第六話「天に昇っていけたら」

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 俺は最初に悪いと思いつつも唯花の部屋に向かった。両親は家を空けているようで俺は鍵を開錠して永弥音(えみね)家に入り、二階にある唯花の部屋に入った。    部屋にいてくれれば探す手間もなくなると思ったが、真奈の心配していた通り、部屋は無人で、唯花の姿はどこにもなかった。  女性らしい綺麗でオシャレな室内、ファンシーなぬいぐるみや整頓された本棚などがあり、勉強机も変わった様子はなかった。  だが、ベッドの方に目を向けると布団や毛布の所々にはっきりと赤いシミが出来ていた。 (……これって)  途端に心臓の鼓動が早くなり、嫌な汗が流れる。  それが傷ついた唯花の肌からこぼれ落ちた血液であるとするなら、事態は深刻なものだと想像せざるおえなかった。 「……くっ、急いで唯花を探さないと」  ここで何があったかは分からない、それを探す手がかりもない。今すぐ唯花を探さなければならない状況であると気付き、焦燥感に俺は襲われ、急いで部屋を飛び出した。  仕事柄、ハッキングされて個人情報を抜かれる心配をしていることもあって、普段から生体ネットワークの使用を制限している唯花。  それがあるため家族でも位置情報を検索できないようにしてあり捜索は困難を極めた。  俺は少ない手がかりを頼りに、唯花がいそうな場所を片っ端から探した。  生活に困らなければ本質的に生体ネットワークの活用の必要性はない、そんなことを考えながら一心不乱に探し回る。  途中から誰かに協力を仰げばよかったと気付いたが、もう日が傾き、空が落ちそうになるのを見ると、ただ走り続けることしか考えられなくなっていた。  走れば走るほど、息を切らす結果になるが、暗くなるまでには見つけ出そうと、額の汗をぬぐいながら懸命に俺は捜索を続けた。  そして、諦めきれず、すがる思いで入ったこともない古びたビルにまで立ち寄り、ところどころ塗装の剥がれた螺旋階段(らせんかいだん)を昇っていく。  一段毎にカーンカーンと耳障りな音が鳴るが、我慢して手すりを使いながら屋上を目指した。  そうして、急ぐ気力も無くなった頃、ビルの屋上に辿り着いた俺は、視線を上げ、長い髪が印象的な唯花の後ろ姿をついに見つけた。  すでに身体からは汗が滴り、暑苦しさを覚えていたが、ビルの屋上は風が吹き、空気が冷えているように火照った身体を落ち着かせてくれた。  視界が霞むほどに眩しい夕陽を近くに感じる中、唯花のほどけた長い黒髪が吹き付ける風で靡いている。  幻想的な光景を前に、一歩ずつゆっくりと近づきながら、俺は声を掛けるかどうか戸惑った。  見慣れて来たはずの唯花の後ろ姿がここまで声を掛けるのを躊躇うほどに儚げに映った経験は記憶する限り、ほとんどなかった。  ずっと幼馴染として、家族のように真奈の育児も一緒にやってきた唯花。  当たり前のように寄り添っていてくれた唯花。    年を重ね、大人に近づいていき、すっかり正面から直視できないほどに綺麗になった唯花。  そんな、俺にとっても真奈にとっても大切な唯花が、今は金網で出来たフェンスの向こうにあった。    フェンスの向こうは一歩足を踏み外せば地上まで落下するのは避けられない。  近くて遠い距離、声を掛けようにも、”声を掛けたら最後、その瞬間唯花はこの世界から消えてしまいそうな、そんな恐怖心でいっぱいだった”  でも、こちらへ振り返ることのない唯花に声を掛けないわけにもいかず、俺は一分も待たずに唯花の名前を呼んだ。 「―――唯花」  こちらを向いて、今すぐ帰って来てほしい、そう願いながら声を掛ける。  風が吹いていて雲も近い、人気のない風の音しか聞こえないビルの屋上。  さらに緊張し、戸惑いながら呼んだ名前がちゃんと届いたかは疑問だった。  胸元にリボンの付いた薄い生地をした水色のブラウスに黒のタイトスカートを履いた唯花がゆっくりと振り返った。少し底の深いサンダルを履いた細く白い唯花の足を見ると、ちょっとバランスを崩すとあっという間に地上へと消えてしまいそうで、見ているだけで心臓に悪く怖い光景だった。
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