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今朝、俺は同じ文学部に通う恋人の早苗と携帯電話でそんな会話を交わし、いつも通りの時間に家を出た。今日は調子が良かったのだ。
だから、今は早苗と会いたくなかった……
電車を無駄に乗り継ぎ、最寄りの駅を下りてからも遠回り遠回りしながら大学へと向かう。
新緑も、アジサイも、幸せの風景もどうでもいい。
天気だ、天気が、この曇天が気になる。
――あの時も、こんな天気だったか……
不意に、脳裏にあの顔が浮かんで消える。
「もし? もし?」
と、交差点で信号待ちをしていた俺に、背後から突然のように声を掛ける人間がいた。俺は思わずハッとなって振り返る。と、そこには小柄な年配の女性。七十くらいか?
「えっ? あ……なにか…?」
えんじ色の上着を羽織り、白髪交じりの髪を後ろにまとめた品の良さそうなお婆さん。肘からぶら下げた光沢をおさえたシルバー色のハンドバッグからも品の良さが窺える。その人は、丁寧な口調でにこやかに俺に聞いてきた。
「すみませんけど、この大学に行きたいのですが、ご存じありませんか?」
と、俺は思わず驚いてしまった。
「これ、自分の通っている大学です」
「あら? よかった。おにいさんに尋ねて大正解だったわねぇ」
お婆さんは、嬉しそうに顔をほころばした。
「じゃあ、いいですよ。自分も大学に行く途中だったので案内しますよ」
そう俺はにこやかに返したが、心は未だ悪夢の中で踊り続けていた。
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