03「初勤務」-1-

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03「初勤務」-1-

 職員用化粧室で鏡とにらめっこしているのは、新人看護師の佐倉沙菜。  彼女にとって、今日こそが正真正銘、看護師としてのスタートなのである。  ま、小児科病棟から外科病棟へ変わったというアクシデントはあるが。 「よーし、頑張るぞ!」  気合を入れ、化粧室から出て行く。 「佐倉沙菜さん」  化粧室を出てすぐに沙菜は事務の制服を着た女性に声をかけられた。 「え? はい」 「私、救急外来専属事務の前宮と申します。よろしくお願いします」  そう言って頭を下げた。口調は落ち着いていて大人びた印象を与えるが、顔は童顔である。沙菜よりも年下ではないだろうか。 「もうすぐスタッフミーティングが始まりますのでこちらへいらしてください」  前宮は外科病棟とは反対に向かって歩き出す。 「え、え? 外科病棟へ行くんじゃ」 「司瀬看護師から、佐倉さんを救急外来にお連れするように言われていますので」 「はあ……」  沙菜は言われるがまま、前宮の後ろについてく。  救急外来のスタッフルームではすでにミーティングが始まっており、医師や看護師、ソーシャルワーカーたちがそろって話し合いをしている。その中には患者の際、お世話になった司瀬雫もいる。  前宮は、ミーティングの輪から少し離れた場所に椅子を用意し、それから沙菜に腰かけて少し待つように小声で伝える。言われたとおり、沙菜はそこに腰かけ、話し合いが終わるのを待った。  医師の中には三野の姿もある。そして彼の横には研修医だろうか、緊張した面持ちで必死にメモを取っている医師がいる。おそらく沙菜よりも緊張している。 「「本日もよろしくお願いします」」  ミーティングが終了すると一気にスタッフがそれぞれ持ち場へと散っていく。 (あれあれあれ?)  沙菜は自分の前からいなくなっていくスタッフに声をかけるタイミングを失ってしまい、内心焦ってしまう。 「司瀬さん。佐倉さんをお連れいたしました」  前宮がすっと雫の前に立ち、茫然としている沙菜に掌を向け指し示す。ホワイトボードに本日の検査予定時刻を記入していた雫が沙菜のほうを振り向く。 「あ、ごめん。はいはい。ようこそ救急外来へ!」  沙菜に向けて言った後、今度はセンター内の中央に向かって声を張り上げる。 「みなさーん! 今日から新人の佐倉さんが来てくれましたー! 貴重な戦力ですよー! よろしくしてあげてね!」  雫がスタッフに向かって声を上げると、各スタッフは仕事の手を休めないままそれぞれ、「初めましてー! 海野です!」「よろしくお願いしますー!」「今日からなんだ。頑張って」「すみません! 時間できたら自己紹介させてください!」などと様々なリアクションが返ってくる。なぜか、「早く怪我を治して元気になりますぅ」と患者らしき声も聞かれたが。  救急外来は殺伐としたイメージがあったが、意外と優しい世界だ。沙菜は心の中でほっと胸をなでおろす。 「初日からで悪いんだけど、今日は救急外来担当なの。邪魔しない程度に私についてきてね」  すでに速足で歩き出した雫の後ろに沙菜が懸命についていく。 「質問! 心肺蘇生のABCは何?」  廊下を歩いている途中、雫が沙菜に質問した。 「気道確保、人工呼吸……あと、心臓マッサージです」 「そう。いわゆる一次救命処置ね。もしこれらが十分に行われなかった場合、どんなに医療設備の整っている病院で、熟練された医師が治療にあたったとしても、患者が社会復帰できる確率は低いの。おおよそいくつくらいだと思う?」 「えーと(自信なさげに)2、30%くらい、でしょうか」 「ううん。0~2%。著しく低いのが現状なの」 「そんなに低いんですか」  沙菜は眉を顰める。