目上の人をそんな馴れ馴れしく呼んでいいのだろうかと悩んだが、奈津さんが笑みを浮かべ、 「もう私も五十歳も越えてるし、両親も大分前に亡くなってるじゃない? 親しい友人だって早死にしたり遠くに引っ越したりで、名前を呼ばれる機会ががくっと減っちゃったから嬉しいのよね」  と言うものだから、本人が良いと言っているのだし、と私も悩むのを止めた。 「弟さんも高校二年で、妹さんも中学二年でしょう? 月日が経つのは早いわよねえ」 「本当にあっという間ですねえ……」 「いや、だからね、分かってる? 結婚って出会ってすぐには出来ないのよ? お付き合いする期間が何年も続くことだってあるのだから、そろそろお相手の目星ぐらいはつけててもいいんじゃないのかしらね。ひかりさんだって今はまだ二十二歳でぴちぴちだと思っているだろうけど、気がつけば二十五歳、三十歳って年は取るんだから」 「はあ、まあそうですね」  私はそう濁したものの、実は数カ月だが男性とお付き合いをしていた時期はあった。  同じ職場の三つ上の先輩で、とても優しくて仕事も丁寧に教えてくれた人だ。  私の状況も理解してくれて、このまま進めば結婚も、などと言う話も出ていたのだが、一度紹介されたご両親に私の境遇を話したら、 「片親ならまだしも孤児なんて! しかもコブ付きだなんて」  と付き合いを猛反対されたらしい。 「古い考え方の両親だし、いずれ時間をかけて説得するから」  なんて彼は言っていたが、私はそもそも事故や病気などで親が先に亡くなるなんて普通にあることだと思っていたし、何故親がいないことがお付き合いを反対される原因になるのか、いくら考えてもさっぱり分からなかった。  両親が揃っていようが片親だろうが、それが自分の人格を否定されることにはならないし、しかも弟や妹をコブ扱いするなんて、古い考えとかそれ以前に人として尊敬できないと感じてしまったのだ。  それを彼に伝えてもまあまあ、と宥めてくるばかりで、内心面倒臭いなあと言う感情が伝わって来た。親に歯向かってでも間違った価値観を指摘して、蔑まれた私を守ってくれるのではないか、という淡い期待は一気に打ち砕かれたので、こちらから別れを告げた。  結婚を考えているからと言われて舞い上がった私は、押されるような形で初めて体の関係を持ってしまったが、これは自分の恋愛経験値がなかったことでの過ちだったので仕方がない。  アレはちっとも気持ち良くなかったが、断ると彼の機嫌が悪くなるので断り切れなかった部分もあった。  別れたいと伝えた時も何度も拒否されて大変だったが、多分性欲のはけ口が無くなるのが嫌だっただけなのだろう。部署が変わって新しい恋人が出来たと言う話を人づてに聞いた頃には、私には全く接触して来なくなったのでホッとした。  奈津さんに打ち明けようかと思っていた頃にそんな状態になったのだが、むしろ話をしなくて良かったとも思う。多分奈津さんは相手の家に乗り込みかねないぐらい怒っただろうから。  ただ、私はもう当分恋愛も結婚もいいや、と思った。  少なくとも弟や妹が成人して働き出すようになるまでは、今の会社で頑張って貯金をしなくてはならないし、彼らを守らねばならない。長女の私にはその責任があるのだ。 (モテたこともなかったから、初めての恋人に浮かれちゃったんだ私)  と軽率な行動を取った自分を反省したが、反省したって今更どうなる訳でもない。結婚したら共働きで少しは生活が楽になるかも、という期待がなかったかと言えば嘘になる。要は自分だって偉そうなことは言えないのである。 (……まあ弟たちが独立してから改めて自分の振り方を考えるかな)  軽率だった自分は自分として、クヨクヨ悩んでてもしょうがない。二度と同じ過ちを繰り返さないよう、男性を見る目も養うようにすればいい。  母譲りの美貌までは恵まれなかったが、楽天的な性格が私にも備わっていたことは感謝せねば。  その後、順調に社会人として仕事に勤しみ、弟が大学を卒業し社員寮に入ることで少し肩の荷が下りたような気分になった。  一緒に住んでいる妹も二十歳になったが、妹は特に大学に行って勉強したいこともないから、と高校を卒業してから以前から興味のあった飲食業を経営する会社に就職したので、兄よりも先に社会人になっていた。 