第四章 Ⅰ.

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▽ 「やあ、アレクシス。気分はどうだい?」  緩やかな瞬きに身を任せていたアレクシスは、僕の声にうっそりと顔を上げた。ぼんやり光る真っ直ぐな瞳が、やがて小さな言葉を紡ぐ。 「逃げなかったんだな」 「逃げる? どこへ」 「どこへでも」  彼は微睡むように視線を落とした。目を瞑って息を吐き、やっと脱力した姿勢を正す。 「君は、話したくないんだろうと思っていた」 「ああ、そういうこと」  自身に繋がれたコードを一本ずつ丁寧に抜き取ったアレクシスは、それを巻き取りながら僅かな段差を降りる。彼の指が左腕と首筋の蓋を閉じる音を聞いて、僕は23番目のノートを手に取った。 「不具合はないね?」 「ああ」  開いた空白の頁に、細い筆先でインクを垂らす。 「最初の記憶は?」 「九年前、この部屋で目を覚ました。君は驚いていた」 「そうだね。じゃあ最後の記憶は?」 「私を造った理由と、『レイチェル』について君に聞いた。記憶の記録を行った」 「その通り。うん、問題はなさそうだ」  記憶の混濁もなければ意識もはっきりしているらしい。上部へ今日の日付を記し、頁端を折りつつノートを閉じた。視線を上げるとアレクシスが何も言わずにただ僕の行動を見つめていて、小さな子どものようなその姿に思わず苦笑してしまう。 「いつまでそんな格好でいるつもりだい? いくら家の中だからといって、釦は留めるべきではないかな」  指先で胸元を叩く。そこで初めて自分の姿を思い出したらしいアレクシスは、苛立たしげに表情を歪めつつも素直に釦へ指を掛けた。  早急に正されるシャツ。注視しなければ気付かない程の僅かな線が覆われていく。「機械人形の彼」が白に隠されるのを見届け、彼の記憶とノートを一纏めにして足元の機械を跨いだ。 「さて、調子が良ければお茶にしようか。長話に紅茶はつきものだからね」 「長話か、」 「君もそのつもりだろう? ジャケットを忘れずにおいで」  机の上、積まれた本に重なるジャケットとベストに彼は視線を投げる。その前を横切って、僕は研究室を後にした。
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