つまり、迅速な一時救命処置が重要となるわけである。  雫は救急処置室の物品庫へ沙菜を案内する。沙菜はそこで、雫から救急処置に使用される薬品や挿管セット、除細動器などの説明を簡単に受ける。 「司瀬さん、2分後に救急車が到着します。交通事故だそうです」  前宮が連絡にやってくる。雫と沙菜の二人は処置室へと急いだ。 「やあ、今日も頑張ろうね」  処置室にはすでに三野がいた。彼の横にはミーティングの時に三野の横でカチコチに緊張していた研修医がいる。名札には高坂陵と書かれている。彼は今もカチコチに固まってしまっている。緊張しているらしい。 「高坂先生、BLSが十分に行われなかった場合、患者さんが社会に復帰できる確率はいくつか知ってるかな?」  三野が高坂に尋ねる。BLSとは、一次救命処置のことだ。先ほど雫が沙菜にした質問とまったく同じである。 「え、ええと」  高坂は少し考え込む。 「20%くらい、ですか?」  その答えに、三野と雫は一瞬、間の抜けたようにポカンとなる。 「それ、佐倉と同じ答え」  雫は高坂にそう言った後、沙菜のほうを振り返ってクスクスと笑う。  高坂は、どうやら自分が見当違いの答えを言ってしまったようだと気付き、微かに赤くなる。 「0~2%だよ。高坂先生、覚えておいてね」 「すみません……」  高坂は沈んだ表情で答える。落ち込んでしまったらしい。 「何もそんなに落ち込まなくても」 「救急車来る前にやる気なくさせてどうするんですか」  雫が三野を肘で小突く。 「救急車、到着します」  前宮の言葉に、処置室にいたスタッフたちは慌しく動き出す。  救急車のサイレンの音がだんだんと大きくなり、やがて完全に鳴り止んだ。救急車から直ちに救急隊員が降り、ストレッチャーで患者を院内へ搬送する。 「先生! いつもお世話になっております!」  顔見知りの救急隊員が三野に向かって頭を下げる。 「患者は結城亮、16歳。自転車で通学途中、誤って車道の真ん中で自転車ごと転倒 。前方不注意の車に跳ねられたそうです。我々がかけつけた時の意識レベルは300でした」  救急隊員が三野に報告している間に、整形外科医の吉岡、そして整形外科の研修医である正木がやってくる。 「ラインをとってくれ!」  三野が高坂に指示を出す。すぐに雫がセッシと消毒を高坂に渡した。 「鎖骨下静脈は避けてくれ。気胸を起こす可能性がある。大腿静脈からラインをとるんだ」  三野が高坂の横に並び、彼の指導に当たる。 「結城さん、わかりますか? しっかりしてください!」  雫の声かけに対し、患者からの反応はない。 「挿管を行う! 高坂先生、挿管準備!」  三野がそう叫んで高坂のほうを振り返るが、なんと彼はまだライン確保に懸命になっている最中であった。 「きみ、挿管やったことあるの?」  吉岡は高坂の背後に立ち、彼の処置の仕方を訝しげに眺めながら話しかけてくる。 「やったことはあります。けど」 「成功したことはない、だろ?」 「……」  高坂は一瞬、針を持ったまま動きが止まってしまう。 「僕がやります」  正木は得意げに言い放ち、患者さんの頭側のベッドの前に移動する。  そして、三野が指示するまでもなく、実に迅速で的確な手技で挿管を成功させて見せる。三野は間を与えず、胸腔ドレナージを行う。  一方、高坂は未だにライン確保が行えず、苦戦している。 「正木、代わってやったらどうだ?」  吉岡が見かねて言った。高坂は絶望的な表情で隣の三野を見る。  さすがに気の毒に思えた三野は高坂に代わり、ラインを確保してやる。 「これは骨盤もやられちゃってるだろうなあ」  吉岡は患者さんの下肢を見ながら呟く。放射線技師の河島が出来上がったX線フィルムを持ってきた。 「先生! 心停止です!」  雫がモニターを見ながら叫ぶ。