「まとまった生活費を入れられる自分が嬉しい」  と私に毎月几帳面に何万もくれるが、私はそのまま妹の結婚費用として貯金に回していた。  私も十年近く同じ会社で働いていたし、総務主任と言う肩書も去年頂いたので、給料も働きたての頃から比べたらかなり上がっていたし、弟も妹も家族思いで、高校に入るとバイトをして家にお金を入れるようになった。  学費やボロ家の固定資産税など、本当に困った時には一時的に有り難く使わせてもらったが、残ったものは全部彼らの名義で貯金しているし、私も少しずつ借りた分は戻している。何年かしたらこの子たちも結婚とか考えるんだろうし、少しでも足しに出来ればと渡す予定であった。  後々話そうと思っていたが、妹には大した間もおかず使うことになった。 「結婚したい人がいるの」  そう紹介された男性は妹の会社の同僚で、清潔感のある笑顔の爽やかな青年だった。  我が家の家庭環境も知っており、両親もご理解があるようだ。  一度食事会で私も彼のご両親にご挨拶したが、穏やかでとても感じが良い方々だった。  以前の私の恋人の両親が頭をよぎったが、 「お姉さんも若くしてご苦労なさいましたね」  と優しく声を掛けられた時には嬉しくて涙が出そうだった。 「私がこの世で一番尊敬する自慢の姉です!」  と妹がバカみたいに大声で言うものだから涙も引っ込み、ただ顔が熱くてしょうがなかった。  でもこんなご家族と一緒なら妹も幸せになれるだろう、と心から安心した。  数か月後、妹も結婚式を挙げ、新居のマンションに引っ越して行くと、さほど広くもない家の中は、途端にガランとしたような状態になった。  弟も妹も思ったよりも早く独立してしまい、残ったのは嫁ぎ遅れた二十八歳の女ただ一人である。  大きな問題もなく、細いながらも何とか大黒柱の任を全う出来たことに安堵はしたが、同時に寂しい気持ちも湧いて来た。  ……いや、まだよね。弟たちも若いし、今後どうなるかなど分からない。私も元気に働いてせっせと貯金して、彼らに迷惑が掛からないようにしなくては。そこまでして初めて大黒柱よね。  そうだそうだ、と一人頷いていると、庭から小さくにゃあ、と鳴き声がした。  居間の窓を開けると、そこにはどこから迷い込んだのか、まだ産まれて二、三カ月ほどの子猫が縁側に座っていた。キジトラ模様でとても愛らしい。野良にしては汚れていないし、ガリガリの不健康な感じもない。 「どうしたの? お母さんはどこ?」  近づくとゴロゴロと喉を鳴らしてすり寄って来る子猫を撫でながら、私は辺りを見回した。  狭い庭とは言え、キンモクセイなど草花が生えているので縁側からは良く見えない部分もある。  私は懐中電灯を手に取ると、庭用のサンダルを引っ掛けて庭に下りた。  家の床下まで灯りを照らすが、母猫も他の子猫たちも見当たらない。 「まあ……はぐれちゃったのかしら? どこかのお家の子? 飼い主さんは……いないみたいねえ」  子猫に尋ねても、当然だが答えるはずもない。  私は犬や猫、ハムスターなどの小動物は大好きだったが、家で飼ったことはない。我が家のような環境ではペットなんて贅沢なものだという認識だったからだ。餌代も掛かるし、病気になったら病院の費用も掛かる。好きだからと責任も取れない行動はしたくなかった。  とりあえず近くの交番に届けないと、と思ったがふと、 (……もしどこかの家の猫とかでなければうちで飼ってもいいかな。こんな小さいのに保健所に連れて行くなんて可哀想だもの)  と考えてしまった自分に驚いた。  一人暮らしになって急に誰もいない生活になるのが心細かったのかも知れないし、自分一人だけ生活して行ければいいのだから、猫一匹ぐらい飼えるんじゃないの? そのぐらいの甲斐性はあるんだから、と誰かに言い訳したかっただけかも知れない。 「……猫ちゃん、もしどこかのお家の子でなかったら、うちで暮らす?」  逃げ出す様子もなく大人しく丸まっていた子猫は、私を見上げて賛同するかのようににゃあ、と鳴いた。 「……やだわ、ひとまず家で当分預かるにしても、ご飯も何もないじゃないの! あ、トイレもいるわよね」  可愛らしい子猫にほのぼのとした気持ちになりかけてハッと気づくと、私は慌てて子猫を抱え上げて家の中に飛び込んだ。  