アコースティックな再会

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 同窓会を除き、皆様は卒業後、小学校の担任の先生と再び会ったことはあるでしょうか。  小学校時代と同じ街で住んでいる限り、帰宅中の先生と出くわすことは確率的にはありえますし、先生と時折連絡をとっているような人もいるかもしれません。ですが小学生のときから、大人とそこまでの関係性を築けていた人は少ないはずです。つまり、卒業後の先生との出会いは偶然という要素に頼ることになるでしょう。  その時代、その場所限りの関係。僕はそのことをたいへん尊く美しいものに感じていたのです。  ですが、先日のことでした。僕がついこんな昔のことを、あてもなく投げかけてしまうほどの出来事があったのです。  それは僕の小学校の担任、計五人が揃って目の前に現れたことでした。  鹿濱、牛山、猪又、牧野、井田。五人の僕を知る先生たちが、談笑しながら何の変哲もない地元の道を歩いていたのです。  正面から彼らが近づいてくるにつれ、僕は動揺しました。緊張しました。よく見ると、皆黒っぽい服を着ていました。きっと、誰かのお葬式に行ってきたのでしょう。いったい誰のお葬式に? いや、そんなことよりも、なぜよりによってこの五人なのでしょう。その僕にまつわる五人だけが歩いてきた偶然性にも驚きですし、五人ともが先生を続けていることにも驚きました。いや、もしかしたら何人かは辞めているのかもしれません。ただ当時の彼らがよく知る、例えば校長先生が亡くなったとすれば、辞めていても参列するのはわかります。それが人の道なのでしょう。  しかし、よく見てみると五人のうちの何人かは大きく見た目が変わっていました。それもそのはず。僕が卒業してから十二年くらいが経つのです。十二年といえば、ちょうど僕が生まれて小学校を卒業するくらいの年月でしょう。とにかく泣きわめいていた赤ん坊が、意思を持って卒業式で「つー」と静かに涙を流すのです。身長も小柄な女性の先生と同じかそれ以上になっていました。でも僕はその小柄な女性の先生に強く怒られても、暴力に訴えないのです。「はい」と先生の前では真面目な顔をして、あとでこっそり友達に悪口を言います。そんな節度ある人間に育つ年月なのです。  だから白髪になったり、体型が大きく変わるくらいはあるでしょう。  まず、一年のときの担任だった鹿濱先生。  鹿濱先生は女性ですが、別人のように細くなっていました。肌の血色も悪そうで、当時かけていなかった眼鏡をかけていました。おそらく僕の母親世代かなと思っていたのですが、そう考えると自分の母は若いと思いました。それくらい、鹿濱先生は変わり果てていました。おばあさんに近い様相だったのです。  当時はパワフルで、快活で、元気いっぱいのお姉さんといった感じでした。むしろどちらかといえば太っている部類だった記憶があります。鹿濱、というその名前が当時はあまりしっくりきていませんでしたが、そのときは似合っていると思いました。その鹿のように細い脚を見ると。  鹿濱先生との思い出は一つもありません。皆一年のときなんて、そんなものでしょう。なにせ、当時の自分が何を考えていたかも覚えていません。ぜんまい仕掛けのおもちゃのようなもので、本能のままオートマチックに動いていたのでしょう。そういう意味では、今もあまり変わらないかもしれませんが。  鹿沼先生とは反対に、二年のときの担任の牛山先生は太っていました。牛山先生は爽やかな見た目の好青年という雰囲気でしたが、今は腹ボテ不健康おじさんという感じでした。彼もまたその牛山という名前が板についているイメージです。名は体を表すといいますが、人は名前に引っ張られてしまうのでしょうか。牛山先生との思い出も何も浮かびませんでした。ただ、当時の面影がなくなりかけているその見た目に、僕は少し悲しくなりました。  その横にいた猪又先生から記憶が濃くなりました。彼は三年のときの担任です。猪又先生といえば「忸怩たる思いです」という言葉が思い出されます。その言葉は当時、生徒の間で流行りました。陰で先生をからかっていたのですが、今思えばひどい話でした。  ですが、子供心に仕方ないという思いもあります。なぜなら、先生はその言葉を全国に響き渡らせたのです。  というのも、普段芸能人ばかりが出ているテレビの画面に、ある日猪又先生と校長先生が出てきたのです。僕たちは衝撃でした。  二人は悲痛な面持ちでした。校長先生は涙をこらえながら何やら言っていました。おそらく、自分に全て責任があるということを言っていたのでしょう。少し男らしさも感じた気はします。  一方の猪又先生は取り乱し、涙し、手を机についたりして、喋るのが精一杯という感じでした。そこにはいつも僕たちの前で見せる、優しくて誠実で時に熱くなり頼りがいのある猪又先生の姿はありませんでした。  