03「初勤務」-2-

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03「初勤務」-2-

 休憩時間。  少し風に当たりたい、そう思い沙菜は屋上へやってくる。  天気は快晴。心地よい風も吹いており、こんな日に仕事をしているのがもったいないほどだ。 (三野先生って、やっぱりすごい先生なんだ)  沙菜はフェンスにもたれかかり、先程の処置室での出来事を思い返す。  普段、陽気に笑っているだけのようなイメージだが、仕事になると別人だ。特に救急外来では。  そして自分は……。  一刻一刻が、スタッフの動き一つ一つが、一人の人間の生死を左右する緊迫した場面。あの場に自分は全く入り込めそうもなかった。看護師である雫の動きでさえ、まったく何をしているのかわからなかったのだ。 (私、やっていけるかな)  自信なく、心の中で呟く。   お昼ご飯を食べようとお弁当を持ってきたが、食欲すらわかない。  沙菜は軽くため息をつき、ロッカーにお弁当を置いてまた救急外来へ戻ることにした。  沙菜の個人ロッカーは4階の外科病棟にある。そのためいったん4階へ戻ることにした。  エレベーターを降り、ロッカーへ向かって廊下を歩いていると、自動販売機の横に置かれている長椅子に一人で座っている男性が目に入った。  40代前半くらいの中年男性だ。うつむいているので表情はよく見えないが、肩で深呼吸をしている。遠くから見ても苦しそうである。 「あの、どうかしましたか?」  沙菜は声をかけてみた。しかし、相手は顔を上げることが出来ず、胸を押さえて立ち上がろうとし、そのまま前のめりに倒れてしまう。 「し、しっかりしてください! 大丈夫ですか?!」  沙菜はうつぶせの状態の男性を仰向けにすると、なんと呼吸が止まっていた。 「誰か! 誰か来てください! 急変です!」  沙菜は必死に声を張り上げ、助けを呼ぶ。それから胸骨圧迫(心臓マッサージ)を開始する。 「急変? 誰?……え! 針谷さんの旦那さん!」  沙菜の応援要請に近くにいた外科病棟のスタッフが集まってくる。  意識を失い倒れた中年男性は、急性膵炎のため入院治療していた針谷亜依さんの夫で、妻の面会の帰りだったらしい。 「ストレッチャーに乗せてすぐに403号室へ!」  そこへ、先ほど救急外来にいた三野と高坂もやってくる。 「佐倉君、あとは僕たちに任せて」  三野に声をかけられた沙菜は胸骨圧迫を中断し、邪魔にならないよう素早く身を引く。  個室である403号室へ運ばれた針谷さんの処置が直ちに開始された。 「血圧、測れません! 触診もダメです」  心臓の動きを追う心電図モニターの波形はかろうじて弱弱しく波打っている。 「MI(心筋梗塞)だな」  三野が呟く。  高坂は三野の横で針谷さんが過去に受診歴がないか電子カルテで検索する。 「ありました! カルテを見ると、7年前にも心筋梗塞を起こしています。オペ歴はないです」 「あまりいい状況とは言えない、か」  生体モニターを確認しながら三野が苦々しく言った。 「挿管する」  三野は挿管の準備に取り掛かる。 「高坂先生、挿管はきみがやってみろ。まずは咽頭の展開だ」 「は、はい!」  高坂は緊張した面持ちながらも真剣な表情で患者さんの頭上に立ち、患者さんの口を開かせる。 「ブレードを右口角から挿入して」 「はい」 「舌を左上方に軽く圧排しながら喉頭鏡を進めて」 「はい。……あ! 喉頭蓋が見えました!」 「よし。じゃあ、喉頭蓋谷までブレードの先端を進めて、喉頭鏡をその柄の前上方へ持ち上げると、声門が見えるはずだ」 「?」  高坂は眉をひそめ、軽く膝を落として喉頭鏡を覗きこむが、声門は見えてこない。見えない、と思うと急に気持ちが焦ってきた。 「見えないのか? じゃあ、ブレードの先端が喉頭蓋谷に十分進んでいないか、喉頭鏡の前上方への挙上が不十分なんだ。落ち着いて、もう一度やってみろ」  三野に言われたとおり、高坂はもう一度冷静に行ってみる。 「(嬉々と)声門が見えました!」 「じゃ、チューブを入れよう」  三野は潤滑剤を塗った気管内チューブを高坂に手渡す。 「チューブの上端をスタイレットとともに気管内に挿管するんだ。声門を通過したら、僕がスタイレットを抜去する」 「はい」 「先端のカフが声門を通過するまでさらにカフを進めるんだぞ。いいか、その間、声門から目を離すなよ」 「はい」 「(看護師に向かって)バイトブロックくれる?」  三野は高坂に注意を向けたまま、近くで介助をしている看護師に向かって手を差し出す。看護師はバイトブロックを三野に手渡す。 「はいはい、そこで喉頭鏡を前に倒すようにしながら、抜き取る」 「はい」  高坂は慎重に喉頭鏡を抜き取る。三野は聴診器で左右肺の呼吸を確認する。 「よし、上出来だ」  三野はそのまま次の処置に取り掛かる。 +++++  生体モニターは安定した心臓の波形を映し出している。 「よかったね。これで杉先生も認めてくれるんじゃない?」  