幸いにもと言うと語弊はあるが、交番に迷い猫の届けはまだ出ていなかった。  署で出てないか調べますが、そちらでしばらく預かって頂くことは可能でしょうか? と尋ねられ「大丈夫です」と被せ気味に答えてしまった。  のどかな地域ではあるが一応東京都内に住んでいるので、店が多いのが助かる。つまり大抵のものは近場で揃うと言うことだ。  私は交番から出て自宅に戻ると、まずは大きさが分かるように子猫の横にみかんを置き、スマホで撮影する。タオルを敷いた段ボールに入れて、子猫と水を入れたお皿をそっと置いた。  写真はペットショップの人に餌やトイレなどを相談したりするためだ。大体生後何カ月かぐらいは分かるだろう。子猫を一緒に連れて行くには買うものが多すぎるので難しい。申し訳ないがお留守番してもらうしかない。 「ごめんね、お腹空いたよね? 急いで買って来るから待っててね」  家を出て自転車にまたがると、私はホームセンター、ペットショップをスマホで検索し始めた。 「──もう、やだわー。急にお金が出て困るわあ。あ、明日は病院にも連れて行かないと……」  そう呟きながらも、自分でも分かるぐらいに顔がニヤけているのだった。  その後、病院でもワクチンなど打ってもらったり健康チェックもしたが全く異常なし。三カ月ぐらいだろうねえ、とのこと。  交番からも十日ぐらい後に、「新たに迷子猫の届けもないので、良かったらそのまま飼われますか?」「はい!」という感じで、何の問題もなく「ケンさん」はうちの子になった。  ちなみに男の子だと分かってすぐにケンさんと名付けたのは、その頃ファンだった年配の俳優さんの名前から取ったからである。年配の俳優や歌手が好きなのは、父が早逝したせいなのかもなあ、と思う。その世代に落ち着きに漠然とした憧れがあった。  ケンさんはとても聞き分けがいい子で、トイレもすぐに覚えたし、ダメだよと言えば爪とぎを柱や壁ですることもなくなった。  ただどうしても去勢手術だけはさせてくれない。何か危機でも察知するのかフーフー唸って嫌がり、病院に連れて行こうとしても逃げてしまう。 「盛りの時期が来たらあなたが大変だし、散歩してて他の女子にちょっかいかけても困るから、家から出せなくなっちゃうよ?」  そう本人に説教したら、理解出来たのかは不明だが庭を散策することもなくなった。  何度かドタキャンを繰り返していたらお医者さんも笑って諦めよっか、と言われた。 「まあ一生家から出さないままならいいと思うよ。野良だったから本能的に自分の何かが奪われたりケガをするのが嫌なのかもね」  野生的な勘の鋭さはバカに出来ないそうだ。 「──負けたわ。ケンさん、もう手術はしないけど、表には出たらダメだよ?」 「うにゃぁん」  相変わらず分かってるかのような絶妙な返事をしてくるケンさんに苦笑しながら、モフモフの体を撫でるのであった。  ただ、家族が増えて楽しいことはあったけれど、いわゆる色恋めいたことはご縁がなく、弟や妹にも訪ねて来られるたびに、 「もう手のかかる人間いなくなったんだし、猫も可愛いけど俺らも何とかやってるからさ、姉さんも良い旦那さんでも見つけて少し楽になりなよ。結構美人なんだしまだまだ若いんだから」  となどと説教をされる。簡単に見つかるのなら苦労はしないのだ。  会社の人や、奈津さんにも誰か紹介しようかと言われることもあるが、まだ弟は恋人こそいるものの結婚の予定はない。妹は先日妊娠が分かったそうで、子供が産まれたら手助けだっているかも知れない。ケンさんもいるし、色々考えると恋人を作って今後を考えるなど時期尚早ではないかと思う。  もうすぐ三十歳になる女がこんなことを言ってたら余計に縁遠くなってしまう気がするけれど、まあその時はその時で、一人と一匹で生きて行けばいいのだ。  そんな感じで淡々と生活していたある夏の日のこと。  週末の上、今夜は近所で花火大会があるせいか、町には夕方辺りからやたらと人が溢れていた。  特に誰かと一緒に見る予定もないし、たまには家でビールでも飲みながら、ケンさんと音だけでも花火を楽しむかなあ、とスーパーで食材を買いつつ、安くなっていたのでケンさん用のマグロのお刺身も買い、いそいそと家路を辿っていた。  