そして不運にも、そのとき先生が涙ながらに言った「忸怩たる思いです」という言葉が、ぼくたちのツボに入ってしまったのです。僕たちは翌日から泣き真似をしながら「忸怩たる思いです」を連呼しました。皆、先生の真似をしたのです。  先生が全国ネットで会見をしたのは、当時受け持っていたクラスの女子生徒が自殺したからでした。それは僕のクラスでもありました。だから先生をからかうことは、自殺した生徒にも失礼で罰当たりなことなのですが、僕たちにそれを鑑みるモラルはありませんでした。モラルという言葉も知らなかったでしょう。  死んでしまったのはアスカちゃんという女の子でした。おそらく男子は、誰も喋ったことはないのではないのかという目立たない子でした。  アスカちゃんは、給食を食べるのが遅い子でした。いつも先生と一緒に残って食べていました。給食が終わって、昼休みの時間も、掃除の時間も、五限目が始まっても彼女の机の上には給食がありました。  僕は昼休み、消しゴム飛ばしをしてよく友達と遊んでいましたが、何回かアスカちゃんの机の下に消しゴムが飛んでいって気まずい思いをした記憶があります。掃除の時間は、掃除係が教室の後ろまで机を全て片付けるのですが、アスカちゃんの列を動かすときは、どうしたらいいのか迷いました。基本的にアスカちゃんは自分で立ち上がってゆっくりと机と椅子を押して行ってくれましたが、その列を動かすときだけ時間がかかりました。  そして、五限が終わるとようやく猪又先生が「今日も駄目だったな」というような言葉を残して給食の残りを持ち去っていきました。  途中から、アスカちゃんは学校に来なくなりました。なんとなく、給食のせいだろうとは思って同情はしましたが、それよりも気兼ねなく消しゴムを飛ばせることや、掃除がやりやすくなる嬉しさのほうが勝っていました。  猪又先生はアスカちゃんが学校に来なくなっても、ほぼ毎日アスカちゃんの家に行って、来るように説得していたのだと思います。終わりの会では、よく「昨日もアスカの家に行ってきたんだがな」と無念なんだか満足なんだかわからない顔で話していました。  そしてアスカちゃんは不登校になって三ヶ月くらい経った頃、自殺をしました。アパートの屋上から飛び降りたのです。  はっきりとした原因はわかりません。ただ、いじめではなかったことは間違いないです。誰もアスカちゃんのことを直接からかったりしませんでした。かといって、来なくなっても特に心配している生徒もいませんでしたが。  でも、僕たちは子どもながら、なんとなく思っていたと思います。  猪又先生、毎日家に行かなくてもいいのに、と。  だから先生の「忸怩たる思いです」という真面目そうな言葉が、少し滑稽に聴こえたのかもしれません。  近づいてくる猪又先生に、忸怩たる表情は見えませんでした。当然です。十年以上の月日が経っているんです。それにしても、鹿濱先生と牛山先生とちがって、猪又先生は見た目もあまり変わっていません。おそらく三十代後半くらいだった、当時のままのような若々しさです。忸怩たる思いは、老いに効くのかもしれません。病は気から、と言いますよね。もしくはそんな思い、先生はとっくに全て忘れているのかもしれませんが、それが老いには良かったのかもしれません。  四年のときの担任の牧野先生も、髪型以外はあまり変わっていませんでした。当時二十代半ばだった彼女もおそらくは三十代後半、俗に言うアラフォーと呼ばれる部類でしょう。当時の少し茶色がかったロングヘアは、黒のショートカットになっていました。ですが、他はあまり変わっていません。女性は若さを保ち続けていると、魔女と形容されることがありますが、そんな感じでもありません。彼女はずっと、少女漫画のヒロインのような、そんな感じです。そうです、僕は牧野先生が好きでした。そして、わかりました。今でもその気持ちが残っているということを。  彼女のことは、あまり長く見れる気がしませんでした。  逃げるように五年と六年の担任の井田先生を見ます。井田先生は白髪になっていました。当時と体型も変わっていなく、相変わらず真面目さと威圧感を両方出すような重厚な黒眼鏡をかけているのもあり、よりその変わり果てた髪色が気になりました。  井田先生は変わった先生でした。一見真面目で堅物そうに見えるのですが、突然ギター(わざわざ毎回家から持ってきたものと思われる)を弾いて終わりの会で歌ったりするのです。弾き語りというやつです。そしてその演奏がうまくないことは、子どもながらに思っていました。歌も少ししつこい歌い方で、自分に酔った歌い方でした。でも歌よりもギターのほうが好きなようで、誰もが知っている歌謡曲を弾いて、僕たちに歌わせたりもしました。  なぜ、そんなに弾きたがるんだろう? 周りの先生でそんな先生はいませんでした。  次第に僕たちは、先生がボロンボロンと軽快に弾いている途中で、間違えて顔をしかめる真似をしだしました。猪又先生の「忸怩たる思いです」以来のネタでした。