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25「真実の先の真実」-1-
『屋上庭園利用時間 午前10時から午後3時まで』
現在、深夜の2時を少し過ぎた時刻。昼間のような人の声や機械音はほとんどきかれないが、それでも時折パタパタと看護師が走るような足音がする。
屋上へとつながる一般用扉は施錠されていた。
しかし、一般用とは別に職員が出入りするための専用扉はなぜか施錠されておらず、ノブをひねると簡単に扉は開いた。
冷たい空気が開かれた扉の隙間から入り込んでくる。稀葉は何かに導かれるように屋上へと足を踏み出す。
フェンスの前に立って、下を向く。
救急外来の玄関に救急車が停まり、患者らしき人物が運ばれていく。遅れて一般車も停まり、家族らしき人たちが慌てた様子で救急外来へと駆け込んでいく。
ギュっとフェンスの金網を掴んで、少しの間そのまま下の様子を眺める。
「おい、おかしなこと考えるなよ」
ふいに、背後から声がして稀葉は振り返る。
いつの間にか、背後に狗飼が立っていた。
「遥ちゃん、どうして……?」
ここは成律医大にある病棟の建物だ。面会可能な時間はとっくに過ぎている。こんな深夜に彼がいるはずがない。
「三野先生が帰る前に津田先生に頼んでいたらしい。稀葉から決して目を離さないように、一人にさせないようにと。医者や看護師が付きっきりで監視するわけにはいかない。だから俺が許可をもらって院内にいたんだよ。出入り口には監視カメラがあるんだ。おまえが屋上に行くところを警備員が確認して、俺のところへ報せが来た」
「私、私……!」
稀葉は狗飼の視線から逃れようとフェンスに背をつけ、顔をそむける。微かに身を震わせていた。
「稀葉、戻ろう」
「無理なの。私、もう遥ちゃんやママのいる場所には……戻れない」
やはり、稀葉は思い出してしまったのだ。20年前の出来事を。
「20年前、父の病室で寺代教授たちが見た出来事は、教授から直接聞いた。だから、事故だったと理解できている」
「でも、遥ちゃんの本当のパパが亡くなってしまった! 事故だったなんて、そんな言葉じゃ片付けられない。殺されたも同然でしょう……!」
堪えきれず稀葉の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「遥ちゃんの家族皆を苦しめて、私はその罪を忘れたまま20年間も、普通に家族みたいな顔して振舞ってたんだよ!」
「稀葉」
狗飼は稀葉の腕をとり、そのまま自分のもとへ引き寄せて抱きしめる。
「お前がいたから、俺も母も狗飼の家に居場所があったんだ。今の家族は、おまえが作ってくれたんだよ」
嘘偽りない気持ちだ。
狗飼家にやってきたばかりの頃、一刻も早く上流階級の仕来りを身につけさせようとばかり強制してくる継父にうんざりしていた。そこには新しい家族を迎え入れてくれるような温かな空気は存在しなかった。
しかし、そんな息の詰まるような生活にいながら、本気で新しい家族の存在を喜んでくれ、兄と慕ってくれる稀葉の明るく元気な存在にどれだけ救われていたか。
「確かに俺は、父の死についてずっと納得が出来ずにいた。真実が知りたいと思った。だからその真実を知っていながら俺や母に黙っている奴らを許せないと思っていたんだ。憎んでいた。でも、当時の大人たちが真実を隠そうとしたのは、自己保身に走ったわけじゃなく、お前を守るためだとわかった。だからもう、いい」
自分たちの手で、終わりにしなければならない。
亡くなった父のために。そして残された自分や母、この出来事に関わった人々の未来のために。
「辛いだろうが、話してほしい。あの日、本当は何があった? 寺代教授は、おまえがシリンジポンプのアラームを消そうとしていた場面しか見ていないと言っていた。俺はもう、誰かを責めたり、憎んだりするために真相を探りたいわけじゃない。最期、父に何があったのかその事実だけが知りたい。何があったとしても、受け止める」
20年前、稀葉はあの病院で、病室で何を見たのか、何をしたのか。
「……」
稀葉は顔を上げ、狗飼を見上げる。