歩道橋を渡ろうと登るが、高さがあって花火見物に丁度いいのか、かなりの人が笑顔で話しながらお酒を飲んでいたり、子供を肩車しているお父さんがいたりと賑やかだ。 「すみませーん、通ります~」  人混みの中を声を上げながら抜けて行くと、下りの階段のそばで二歳か三歳ぐらいの子供がおもちゃを持ってヨチヨチと歩いている。 (危ないなあ……親御さんはちゃんと見てるの?)  そんなことを考えてたら、案の定子供が大人に当たってふらついた。しかも階段の方に向かって。 「危ないっっ!」  私は人にぶつかりながら走り何とか頭を打つ前に子供を掴んだが、バランスを崩して私も一緒に階段から転がり落ちた。ゴン、と頭に強い衝撃を受けて、そこで私の記憶は途絶えた。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 「……おい」 「…………」 「おい、ひかり。目が覚めたか」  誰かに声を掛けられて、私は目をうっすらと開ける。  起き上がると、見覚えのないベッドに寝ていたことに気づく。  全く見覚えのない、天井の高い白と金が基調の広くて綺麗な部屋、そしてベッドの横には艶のある美しい長い黒髪の、これまた芸能人かと思うほどの整った顔立ちの美青年が座っていた。 「あの……」  状況が分からない私は彼に話し掛けつつも、急いで脳をフル回転させた。  そもそもここはどこだ。私は確か……花火大会の日に、子供を助けようとしたら失敗して自分も階段を転落してしまったはずだ。  だがここは明らかに病室には見えないし、この一部屋だけで私の自宅の敷地面積を超えるのではないか。お金持ちの家みたいだけれど……そう考えてハッと気がつく。 「ケンさん!」  私の家ではケンさんが帰りを待っているのだ。私が呑気に人様の家でぐーすか寝ている場合ではない。私はベッドを出ると足元にあった自分の靴を履き、慌てて椅子の男性に頭を下げた。 「すみません。状況は良く分からないのですが、階段から落ちた時に助けて頂いたのでしょうか? ケンさ……家に猫がおりまして、急いで帰らないといけませんので、お礼は後日改めてさせて頂きたいと思うのですがよろしいでしょうか? あ、私は水原ひかりと申しまして、住所は──」 「……私がケンだ」 「? ああ、あなたもケンさんなのですね。まあ奇遇ですが、割と良くある名前ですものね。でも今の話はうちの猫のケンさんの方です」 「だから、そのケンだ。──ひかり、お前はもう死んでいるのだ」 「……は?」  私は理解出来ずにその美青年を見返した。二十代半ばぐらいだろうか。細身だが華奢な感じはしない。筋肉がしっかりついているような感じと言えば良いか。  ただ一見まともそうに見えても危ない人はいるし、と考え一歩後ずさりしたが、良く見ると私を見つめているこげ茶色の瞳は、冗談を言っているようには見えなかったし、その瞳には何故か見覚えがあった。 (あれ。瞳の色がケンさんにそっくり……)  見目麗しい男性に対してうちの飼い猫とそっくりだと考えるのも失礼な話だが、その瞳を見た私は、これは本当に私は死んでしまったのではないか、冗談でも夢でもないのではないか、と理屈ではなく心の中で納得してしまった。 「なるほど……私は頭の打ち所が悪くて死んじゃったんですね……あ、それで子供は?」 「怪我一つなかったらしい」 「そうですか。どんくさいなあ私も。──うん、でもまあそれなら良かったです」  寝室を連れ出され、豪華で広い廊下を抜けると、広大な森が臨めるテラスのテーブルに案内された。メイドさんらしき人が紅茶を運んで来て、私とケンさんの前に置いて、黙って下がって行った。  ケンさんに説明されて、私もきちんと自分の死を受け入れた。受け入れたと言うか、受け入れざるを得なかったと言うか。 「ひかりの親しい人間は……奈津さんと言ったか、それに弟と妹もとても悲しんでいたが、葬儀も終えて、ひかりの骨は両親の墓に入っている。弟が自宅に戻って家を守るそうだ。私も引き続き飼うような話もされたが、ひかりの近くにいることだけが目的だったから早々に退散した」 「ええとですね……」  私は話を聞きながらも、ずっと気になっていることを尋ねる。 「──私の近くにいるのが目的って、どうしてですか? あと、そもそもあなたは人間じゃないんですよね? 