三野は患者の首に指をあて、頚動脈の有無を確認する。脈は触れない。 「家族は来てるのか?」 「いえ、まだ連絡がつかないとのことです」 「……開胸マッサージを施行する」  この三野の言葉に、雫や他の看護師たちはすばやく準備に取り掛かった。 「佐倉! 三野先生に消毒液を渡して!」 「は、はい!」  沙菜は言われるがまま消毒液のよく染み込んだ綿球を三野に手渡す。 三野は患者さんの上半身の大部分に渡って消毒を施し、雫から渡されたメス刃で、一気に胸の皮膚を切開する。 「!」  思わず沙菜は目をそむけてしまう。  三野は心臓を直接手でつかみ、心臓マッサージを開始する。  一般の人間では、とても直視できない光景である。  約10分後、心拍が再開した患者さんは手術室へ運ばれていった。  沙菜は先程の光景が頭から離れず、青ざめた顔で壁に寄りかかっている。 「大丈夫? 休んできていいよ」  雫が声をかける。 「いえ、大丈夫です」  沙菜はそう答えるが、周りから見ると、とても大丈夫そうではない。 「いいから休んできなさい。あの場で倒れなかっただけでも偉いよ」 「司瀬君の優しいお言葉に甘えてもいいんじゃないか?」  三野が言った。そこへ、正木がやってくる。 「三野先生、先程の心嚢切開ですが、何点かお聞きしたいことが」  正木は何やら難しそうな医学用語を並べ立てて、色々と三野に質問してくる。  この二人がいったい何をしゃべっているのか、沙菜にはさっぱり理解できない。まるで異国の地で聞きなれない外国語を聞いているよう。 「……」  三野たちからやや離れた場所で、高坂はため息をついて肩を落とす。完全に正木に負けたと思った。同じ研修医という立場であるのに、実力は雲泥の差だ。  三野は怒涛の正木の質問攻撃を難なく受け流し、彼を満足させて処置室から退散させる。それからすぐに肩を落としている高坂のもとへ戻る。 「なんだよ、高坂先生。何で落ち込んでるんだ?」  三野がやってきて高坂に声をかける。彼の横には雫と沙菜がいた。 「整形外科の研修医に負けたのが悔しいらしいわよ。先生、なぐさめてあげて」  からかい半分で雫が言う。 「だってさ。なぐさめてあげようか?」 「いいです」  落ち込んでいるわりに、高坂の返答は早い。 「挿管の出来ねえ医者は医者じゃねえぞ、高坂」  心臓外科医の杉先生がやってきて、いきなりの厳しい一言を高坂に浴びせる。杉は先程の件を吉岡から聞いたらしい。 「整形外科の正木とかいう研修医、得意げだったろう? アイツは律華医大の救急でちっとばかり経験を積んでるんだ。アイツと自分を比べるなよ? おまえが意識しなきゃなんねえのは、研修医として同じ外科にいる峰だからな。峰は挿管の技術をとっくに習得してるんだ。気にするんなら、そのことを気にしろ」  杉は二度ほど高坂の肩を叩き、処置室から出て行く。 「何あれ? 励ましに来たんだか落ち込ませに来たんだか、わかんない」  雫は首を傾げる。 「医者じゃないって言われました」  高坂はもう放心状態寸前。 「高坂先生、4階で処置をお願いしますとの連絡がありました」  杉と入れ違いに前宮がやってきて、高坂に声をかける。 「……今、行きます」  高坂の声のトーンがいつもより低く、沈んでいる。 「?」  前宮は高坂の様子がおかしいことに気づいたが、別に理由を尋ねようとする気はないらしく、そのままジッと彼を見ている。 「大丈夫? 仕事できんの?」  雫が怪訝そうに高坂の顔を覗きこむ。 「大丈夫、です。4階に行ってきます」  そう答え、雫に背を向けて立ち去っていく高坂の足取りはフラフラだ。 「重症だな、あれは」  三野が雫と沙菜のほうを振り返って言った。
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