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04「もう一つの出会い」-1-
ある日の昼休憩時間。沙菜は入院保険の書類を受け取りに医事課にやってくる。
問題なく手続きを終え、医事課から立ち去ろうとした時だった。新患受付にいた事務員の漆山桐が困った顔をしながら新患受付前の待合室から戻ってくる。
「困っちゃったなー」
「どうかしたんですか?」
「それがですね、受付時間過ぎてるんだけど、呼吸が辛そうな患者さんが来てるんですよ」
時計はちょうど12時を指している。外来の受付時間は11時までだ。
「救外にまわしたほうがいいかな。でも、さっき救急搬送の受け入れが追い付かないって言ってたしな。近くのクリニックに行ってもらうように説明したほうが早いかも」
「でも、この病院を選んできてくれたんだし、なんとかしてあげられないでしょうか」
沙菜は受付ソファに座ってうなだれ、スマホをタップしている患者へと目をやる。20代の若い男性だった。青白い顔をして、時々首を押さえて呼吸を整えようとしている。喘息の症状のようだ。内科領域の患者である。
「内科の先生って時間外に頼むとすっごく嫌な態度で文句言うから頼みたくないんですよね」
確か、今なら外科に三野がいるはずである。彼に頼んで患者さんを診てもらうことも可能だが、そのことを桐に提案すると残念そうに首を振る。喘息の患者さんを外科で診たと内科の医者が聞けば、受付のスタッフが内科の医者に責められかねないというのだ。
沙菜はどうしようかと何気なく辺りを見回す。
そこへ、白衣姿の若い男性医師が受付の前を通り去っていくのが目に入った。
「あの先生は?」
「狗飼先生です。内科の先生だけど、あの先生こそ、無理!」
桐は慌てて両手をつきだし、ブンブンと乱暴に左右に振る。
「狗飼先生、今はほとんど臨床に携わってないんです。それに、理事長の」
「私、頼んできます。それなら医事課の人たちが責められることないでしょう?」
「え? あ! 佐倉さーん!」
桐が引き留めようとした時にはすでに沙菜は狗飼のほうに向かって小走りに走って行く。
「狗飼先生」
沙菜は狗飼を呼び止める。呼び止められた狗飼は遅れて立ち止まり、沙菜のほうを振り返った。
沙菜は臆することなく、喘息の患者さんが受付にいることを手短に話す。
彼が、新人看護師の頼みなど聞くはずがない。
桐はいつでも謝罪にかけつけることができるよう遠くからハラハラしながら見守っている。
しかし、その必要はなかった。
話を聞き終えた狗飼は特に迷うこともなく、実にあっさり了承してくれたのだ。
「いいよ。俺が診よう」
この返答を聞き、沙菜は桐に向かってジェスチャーでOKサインを出す。桐は思わず手を振った。
「きみは外来の看護師か?」
狗飼が沙菜の存在を知らないのは当然だ。
「いえ、外科病棟です。佐倉と言います」
「そうか。佐倉さん、患者を連れて内科3番に来てくれ」
狗飼は内科外来に向かって歩き出す。
+++++
内科外来の診察室に喘息の患者がやってくる。狗飼は問診と聴診を行う。聴診しなくてもゼイゼイという擦れた呼吸の音がはっきり聞き取れる。
「すみません。俺、……岡山から出張で来てて。……吸入薬、忘れて……来ちゃったんです。最近、発作もなかったから大丈夫だと思って……」
話すほど患者の呼吸は荒くなっていく。
「ここのところ、仕事が……忙しすぎたのもあるんだと思います……」
「疲労が誘発して、喘息発作を起こす方もいますからね。佐倉さん、酸素飽和度を測ってくれるかな」
「わかりました」
沙菜は指示されたとおり、酸素飽和度を指先で測れる簡易機で測定する。
「89%です」
「酸素を1リットル流そう。あと採血と点滴。血圧測定も頼む」
狗飼は電子カルテに注射伝票と採血依頼の必要事項を入力する。
沙菜は患者を処置室のベッドへ案内し、酸素吸入と点滴の準備に取り掛かる。
「看護師さん、ありがとうございます。受付で一回断られて、近くで診てもらえそうな病院、スマホで探してたんですけど、土地勘もないし、不安だったんです」
「いえ。安心してベッドに横になってください。少し頭の高さを上げますね」
喘息症状の場合、平らで寝るよりは45度程度の角度で横になったほうが横隔膜が下がり、呼吸が少し楽になるのだ。
準備が終わると、ベッドに横になっている患者の腕で血圧測定をする。
血圧測定を終えた沙菜は、診察室にいる狗飼に値を報告に行く。
「先生、血圧188/92です。本人は普段は100くらいだと」
「じゃあ、エピネフリンの注射を追加しよう。皮下注射はお願いできるかな」
「あ、でも」
沙菜は返答に躊躇してしまう。
「私、皮下注射をやったことがないんです。まだ、注射与薬の演習が終わってなくて」
「きみは新人なの?」
「はい。今年の四月からです」
「そうか。なら俺がやるよ」
気難しい医者なら、注射も満足にできない看護師など迷惑がられそうだが、狗飼はさほど気にする様子はない。