猫になったり人になったりするぐらいだから」 「ああ。竜族だ」 「竜族……ですか」  マンガとか小説とかに出ていた生き物って実在してることもあるのねえ。死後の世界だから何でもありなのかな。 「ひかりの近くにいた理由を説明すると少し長くなるのだが……構わないか?」 「だってもう死んじゃいましたし。特にやることもなくなりましたから」  私を見るケンさんの顔は少し呆れたような顔をしていたが、お茶を一口飲むと、ゆっくりと話し始めた。  竜族というのはこの世界ではかなり長い寿命……それこそ数万年を生きる種族だそうだ。  どこの世界でも人間は不老不死を求めるものらしいが、そんなに良いものではないと言う。 「限りがあるからこそ人はやりたいことに一生懸命になれるものではないか? 数千年、数万年という人生があったら『今すぐやらなければならない』必要がどこにある? 仕事だって遊びだって何万年とやりたいと思うか? 遊びもそこまで時間があったら楽しいことも飽きは来ないか?」 「……そうですねえ、確かに」  人間は百年生きる人もそうはいないと言われる種族だし、体だってあちこちガタは来る。  いつか終わりが来ることが分かっているからこそ、辛いことも耐えられる部分があるし、頑張ったりも出来るのだろう。楽しいことも純粋に喜べる。  私もさあこれからあなたは何万年も元気で生きられますよ、と言われても素直に喜べる気はしない。  長すぎる人生で楽しいことや嬉しいことがいくらでも経験出来るのであれば、それは特別なことではない日常だし、辛いことや悲しいことが長々と繰り返されたらたまったものではない。 「そうだろう? だから竜族は基本大らか……と言えば聞こえはいいが、ぐうたらで面倒くさがりだ。大抵のことは後でやればいいと思うし、それは百年後でも千年後でも構わない。そこまで急いで何かを為す必要もないのだから」 「長生きも色々と大変なのですねえ」  ケンさんはまだ産まれてから三千年程度しか経っていないそうだが、それでもすっかり竜族の人生に飽き飽きしているそうだ。 「私や他の竜族でも基本的に人の姿をしているのは、何と言ったか……日本人が使う『コスパが良い』だったか? あれだ。大きな竜の姿をして大空を飛び回るのは気分転換にはなるが、食事の量もまた凄まじいからな。百人もいない種族だが、皆が竜の姿で生活していればあっという間にこの世界の生き物はいなくなるし、民が食べる物すら失われる」  ただそんな環境に優しい生活をしていると体の中で処理出来ない魔力が溜まる一方になり、放置すると体調も悪くなり、下手すれば魔力が暴発して山や海などにダメージが及ぶので、いわゆるガス抜き作業というのが必要になるらしい。  そんな時に竜族の皆が古くから使っている祠があって、定期的に魔力の存在しない世界に移動して数年、数十年と時を過ごすと、人でも動物でも姿を維持するのに大量の魔力を使うので、戻る頃には蓄積した魔力は綺麗になくなっているとか。ストレス発散のようなものだろうか。 「それで私も成長して利用する時期が来たのだが、初めて訪れたのは江戸時代の日本だった」 「はあ……壮大ですねえ」  話は面白いが、私の近くにいる理由は未だに分からない。まあ思い出話で話が横道に逸れるのは良くあることだし、黙って話を聞くことにした。 「こちらの生活とは異なり、活気があって面白かったな。私は人からは髪型や顔立ちも違うせいで異人さんなどと呼ばれたりしたが、食べ物も初めて食べるものばかりで美味いし、芝居や大道芸などもあってな。今ほど戸籍だの出自だのをうるさく言うことがなかったので、人間として過ごすのが楽だった。──そこでお前と知り合ったのだ」 「へえ……え? 私ですか?」 「うむ。正確にはお前の前世と言えば良いか」 「前世の私……」 「その頃お前はおつたと呼ばれていた。父はもうおらず、病弱な母親を抱えて妹二人を育てるために茶屋で働いていたのだが、町の生活に慣れていない私にも親切にしてくれてな」  他人から語られる自分の前世の話を聞いて、ああ前世も長女なのか私、などとどうでも良いことを考えていた。 