話を聞きつけ、外科病棟に姿を見せた雫は、点滴の速度を調整している高坂に向かって微笑みかける。高坂は嬉しそうにやや顔を赤らめながら、頷いた。 「技術を磨くにはまず実践からだね。立派だったよ、高坂先生」  三野がそう言うと、 「先生、いろいろとご指導ありがとうございました!」  高坂は救急外来にいた時とはうってかわって元気に言い、病室から出て行く。 「褒められて伸びるタイプなのね」  雫は高坂がいなくなった後に三野に向かって言う。 「高坂君はそうみたいだね。峰君は逆なんだけどさ。峰君は褒めると調子に乗ってからまわっちゃうからなー」  三野はディスポの手袋と予防衣を医療廃棄物に捨て、病室から出ていく。 (私のお弁当どこー?)  沙菜は廊下をうろうろと歩き回っていた。  針谷さんがあんなことになってしまい、夢中で胸骨圧迫処置を施していたのだが、気が付くと自分のお弁当箱が行方不明となってしまっていたのだ。 「あ、いたいた。佐倉君、さっきはありがとう」  三野が姿を見せ、沙菜に声をかけてくれる。 「いえ。針谷さんは大丈夫ですか?」 「ひとまず落ち着いたよ。予断を許さない状況ではあるけどね。でも、回復すると思う。きみの一次救命処置のおかげだよ」 「私の?」  沙菜は夢中でやったことだ。正直、あの場での処置が正しかったのかは自信がなかった。しかし、三野がそう言ってくれるのならば、正しかったのだろう。 「一次救命処置の大切さを今日、司瀬先輩と三野先生に教えてもらったからです」 「そっか。……ん?」  三野は優しく微笑んだ後、沙菜の背後に視線を向ける。 「何か落ちてるよ。きみの?」  そういって保冷バッグを拾い上げる。沙菜が捜していたお弁当箱が入った保冷バッグである。 「あ、こんなところに落ちてたんだ。私のです。ありがとうございます」 「はい」  三野は保冷バッグを沙菜に渡し、なぜか彼女の顔を覗き込む。 「お昼ごはん? それ、重さからしてまだ中身入ってるよね。もしかしてさっきの騒動で食べ損ねた?」 「そういうわけじゃないです。床に落としちゃって、中身がぐちゃぐちゃになっちゃったから、食べる気がしないというか」  ただ、食欲がなかっただけ。とは言いにくく、沙菜は返答をはぐらかす。 「食欲がないんだね」  三野は肩をすくめ、沙菜の頭の上にポンと手を置いた。お弁当の中身が~の部分は言い訳であることを察したのだろう。 「無理もないか。朝からいろいろあったし。今日、初めての現場だったんだろう? 加えてきみは退院して間もないし」 「いえ、あの」 「それとも、僕に切られた傷がまだ痛むのかな。まだ退院させるのは早かったもしれないな。これからまた入院する?」  悪戯っぽい口調で言われ、沙菜は軽く頬を膨らませる。 「しません。おかげさまですっかり良くなりました。三野先生のおかげです」  沙菜が恭しく頭を下げる。  三野は「そっかそっか」と呟き、少し考え込む。 「食べないんならこれ、僕がもらっていいかな?」  言い終わらないうちに彼は沙菜が両手で抱きしめるように抱えている保冷バッグをひょいと取り上げ、歩き出した。 「え! そ、そんな! きっとおいしくないです!」  思いがけない展開に沙菜はうろたえながら三野の横に立ち、手を伸ばしてお弁当を取り返そうとした。だが、そんな彼女をあしらうかのように三野は難なく身をよける。 「きみの手作り?」 「え? はい」 「楽しみだな。さ、行こう」 「行くって、どこにですか?」 「快気祝いだよ」 「か、快気祝い、ですか?」  先程から三野の言動に沙菜は振り回されっぱなしである。 「このお弁当を僕がもらう代わりに、きみにごちそうしてあげる。ここの1階のカフェってけっこう有名でね。お昼時は行列ができるんだけど、今の時間なら空いてるだろうし、丁度いいな。あ、もちろん僕のおごりだから、好きなもの好きなだけ頼んでいいからね」 「え、でも私そろそろ戻らないと」 「大丈夫」  三野はそう言って歩きながらポケットからPHSを取り出し通話ボタンを押す。そして受話器越しで相手と話を始める。 「うん。そう。今、佐倉君と一緒だよ。……そう、そういうこと。さすがだねぇ。そういうわけだからよろしく」  二言三言会話し、PHSを切る。そして開いたエレベーターに乗り込んだ。 「司瀬君の承諾ももらったし、行こう」 「え! あ、先生!」  慌てて沙菜は三野の後を追う形でエレベーターに乗り込む。  かなり強引ではあるが、彼なりに沙菜を元気づけようとしてくれているのだろう。  その気持ちが伝わり、沙菜は温かい気持ちになる。  なので、今日は素直に三野の気遣いに甘えることにした。  たしかに仕事は想像以上にハードだが、第一線で働いている三野や雫たちの姿はそんな辛さを微塵も感じさせないほど輝いている。  いつか、自分もこんなふうに輝けるスタッフとして認めてもらえる日が来るのだろうか。  不安がないとはいえないが、彼らと一緒なら頑張れる。そんな気持ちさせてくれる初勤務だった。
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