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24「untold incident」-3-
アパートに到着し、車が停まった。
部屋の前までやってくると沙菜はドアの鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
カチャンとロックが解除される音がした。
それを見届けた三野は彼女に挨拶をして立ち去ろうとする。しかし、沙菜は思い切って手を伸ばし、三野の腕をつかんで引き留めた。
「あの、行かないでください」
「え。でも」
「行かないで」
そのまま沙菜が三野の胸に身を預ける。
「無理……しないでください」
患者にだけでなく周囲の人たちにとっていつだって頼りになる優しい人。
数えきれないほど多くの人が彼を必要としてくれ、それに応えてきたのだろう。
でも、それならば彼が助けを求めて手を差し出した時は、誰がその手を取ってくれるのだろうか。
強い人だから大丈夫だと、そう周りは思ってしまうかもしれない。実際に沙菜もそう思っていたことがあった。
けれど今は、この人にだって支えは必要だと知っている。
三野はきっと、傷ついている。寺代が話してくれた20年前の、三野の父が治験の投薬ミスを否定できなかった本当の理由、そして父親の苦悩を知って。
狗飼や稀葉のように、三野も関係者として20年という時を過ごしてきた。
以前、三野は言ったことがある。父が投薬ミスを起こしていなかったという事実は自分と母だけが知っていればいいと。
だが、もしかすると理由を知ってしまえばその事実に囚われてしまう恐れがあったから、あえて知ろうとしなかったのかもしれない。
最初から強いのではなく、あの事件があったからこそ強くならなければいけなかったのかもしれない。
そう思うと、沙菜はどうしてもこのまま三野を離すことができなかった。
自分が癒しの存在になってあげたかった。
「俺は大丈夫だよ」
三野は沙菜を抱きしめ、優しい口調で言った。しかし沙菜はこどものようにさらに強く三野にしがみつき、大きく頭を振る。
「本当に、大丈夫だから」
「ダメです。行かせません」
「……困ったな」
呟く。
とにかく、外でこのままやりとりを続けるのは憚られるため沙菜をその腕に抱いたまま、ドアを開けて部屋に入る。
「きみが心配してくれる気持ちは嬉しいけど、無理しているつもりはないし、こんなふうにしか生きられないんだ。器用じゃないんだよ」
諭すように話すが、沙菜はそれでも三野から離れようとはしない。
「あの、いったん落ち着いて話そう」
「一緒にいてくれますか?」
「うん。だから離れてくれるかな」
「もしかして……嫌、なんですか?」
沙菜はそんなふうにきっぱり拒絶されると思わなかったので、深く傷ついた。
「いやいや、ごめん。違う。まずは、座って」
三野は中へ進み、リビングの二人掛けのソファに沙菜を座らせる。そして自分はその場に立ったまま腕を組み、どのように説明すべきかを悩み始める。
「離れてほしいって言ったのは嫌だからじゃないよ。好きな子にあんなふうにくっつかれると、男は自制が効かなくなることがあってね。いろいろ大変なんだよ。その、抑えるのが……」
「どういうことですか?」
「……きみはもう少し男心を学んでくれると嬉しいな」
三野は大げさにため息をつく。
沙菜は自分の膝の上でギュっと手を握り、決意の眼差しを三野へと向けた。
「構いません」
「え。構わないって、何を……?」
「いいです。自制が効かなくなっても」
「いやいやいや。いやいや。まずいだろう」
珍しく三野は動揺した素振りを見せた。
沙菜のほうは、もしも三野が自分を求めてくれるなら、拒む理由はないと思っている。必要としてくれるのなら、それで癒されるなら本気で構わないと思っていた。
しかし、三野のほうはそうは思わないらしい。彼のほうが冷静かつ大人だった。
結局、三野は仕事へは戻らずに沙菜と一緒にいてくれることを選んでくれた。幸いにも、職場のほうは峰や高坂、そして森行たちがフォローしてくれているので、心配ないようだった。
コーヒーを飲んで一息つき、沙菜の気持ちもやや落ち着く。
くつろいだ様子でソファに並んで座り、テレビを見る。
少しだけなら、と沙菜がまたしても甘えるように三野に寄り添うと、今度は拒まれなかった。困ったように笑いながら三野は沙菜の肩に手を回し、寄り添い返してくれたのだ。
「確かに、こうしてきみがいてくれてよかったな」
三野がポツリと本音を漏らす。
もしも仕事に戻っていればたしかに気は紛れただろうが、それはあくまで感情を誤魔化しているだけに過ぎなかっただろう。
こうして沙菜がいてくれる。それだけで、こんなに心が落ち着くことを彼は実感した。
「いつでも、頼ってくださいね」
沙菜が微笑みながら言う。
病棟の患者たちがやたらと沙菜に声をかける姿を三野は見かけていたが、それはこのように人を労わる優しい空気に癒されたいからだとわかった。そんな優しい空気を自然と身に纏うことのできる彼女にとって、看護師の仕事はまさに天職といえるだろう。
それぞれが、複雑な感情を大きく揺さぶられたと言える一日だった。
そしてこの日の夜――真実の先にある、まだ隠された真実が明らかになるのだった。
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