「だが母親が亡くなり、小さな妹たちの面倒を見ていてはまともに仕事が出来ないから、と親族に妹を預け、仕送りするために遊女になったのだが、病気になって二十三歳で亡くなった」 「……」 「その時も家族のために生きている女であったが、元々お前は誰かのために生きて死ぬ、と言うのを当たり前のようにする人間だった。自分の幸せとかそういうのを一切考えないアホと言うか、それで満足してしまっているのだな。つまり頭が悪いのだ」 「あの、シンプルな罵倒は止めてもらえますか」 「いや、この話だけなら私だってそんなことは言わないさ。ひかりは、無意識にそんなことをしているせいなのか、魂の徳が高すぎて輪廻の輪にすぐ乗っかってしまうらしい。私がまだ日本にいる時に再び人として生を受けたのだ。普通であれば虫や草花、小動物など何度か転生をして魂の毒を洗い流すのだが、洗い流す毒もなかったらしい」 「良いことじゃないですか」 「それ自体はな。……以前から竜族の長に聞いていたが、人間は死ぬとよほどの悪人でもない限り、魂が輪廻転生を繰り返しているそうだ。人や何かの益となる者は何度も転生しているし、魂の色が独特で分かりやすい。ひかりの魂は乳白色で、輝く真珠のような感じだったからすぐに分かった」  生まれ変わった次の私は、おすずという名前の武家の娘だったそうだが、川に落ちた幼馴染みの女友だちを助けて亡くなったそうだ。享年十七歳。 「何だか結構儚いですね、前世での私の人生」  十七歳だの二十三歳だの、魂の徳とやらが高くてすぐ人に生まれられても、実に短い人生ではないか。 「自分でもそう思うだろう? だがまだ序盤だぞこんなものは」  それからどうにも気になってしまい、私の痕跡を追って何度も日本にやって来たケンさんは、その後四回の輪廻を繰り返した私を見守ったそうだ。時には近くで、時には離れて。 「はじめは最初に親切にしてくれたひかり、当時はおつただったが──に対する好奇心だった。私は先にも言ったように竜族で人間ではないのでな、他人のために自分の命まで投げ出す人間というのが心底不思議でならなかった」 「はあ、前世の私はそんな感じだったんですね」  いやあ、そんな聖人君子みたいな人だったのかーすごいなー、と他人事のような気持ちである。 「だがな、二回、三回と結果的に人のために命を落とし、三十歳まで生きられた試しもないひかりに私は心配になり、四回、五回と続くと徐々に腹が立ち始めた。それで良いのかお前は、と」 「それで良いのかと言われましてもですね、そのたびに新しい人生を生きてるでしょうし、そもそもの話、私自身に記憶がないので何とも」  整った顔立ちで私に憐みのこもった眼差しを向けると、ケンさんは少しため息を吐いて話を続けた。 「……まあそれで、流石に七度目も同じ展開になったら寝覚めが悪いと言うか気分が悪いのでな、近くにいて今後迫りくるであろう危険から遠ざけねばなるまいと思ったのだ」 「あのう、それで猫の姿で私のところに?」 「そうだ。だが現代は昔ほど異国の人間に寛容ではないだろう? 仕事一つするにも何とか言う証明書だの、パスポートだのが必要だったり、警察に質問をされたりして面倒だ。だから小動物の方が色々と楽でな。赤ん坊の頃から観察していた。スズメやらカラスやらになってな」 「何ともまあ……ケンさんは物好きですねえ」  赤の他人をそこまで心配するなんて、むしろケンさんの方がよほどお人好しである。 「幸いにも、両親も善人であったし、弟妹も心に淀むものがない姉思いの子だった。よしこれなら何とか良い方向になるのでは、と思っていたら早々に父が死に、母が死に、ひかりを含め子供たちで生きて行かねばならなくなった。不穏の文字が私の脳裏をよぎった。また繰り返すのかと」 「私よりも私の人生に詳しいですねケンさんの方が」  何だか気にかけてもらい過ぎて申し訳ない気持ちである。 「ひかりは会社勤めをして家族を支えて来た。ただ現代の日本は江戸の頃よりは安全だったし、弟も妹も無事独り立ちをした。これはひかりが初めて平穏に生きられるのではないか、と私は思ってな。お前が幸せそうな顔で生きているのを間近で見たかったので、猫になってそちらに近づいたのだ。食事の面倒など見てもらうのは大変心苦しいものがあったが、長年勝手に見て来たご褒美だと考えた。後変な奴が来た時にも傍にいれば爪や牙で物理的な攻撃も出来るだろう?」 