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「―――ここは危ないからさ、早く帰ろうぜ、真奈が心配してるんだ」
喉が渇き、僅かに声は震えていて、いつも以上に緊張していた。振り返った唯花からはあまりにも生気を感じなかった。いつもの笑顔はなく、表情が凍っているようで、心の内も見えなかった。
しかし、露出している肌からは傷痕は見えない、ベッドの布団と毛布に付着していたあのおびただしい赤いシミが唯花のものであったかは疑問だった。
「私、帰れない。もう、みんなのところに帰れないよ。
浩二にも真奈ちゃんにも、これ以上迷惑は掛けられないから」
「……なんでそんなこと言うんだよ、真奈も元気になったじゃないか?
心配するだろ? 唯花がいてくれないとさ」
唯花の声とは思えない沈んだ声色に只事ではないと認識し、俺は声を掛けた。
さらに真奈が退院して家で元気にしていることも懸命に伝える。だが、それでも唯花からの前向きな返事はなかった。俺は唯花のところへと一歩ずつ足を踏み出し近づいていく。
「浩二、近づかないで! これは全部欲深い私が招いた罰なの。
だから、邪魔しないで、私はもうこの世界で生きていけない、生きていてはいけないの」
唯花の背後には何もなく、その先は奈落の底だった。
俺の気持ちは焦っていた。
「何言ってるかわかんねぇよ、唯花が何をしたって言うんだよ」
「私が真奈ちゃんをずっと苦しめてきたの……。
だから、もう真奈ちゃんのそばにはいられない」
「全然分からねぇよ……どうしてそうなるんだよ……唯花はずっと真奈の具合が悪い時、看病してくれてたじゃないか」
俺は首を振って、唯花の言葉を否定した、唯花のためにも否定しなければならなかった。
「浩二は……分からなくていいよ……だって、私の気持ちだって気付いてないんでしょ? 私がどんな気持ちでライブで歌ってたかなんて、考えないでしょ?」
ずっと今のままで、今の関係のままでいたい、そう思い始めたのはいつからなんだろう、それは傲慢な願いだったのだろうか。
唯花の歌に込められた想い……聞いているだけで湧き上がってくるあの胸の高鳴りは、温かい気持ちは、あの正体は……。
会話が平行線を辿る中、想いを募らせた様子の唯花は口を開いた。
「もう最後だから言うね、私は浩二のことが好き、どうしようもないくらいに好き。真奈ちゃんのことも好き、好きすぎてたまらないんだよ。
いつも、優しくされると気持ちが張り裂けそうで、壊れそうなくらい、愛おしい気持ちでいっぱいだった。
私は二人が包み込んでくれる優しさにいつも甘えていた。
全部、二人で真奈ちゃんの育児を頑張ろうって決めてからだよ。
私はね、浩二の両親からお願いされたの。
二人の死の間際に真奈ちゃんの事、浩二の事、託されたの。
だから私は二人の気持ちに報いるためにも頑張った、頑張ってきたんだよ。
でもね、そうして頑張っている内に、可愛くて愛おしい真奈ちゃんの成長を見届けていく中で、浩二のことを本気で好きになった、好きになっていったの。
”他の誰かを好きになろうとしても”、いつも帰りたい場所は浩二のそばだった。浩二のそばにいることが一番安心できて、幸せだって気付かされた。
羽月さんと浩二が付き合い始めて、それで諦められるってあの時は思ったけど……二人が別れることになって、また浩二と一緒にいられる時間が増えて、やっぱり浩二の一番でいたいって思うようになった。
真奈ちゃんが小学生になって、私たちが三年生になって、進路のことも真剣に考えないといけない時期になって、私は怖かった。
浩二が遠ざかってしまうのが、一緒にいられなくなるのが。
だから、気持ち……ちゃんと伝えようと思った。
でも、私の強すぎた想いは真奈ちゃんを苦しめる形になった。
私が間違ってたの、真奈ちゃんを守らなくちゃいけなかったのに。
真奈ちゃんの心は私を拒絶した、だからあんなことになったのよ」
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