たぶん、その真似を後々やろうという下心があったから、先生の下手な演奏を聴いていられたんだと思います。そうでなければ、苦痛でしかありませんでした。だって演奏中にも、他のクラスの生徒はすでに帰り始めていたりするのです。僕はそのとき自分にイタいお父さんがいるような恥ずかしさを感じていましたが、聴いているときは「いい音色ですね〜」という顔をしていました。今思えば、あれは僕の人生で初めてのヨイショだったのかもしれません。  ですが僕のヨイショは虚しく、井田先生は僕のような中級以下の生徒には目をかけてくれませんでした。いつも楽しそうに喋るのは上級の生徒ばかり。勉強ができる西島くんや、ガキ大将兼ムードメーカーの角沢くん、小学生にして他校との交流をもっていたヤンキーの河辺くん、裏番長の水本くん、その四人を全員振ったという噂をもつクラス一の美人、花岡さん。先生はそんな輝かしい生徒ばかり気にかけていた記憶があります。まぁ、そんなものなのでしょうが。  ですが僕が、井田先生があまり好きになれなかったのは、突然切れることがあったからというのもあります。しかも、切れるのはたいてい僕たち中級以下の生徒が宿題を忘れただとか、終わりの会で歌を歌っているふりをして声を出していなかったとき、運動会の練習のときにダラダラ歩いていたとき、喋ってたときだの、そんなくだらない理由ばかりでした。  僕は直接切れられたことはないですが、隣の席の小原くんが首根っこをつかまれて恫喝されていたのを見て、僕は震えました。小原くんはただただ授業中に廊下を少し見ただけなのです。それが四限ということもあり、井田先生は食いしん坊キャラの小原くんに「早く食べたいと思って、廊下の給食見てたんだろ」と怒ったのです。僕はそのとき何が起こったのかわかりませんでした。恐怖を感じました。僕もいつ無意識にしたことで首根っこをつかまれるかわからないと思ったのです。  でも先生は、例えば美人で取り巻きの多い花岡さんが廊下を見ていても、何も言わなかったはずです。そういうところが透けて見えるところに井田先生への根本的な軽蔑の心は眠り続けていました。  その積もり積もった皆の軽蔑心が、井田先生の髪の色を白く染めたのかもしれません。そうであってほしいとすら思いました。  僕が学生時代のことを思い出しているすきに、五人はどんどんと近づいてきました。確実に僕の顔は、皆の目に映っているはずです。  どうしよう。僕は悩みました。  声をかけようか。僕は声をかけたいのだろうか。かけたほうがいいのだろうか。そもそも声をかけなければいけないのか。かけなくてもいいのか。  色々な思惑や感情が入り乱れました。彼らとすれ違うギリギリまで僕は悩みました。心のどこかで、牧野先生が声をかけてくれないかなという願望もありました。ですがそれとは反対に僕の口から声は出ました。 「先生!」  五人で歩いていた彼らが僕を通すため、二手に分かれて真ん中を空けた瞬間、誰の顔も見ずに僕は言いました。  そのとき、五人のうちの二人だけが僕の正体に気づいてくれたような感覚がありました。それは牧野先生と井田先生でした。やはり会っていた年月が、数年でも遅れているのは有利なのでしょう。その中でも井田先生は僕と二年過ごしたので、さらに有利だと思います。そしてその井田先生同様に「え、田中くん?」と僕のことを覚えて声をかけてくれた牧野先生に、僕は感動しました。  どうやら僕のその記憶に埋没してしまいがちなありふれた名字を聴いても、他の三人はしっくりきていないように見えました。それを悪びれてもいませんでした。  ただ一人、猪又先生は「あぁ、田中か」と言ったり「うーん」と思い出している気配を醸し出したり、はっきりとしない態度でした。 「先生は、僕のこと覚えてますか?」  僕は猪又先生に面と向かって訊きました。本来は牧野先生と喋りたかったのですが、なぜか猪又先生を見ていると、気になるのです。 「だから、田中くんだろ。久しぶりだな」  先生は少し逆ギレをするような言い草でした。まるで、それ以上は訊いてくるな、と言わんばかりの。  僕はもう一つ質問をぶつけました。 「じゃあ、アスカのことは覚えてますか? 武村アスカ、彼女のことは」  それを聞いた猪又先生は、少し驚いた表情を見せ、「覚えているに決まってるだろ」と言い、去っていきました。他の先生もそれに続きました。僕は彼らを止めることはできませんでした。好意的な表情だった牧野先生と井田先生も去っていったのがショックでした。  そのあと、僕はまた一人で地元の道を歩いていて、気づきました。途中にアスカの家があったのです。  その日はアスカの死んだ命日でした。    また会えたね。    天から声が聴こえた気がしました。  同時に猪又先生の弾くギターの音色も。  
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