「勝手に見て来たのにご褒美もらえると思ってたところがすごいですね。行動だけ見れば立派なストーカーですからね?」 「犯罪者と一緒にするな。──それでまあ何とか面倒を見てもらえるようになって」  私はああ、と手を叩いた。 「だから去勢手術を頑なに拒否してたんですね!」 「それは当たり前だろう。日本でそのう、何だ、生殖機能を奪われた場合に、帰ってから元通りになる保証などなかったからな」  少し恥ずかしそうに視線を逸らすケンさんを見て、何となく猫のケンさんと同じように可愛いなと感じてしまった。 「穏やかな日常が続き、ひかりも初めて三十歳を越えて生きるのでは、と思い始めた頃にあの花火大会の事故だ。また見ず知らずの子供を助けて……自分だけぽっくりだ。考えなしにも程がある」 「言い訳させて頂くと咄嗟でしたし、別に死ぬと思って動いてないですよ」 「そこで通夜の時になって、棺に入ったひかりの体から魂だけぽわぽわと体から抜けて空に漂い始めた。こいつはまた呑気に人としての輪廻の輪に流れ、同じようなことを繰り返すのだろうと思うと我慢がならなくてな、咄嗟に捕まえてこちらに連れ戻ってしまった。今度はしっかりと己を見つめ直してから新しい人生を生きて欲しかったのだ。……輪廻の邪魔をしたのは申し訳ない。そこは謝る」  ケンさんは私を見て深く頭を下げた。 「魂って、そんなホイホイと捕まえられるものなんですね」 「まあ千年以上生きてれば普通に出来ると思う」 「残念ながら千年以上生きたことがないですからねえ」  そう返したが、ケンさんを責める気持ちにはなれなかった。そもそもが私が何度生まれ変わっても学習もせずに、毎度早死にしてしまうことを心配したあまりの行動なのである。  それはそれとして、なのである。 「──ケンさんの仰りたいことは分かりました。ただですね、恐らく私がまた人として生まれ変わったとしてもですよ? ケンさんが教えてくれたことを覚えている保証はないですよね? ただでさえ毎回同じことを繰り返していることからも分かるように、前世での記憶は持ってない訳で」 「……っっ!」  そこに思い至ってなかったのか目を見開いて愕然とした顔をしている彼に、かえって私の方が恐縮してしまう。 「そして、徳が高いとかそういうのは分かりませんが、私は別にイヤイヤ行動しているのではないんだと思うんですよ、いつの時も。流石に自分が嫌なことってそうは続けられないので」 「そう……なのか? だが結果的にひかりはそのせいで早死にしてたりするではないか」 「そこは結果論です。推測ですけど、多分その時代ごとの私の魂? は別に不満もなく満足だったのでしょう? だとしたら自分の為に生きていたんだと思うんですよ」 「──自分の為? いや、だが」 「つい先ほどまで生きていた自分の価値感でしか言えないですけど、私は好きな人たちが喜んでくれることで自分も幸せな気持ちになるタイプなんですよ。つまり自分を幸せにしたくて、大切な人の為に動くんです。それで周囲の助けになったりするのなら万々歳じゃないですか。どちらもハッピー」 「でも、ひかりだけが一方的に損をしていると言うかだな……」  私は首を捻る。 「いや、でもそれは他の人から見てそう思うだけですよね? 自分が損をしていると感じなければそれは損じゃないですし。何の問題もなくないですか?」 「それはそうなのだが……」 「別に弟や妹のために自分を犠牲にしたなんて欠片も思ってないし、周りの人も理解があって協力してくれていたし……まあ恋愛とか結婚こそ恵まれなかったけど、最後はケンさんとも楽しく生活していたし、私は幸せだったと思います」 「……だとしたら、私は勝手にひかりが不幸だと思い込んで空回りしていただけだったのだな」  ガックリと肩を落とすケンさんに慌てて私は言葉を続ける。 「あっ! でも、本当に心配してくれたのは嬉しかったですよ。まあ人が幸せと感じる価値観はそれぞれ違うってことでご理解頂ければ、ね? ね?」  何でこちらが慰める側に回らなければならないのか、と思いつつも、私はしおれた菜っ葉のようになっているケンさんを必死に励ましていたのだった。 「……でな、その時に友だちを助けようとお前が野良犬の前に出てな、棒切れを振り回して追い払ったのだ。