とめどない涙がまた、彼女の瞳から零れ落ちる。
そして、ゆっくりと頷いた。
+++++
20年前――。
「じゃあ、検温に行ってきます」
新人看護師の榊原はそう言って元気にスタッフステーションから出て行く。
「あ、稀葉も連れてって!」
ステーション内の椅子に腰かけ、別の看護師が記録を書いている様子を眺めていた稀葉は、ぴょこんと身軽に椅子から降りて榊原の後を追う。
「ねえねえ、お熱は稀葉に測らせてね」
「はい。お願いしますね」
そう言って榊原は体温計を稀葉に手渡す。
「お、稀葉ちゃん、今日もお手伝いかい? 偉いねぇ」
点滴台を押しながら廊下を歩く患者に声をかけられ、稀葉は得意げに胸を張って見せる。
最近、恒例となった光景だ。
稀葉は時々、院長である父に付き添って病院を訪れることがあった。そこで見た医者や看護師の仕事に興味を示し、そのうちになんでも模倣したがるようになった。
こどものかわいらしい真似事。そう周囲は捉え、稀葉が検温をしたがったり患者に声をかけることを容認していた。
最も、決定的に彼女を容認する決め手となった出来事がある。外科部長である飯田達人の回診に、何も知らない稀葉がついていったのだ。もちろん達人は一目見るなり「なんだこのガキは!」と激怒した。しかし祖父が理事長、父が院長という生粋の狗飼一族の娘であることがわかると黙り込み、見て見ぬふりを決め込んだのである。普段、周囲に威圧しか与えないあの達人を黙らせることのできる、この小さな勇者を周囲は称えた。
肝炎で入院している患者の病室に榊原が稀葉を連れてやってくる。
「湯沢さん、今日も肝臓の働きを良くするお薬を注射しますね」
「はいよ。あれあれ? 榊原さん、お子さんいたのかい? その若さで立派だねえ」
「稀葉はこどもじゃないよ。お医者さんなんだから」
稀葉がそう抗議すると湯沢さんはおかしそうに笑い、稀葉の頭を撫でる。
「そっかそっか。では注射は先生にお願いしようかな」
「うん!」
「もう! 湯沢さん、ダメですよ。稀葉ちゃんくらいの偉いお医者様に治療してもらうのは、ちゃんと病院の規則を守る優等生じゃないと。昨夜、屋上でタバコを隠れて吸おうとしたこと、ちゃーんと夜勤の看護師から聞いてるんですからね」
「うわー。勘弁してよー。ちょっとした出来心なんだよ」
湯沢さんは苦笑し、榊原に向かって大人しく腕を差し出す。それから榊原はトレイに乗った注射器を手に取り、注射を実施する。
その様子を稀葉は興味津々といった眼差して見ていた。
湯沢さんの病室を出た後、稀葉は榊原に、
「稀葉もお注射したいよ」
とお願いするが、榊原は笑って首を振る。
「ダメだよ稀葉ちゃん。お熱を測ったりするのはしてもいいけど、注射をしていいのは、お医者さんか看護師だけ。それ以外の人が触ったら、大変なことになっちゃうんだよ」
「大変なこと?」
「ものすごくおっかないことが起きちゃうんだ。稀葉ちゃん、食べられちゃうかも」
「え! もしかしてお化け?」
「そう。注射器のお化けが、夜中稀葉ちゃんのところへ来て、チクチクしにくるんだよ。だから、絶対に触っちゃだめだからね」
「う、うん!」
稀葉はお化けが怖かったので、素直に頷く。
スタッフステーションに戻ると仕事を終えたらしく父が稀葉を待っていた。
稀葉は父に連れられ、一階のロビーまでやってくる。
そこで、彼女は何気なく待合室に一人佇む少年に目を奪われた。
(わ。カッコいいな)
稀葉は思わず立ち止まってしまう。
おそらく年は自分よりも少し上だろう。
整った顔立ちで、最近稀葉が気に入っている魔法少女系の特撮番組に出てくる王子様役の役者にもどこか似ている。
その少年は俯いており、どことなく寂しそうにみえる。稀葉の視線には全く気付いていない。
「稀葉、行くぞ」
父に促される。迎えの車が玄関前まで到着したのだ。
稀葉はもう少しその少年を見ていたいと思ったが、次の予定が詰まっている父に急かされた。すぐにこの場を離れなければならなかった。
また会えるといいなと淡い期待を寄せて稀葉はその場を立ち去った。
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