「ありがとうございます。私、採血はできます! 準備してきますね」
沙菜は笑顔で言い、準備に取り掛かろうとする。が、それを狗飼が引き留めた。
「いや、いい。注射が実践できないなら、点滴のルート確保もまだだろう?採血とルート確保を別にやると、患者さんに負担がかるから同時に俺がやるよ」
「あ、そうなんですか……」
たしかに、採血をするために血管に針を刺し、またさらに別の血管に針を刺して点滴を行うのは、2回針を刺されることになり患者の負担である。
(私って、ホントにまだ知らないことが多くて、できないことだらけ)
沙菜はしゅんと落ち込むが、それを狗飼や患者に悟られるわけにはいかない。気持ちを切り替えて準備に取り掛かる。
それから採血と点滴の準備ができ、患者が休んでいる処置室へ戻る。
「あの……刺される前に言っておきますね。俺の血管、すごく見つかりにくいらしくてどんなベテランでもいつも2、3回はチャレンジされるんです。でも俺、慣れてるし痛みに強いほうなんで、気にしないで刺してください」
プレッシャーを与えないために言ってくれているのだろうが、逆にプレッシャーではないだろうか。沙菜は自分が実施者であったら、この言葉に怯んでしまうだろう。
「大丈夫ですよ。楽にしていてください」
狗飼は沙菜から針を預かり、患者の肘を軽く指で触れる。
「刺しますよ」
そう言って、迷うことなく彼はいとも簡単に針を皮膚に刺した。逆血が確認できる。間違いなく静脈に入っている。
「え、さすが先生ですね! いつも2、3回は刺されるのに、すごい。ここの病院に来てよかった」
「点滴は一時間半くらいかかります。点滴が終わる前か、それか何かあったらすぐにナースコールを押して知らせてください」
「ありがとうございます」
患者は、少し落ち着いたように目を閉じる。
沙菜は狗飼と共に診察室へ戻ってきた。
「きみもありがとう。あとは内科の看護師に話しておくから、きみは外科に戻っていいよ」
「はい。じゃあ採血の検体を検査室に置いて、外科に戻ります」
沙菜は一礼し、診察室から出て行く。
検査室へ向かいながら沙菜は先程の出来事を思い返していた。
受付の桐は狗飼の姿を見ただけで萎縮し、診察を依頼するのを拒んでいた。
だが実際、狗飼に頼んで正解だった。彼は指示も技術も、完璧な医者だった。
それに態度も大柄ではない。患者だけでなく新人で何もできない沙菜に対しても優しく穏やかだ。外科や救急で見る活気ある医者とは全く違う。内科医と外科医の違いなのだろうか。もちろん、どちらが正しい医師の姿というわけではないのだが。
+++++
彼女が去ってから少しして、内科の看護師たちが休憩室から戻ってくる。
「え、え! 狗飼先生? どうされたんですか!」
看護師たちは、狗飼が外来にいることに驚く。狗飼は喘息の患者さんが来たことを短く説明する。今、処置室で点滴をしていること、そして沙菜が介助についてくれたことを。
「佐倉さんって……」
看護師たちは顔を見合わせる。
「入職式の時に倒れて、三野先生に助けてもらった子ですよね」
「あの時の子か」
式には狗飼も出席していたので、当然新入職者の一人が倒れたという場面に立ち会っていた。
採用試験や入職式など、場慣れしていない新人が極度の緊張のあまり眩暈や吐き気、腹痛などの症状を引き起こしてしまうことがある。あの日、挨拶の途中で倒れてしまった新人も一時的に自律神経を乱して眩暈を引き起こしたのだと狗飼は思い、さほど気にしていなかった。そういう場合、緊張から解放されれば症状は改善するからだ。
式で倒れるほどだ。繊細、あるいは神経質な新人なのだろうと思っていたが、喘息の急患を診てほしいと声をかけてきた彼女はそのイメージとはかけ離れていた。だから気づかなかった。
「結局、腹膜炎一歩手前の虫垂炎だったみたいで、あの後すぐに入院になって三野先生が主治医になったって聞きました。退院した後も配属先が外科で三野先生と一緒に仕事してますよ」
「佐倉さんってホントは小児科に配属が決まってたみたい。それが急遽外科に変わったって。三野先生がよっぽど佐倉さんを気に入ったんじゃないかって噂……」
看護師の一人がうっかりと口にしてしまう。言ってから、しまったというふうに口に手をあてた。つい看護師同士のおしゃべりのように語ってしまったが、今は狗飼がいるのだ。うかつなことを言うと、内科外来の看護師はおしゃべり好きな集団であると悪い印象を与えかねない。
「三野先生が?」
噂話になど興味を示したことのない狗飼が、珍しく聞き返した。
「いえ、本当かどうかはわからないですけど、結構噂になってるんです」
「三野先生、ああいうキャラですから誰とでもすぐに噂になるんですけどね」
フォローにならないフォロー。
「……」
狗飼は黙ったまま、考え込むように遠くを見つめる。
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