私はまたかとヒヤヒヤした」 「うわあ、その頃の私は恐れ知らずだったんですねえ」  初めてこの竜族の住む国に来てから、気がつけば五年が過ぎていた。  昔の自分の話を聞くのも楽しかったし、竜族の話を聞くのも興味深かったためなのだが、それだけでもなかった。  竜族はツガイ同士だけは死ぬまで共に暮らすが、子供は百年ほど経つと独立し、ツガイを見つけるまでずっと一人で生活するのだそうだ。  三千年も生きていてケンさんはツガイがいないのかと聞いたところ、 「何万年も寿命があると皆気が長くてなあ。一万年、二万年経ってから相手が出来ることもあるし、最低でも五千年ぐらい生きてないと若造扱いで話にならない」  のだそうだ。この呑気さのせいで徐々に人口(竜口?)は減っているそうなのだが、一人一人の寿命が長すぎて大した問題でもないらしい。 「別に滅びるのであればそれが運命だろうし、長すぎる寿命も不便なものだからなあ」  と言い、私に対しては、 「もう輪廻の輪に戻った方が良いのではないか? どうせ何を言ったところで同じというのは分かったし、本人が幸せなら私が心配することでもないからな」  と言うのだが、私がケンさんと話をしているのが楽しいのでもう少し、と言うと素直に嬉しそうな顔をする。  掃除や食事を作る通いのメイドさんも一人か二人だけで、これは近くの町の普通の人間だそうで、何度代替わりしたかもう覚えていないそうだ。  今までの長い時間をずっと一人で生きて来たケンさんは、退屈を紛らわすためにしょっちゅう魔力も溜まらない内から祠に通っていたそうで、他の国も色々覗いたが、日本が何故か一番性に合ったらしい。 「髪の色が同じ、と言う親近感もあったのだが、食事も人の生活も私には心地良くてなあ」  私はと言えば、実体はあるし眠りもすれば食事もするのだが、輪廻スタンバイ状態と言うか、半分幽霊のような状態なのだそうである。本人的には良く分からない。 「私がこの国で働いたりして生きて行くのは可能ですか?」 「今のままでは難しいな。このまま屋敷から出ると、いずれ魂に戻って輪廻に乗ってしまうからな」  要は私が実体を持てているのはケンさんの魔力のお陰らしい。 「じゃあ、私がケンさんとツガイと言うのになれば、実体が持てるんですかね?」 「ん? まあそれはこちらに転生し竜族と交わることになるので……おい待て、軽々しく考えるな。竜族とツガイになったらそれこそ寿命も何万年とかになって、死ぬほど退屈なのだぞ?」 「でもほら、ご心配頂いていた私の『長くて三十年寿命』も一気に解決しますし、お釣りが来るじゃないですか。一人だと退屈でも、二人だとそうでもないんじゃないですかね?」 「話はそんなに単純じゃないんだぞ? 短すぎる寿命も問題だが、長すぎるのはもっと大変なのだから、落ち着いてよくよく考えるべきだっ」  以前から思っていたが、長い人生を生きている割には動揺が顔に出やすい人である。 「──私のこと、お嫌いですか?」 「好きとか嫌いとか、そう言う問題ではなくてだな」 「お嫌いですか?」 「嫌いな訳がないだろう。何百年魂を追っていたと思うんだ。だが、それとこれとは話が別だ」 「……っ」 「なあひかり、今舌打ちしなかったか?」 「いえ、まさかそんな!」  とりあえず、ケンさんは私が早く生まれ変わって今度こそ長生き出来ればもっと幸せになれる、と思い込んでいるようだが、私は好きな人が幸せであることで幸せを得る人間なのである。  何千年も生きてて自分の幸せを考えてないのはどっちなのだと小一時間問い詰めたいが、この人も私と同じで「そんなこと考えたこともない」のだと断言出来る。  五年も輪廻に乗らないのに私の好意に気づけもしないポンコツなので、何とか結婚に持ち込んで何千年かけてでも幸せにしたい、と言うのが私の計画である。  ちなみにケンさんと言うのは私が付けた名前だが、彼の本名は発音がしにくい上にとても長い。これもいつかきちんと発音出来るようになりたいものである。  ……まあ、幸いにも時間だけはたっぷりあるものね。 「あ、ケンさんもお茶のお代わりどうですか?」  私は彼に笑みを浮かべるのだった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!