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 「全く。恵北の担当ときたら数字も読めないらしい。何度ミスをすれば気が済むんだ。いい加減担当者を替えてほしいよ」  俺は二本目の缶ビールを飲み干した後、彼女に聞こえるよう大きくため息をついた。 「聞いているわよ。正巳はいつも愚痴ばかりね。何か良い事はなかったの?」  千春は呆れ顔でキッチンから俺を見ている。 「良い事? ないね。雨は降るし社食は不味い。会議は長いくせに何も決まらない。事務員は使えない。挙句の果てに恵北商事のミス。勘弁してほしいよ」  千春の顔をチラリと見た後、豚の角煮に入っているネギを箸でよけて、形の良い角煮を口に放り込んだ。 「なあ、俺がネギ嫌いなの知っててなんで入れるの? 角煮のネギって味付けるときに取り出すもんじゃないの? 手抜き? それとも俺に嫌われたいの?」 「ネギ一つでそこまで言うことないじゃない。機嫌が悪いからって私に当たらないでよ」  千春の声のトーンが一気に下がった。なんだよ、本当の事を言っただけじゃないか。 「千春に当たっているわけじゃないよ。千春こそ、ちょっと意見を言った位で怒るなよ」 「怒ってなんかいないわ」 「怒ってるじゃないか。もういいや、飯が不味くなるから黙ってろよ」  千春はしばらく黙っていたが、今日はもう帰ると言って帰っていった。 なんなんだよ、どいつもこいつも。 俺は、毎日二本と決めているビールの三本目のプルトップを上げた。  ドスン!  またか。  ここ何ヶ月か、午前0時になるかならないかの時間に、ほぼ毎晩上の階が騒がしくなる。騒がしいと言ってもほんの数分だが、何かが落ちるような、何かを叩くような。そして何かを喚いているような。  上の階の住人とは数回話したことがある。俺と同世代で自動車販売の営業をしていると言っていた。  俺は、大手とはいかないまでもそれなりに名の通った会社の管理職で、彼とは職種が異なる。しかし、無茶な要求をする顧客や嫌な上司の話で盛り上がり、顔を合わせるとお互いの愚痴を立ち話する位の仲ではあった。  毎晩毎晩何をしているのか。うるさくて仕方ない。次会ったら文句を言ってやろう。  そういえば、最近顔を合わさないな……  そんなことを考えている間に上の音は止んでいた。俺も、さっきまで音を立てていた天井を見上げながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。  意識がこちらとあちらをゆらゆらするうちに天井がぼやけ、近づいたり遠ざかったりしながら広がっていく。そこに小さな黒いシミのようなものが見えた。そのシミを見つめていると、何かどこかで見たことがあるような物になった。  そして、気が付くと朝を迎えていた。
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