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凛翔学園三年生一学期、中間試験の最終日。
試験が終わった余韻に包まれる中、演劇クラスでは来週に控えた修学旅行に向けての会議が開かれていた。
そこで話された議案が浩二を悩ませることになった。
「何で俺が急にこんな理不尽な役回りに……」
話の始まりは修学旅行で泊まることになる旅館で『震災のピアニスト』のリバイバル公演をすることが三年生学年会議で決まったことに始まる。
そこまではよかったのだが、黒沢研二がドラマ撮影のために修学旅行に同行できないことが決まり、高校生時代の佐藤隆之介役を誰が演じるのかということで議論になった。
その際、クラス委員長の八重塚羽月は脚本段階から役を把握していた浩二が適任であるという提案をしてしまった。
提案は大多数のクラスメイトから賛成ということで最終的にはほぼ満場一致で採択され、浩二は修学旅行までの一週間あまりの練習期間で佐藤隆之介役を演じることとなった。
「それじゃあ浩二、よろしくね。佐藤隆之介役、頑張ってね!」
羽月もクラスが合意して決まってしまった以上、それ以外にかける言葉がなかった。
「そんな急に決められても……俺に対しての扱い酷くないか?!」
「いいじゃない、みんなが期待してくれてるんだから。
やりがいだってあるでしょ? たまにはキャストで出演するのだって楽しいと思うわよ?」
「練習期間ってもんがあるだろう……あと二週間もないじゃねぇか……」
「それは……知枝さんとワンツーマンで稽古すればいいんじゃない?
知枝さんなら、受け止めてくれるわよ」
黒沢研二の修学旅行欠席を最初に聞かされていた羽月は一体どうすればいいのかと悩んでいただけに、早々に対策が決定したことで、すでに困難から解放された喜びを態度に表すまでになっていた。
「それじゃあ任せたわよ。私もそれなりに忙しかったりするから、浩二が引き受けてくれて助かるわ」
「おい! 面倒事押し付けやがって! 絶対恨んでやるからな!!」
「いいじゃない、あっさり話し合いも終わって、こんなに早く帰れるじゃない!」
「全然嬉しくねぇ……全然納得できてねぇよ……」
未だ不満を漏らし続ける浩二を置いて、上機嫌で制服姿の羽月は意気揚々と膝まであるスカートを揺らしながら教室を飛び出していった。
「羽月のやつ、人に難題を押し付けやがって……今から修学旅行までにセリフ覚えるなんて簡単じゃねぇぞ……」
元々、自分の担当する役でもないのにやらされる羽目になり、浩二は愚痴をこぼした。浩二の味方を誰一人としておらず、状況を覆すことはすでに不可能なところだった。
「もう諦めてやるしかなさそうだね……」
唯花が後ろの席から慰めにもならない言葉を届ける。
浩二は何げなくその言葉を聞いたが、言葉の裏腹で唯花の心境は複雑だった。
口には出さないまでも、唯花から見ると、また恋敵である”知枝と浩二との交流が増える結果になる”。しかも今度は舞台の上で主役同士で共演する姿を式見先生役を演じながら、黙ってみていなければならないという苦行が待ち構えているのだった。
「はぁ……せめて今日くらいは現実逃避するしかないか」
「ふふふっ、そうだね。稽古するのは明日からにして早く行きましょう」
唯花はこの会話を早く断ち切って、“自分の番にしたかった”
この後、午後からは待ちに待ったライブハウスへと向かう。
浩二と真奈のためだけに開かれる約束のステージ。
その時だけはバーチャルシンガーの頃の唯花に戻って歌を披露する。
この日を楽しみにテスト期間を過ごしてきた。早く、自分のことを見てほしいという気持ちが、唯花はどうしても先行してしまうのだった。
「知枝には悪いけど、台詞覚えながら稽古に付き合ってもらうしかないか……」
そんな唯花の内に秘めた気持ちに気付かない浩二は、無意識に唯花にとっての恋敵である知枝の名前を出してしまうのだった。
浩二にとっては諦めにも似た言葉を吐きながら席から立ち上がってカバンを手にする。その様子を見て、嫉妬深い自分の心情を悟られないよう口を噤んで、唯花も立ち上がって浩二の後を追って、一緒に教室を出るのだった。
*
「お姉ちゃん、大丈夫? 帰らないの?」
帰路に立とうと生徒たちが続々と教室を後にしていく中。心ここにあらずの様子の知枝を心配して光は話しかけた。
「えっ? 光? ううん、なんでもないの」
「どうしたの? もう終礼終わっちゃったよ?」
「光は、気にしなくていいから……」
すでに立ち上がって帰る準備の出来ている様子の光に気付き、知枝は動揺を隠すため作り笑顔を浮かべて、悟られぬよういそいそと帰り支度を始めた。
「お姉ちゃん、心配しなくても浩二君なら大丈夫だよ。
本人は嫌がっていそうに見えるけど、ちゃんと修学旅行までにはしっかり準備してリードしてくれるはずだから」
光は知枝の心配をして、先回りに不安を和らごうと優しい言葉を掛けたが、知枝の内面にあった不都合に感じている事情とは的外れであった。
「そういうことじゃないの。浩二君がしっかりしてること、それは知ってるの。
うん……だから、稽古はしっかりして本番に臨むから光も心配しないで」
知枝は光に心配されていると気づき、慌てて言葉を言い繕ってみせたが、悩んでいる様子の理由の説明にはならず、余計に光を心配させてしまうのだった。
知枝は思った。これも運命の悪戯なのかと。
そばにいればいるほど、胸が苦しくなる、気持ちの整理がつかなくなる。
不安定な自分にはなりたくないと思っても、浩二のそばにいると気持ちが落ち着かなくなってしまうのが今の知枝だった。
自分の気持ちに正直になってはならない、浩二の相手には自分は相応しくない、知枝はそう考えているのだった。
黒沢研二の修学旅行欠席というイレギュラーな事態。
そのことがまた、少しずつ亀裂を生み始め、心の不安を広げ始めていた。
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