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25「真実の先の真実」-2-
意外にもその少年を見かける頻度は多かった。
中庭にある同じベンチに腰掛け足をぶらぶらさせながら上を眺めていることが多く、そこにいない時はロビーの待合室の同じ時間、ほぼいつも同じ席に一人で座っている。どうやら母親を待っているようで、一度だけ母親に手を引かれ、ロビーを去っていくところを見かけた。
稀葉は少年と友達になりたいと思っているのだが、自分から話しかけることができずにいる。いつも物陰から少年の姿を見ているだけだった。
あまり人見知りをせず、どちらかと言えば物おじしない積極的な性格である稀葉には珍しい感情だった。
少年に自分の存在を気付いてもらえないまま数日が過ぎた。
いつものように父に連れられ、稀葉は特室と呼ばれる病室に来ていた。
そこでは祖父の年齢に近い老人男性がベッドに横たわっており、飯田達人や龍平兄弟の診察を受けている。
この患者は壮斉秀明といい、腎不全で入院している。右の腎臓はすでに不可逆的に病が進行しており、来週腎移植を行う予定だ。
今は病のために引退してしまったが、総理候補にも名が挙がったことのある、もと政治家である。引退したとはいえ今でも政界での影での影響力は多大なものである。
「では、予定通り手術は来週という事で」
「院長先生がたのおかげで、また命が長らえますよ」
壮斉は満足そうに言うと、視線を稀葉へと移し、目を細める。
「そちらが自慢の娘さんですな。いやはや、本当に愛らしい綺麗なお嬢さんだ」
「はは。こう見えてお転婆な娘でして。稀葉、壮斉さんにご挨拶しなさい」
昴は自分の後ろに隠れている稀葉の背に手を当て、そう促した。
「狗飼稀葉です」
「いくつだい?」
「7歳です」
「そうかそうか。なら、孫の響輝と同じくらいか。ちょうどいいな」
品定めするような目つきに稀葉はニコと可愛らしく微笑んで応える。
父に関わる大人たちは、たいてい稀葉をそのような視線で見ることが多い。それは現時点での狗飼一族の後継者が稀葉であるからだ。自分たちの私利私欲のために、稀葉をなんとか自分の手に収めておきたいという欲を大人たちは隠さない。そのことに稀葉は慣れてしまっていた。
「うちの響輝とお嬢さんが仲良くなってくれれば、壮斉家と狗飼家はさらに強固な結びつきができますな。今日、ちょうど息子と孫がここへ来る予定になっている。紹介させてもらっても構いませんか?」
壮斉の言葉に昴は快く承諾する。当然、稀葉の意思などお構いなしだ。
稀葉はその響輝という名の少年が、もしかすると最近中庭やロビーで見かけるあの少年かもしれないと思い、期待に胸を弾ませた。
「孫の響輝です」
壮斉に紹介され現れた少年は、残念ながらあの王子様のような容姿の少年とは似ても似つかない少年だった。
下半身は細身なのに上半身はふっくらとしている。高級そうな衣服に身を包んでいてもそのアンバランスさはカバーしきれていない。鼻や頬の周りにニキビがポツポツとできており、痒みでもあるのか時々手の甲で擦っている。
「へえ」
響輝という名の少年はジロジロと稀葉を見た。大人たちが品定めする視線とよく似た目つきだ。稀葉は胸がざわざわする嫌な感じを覚える。
「仲良くさせてもらいなさい、稀葉」
昴がポンと稀葉の肩に手を置き、諭すように言った。父の言う事は絶対だ。稀葉は恐る恐る無言で頷くことしかできなかった。
響輝のほうは稀葉を気に入ったようで、それからことあるごとに彼女に執拗に付きまとうようになった。
「俺のじいちゃんは、総理大臣になれるほどの偉い人なんだ。腎臓が悪くなきゃ、今頃日本のトップに君臨してたんだぜ。俺はそんな人の孫なんだぞ。すごいだろう?」
会えば自分と家族の自慢話ばかりを意気揚々と話す。
今日は壮斉秀明の腎移植手術の日だった。
響輝の父親は手術室へ向かう直前に病室へ顔を出し、手術の成功を願って病院を後にする。響輝の父親も政治家であり、分刻みのスケジュールに追われているため、いくら大事な手術の日であろうとも病院に長く待機することができなかった。
響輝は母親と病院に残ったが、母親が秘書たちと難しい話ばかりするので飽き飽きしてしまっており、その暇つぶしに稀葉が選ばれたのだった。
「本当なら、じいちゃんの腎移植の待機リストは後ろのほうだったらしいんだ。でも、じいちゃんは偉い人だから特別だって、順番を繰り上げてもらって腎臓を提供してもらえたんだ。さすがだよな。な?」
響輝は稀葉に同意を求めるが、彼女の視線は目の前のノートに向けられており、話を聞いてすらいない。
「なんだよ。俺の話聞けよ」
響輝はムッとして稀葉のノートを取り上げる。
「おまえさっきから俺の話無視して何してんだよ」
「あ、返して!」
稀葉が手を伸ばすが、その手を制して響輝がペラペラとノートを覗き込む。
「なんだよこれ。宿題なら家でやれよ。今は俺と遊ぶ時間だろ」
「別に響輝君と遊ぶ時間だなんて決まってないもん」
稀葉は響輝と一緒にいるのが苦痛だった。彼女も我慢が出来ない性格なので、嫌な相手と一緒に遊ぶなんて耐えられるはずがなかった。
「なんだと?」
響輝はギロリと鋭い眼光を向ける。それはまるで蛇のような恐ろしい目つきだった。
「女は生意気な口たたくな。黙って男に従ってろ」
そう言ってノートを持ったまま窓の前に立つ。それから窓を開け、何の迷いもなくノートを放り投げた。
「あ!」
慌てて稀葉が窓の前に立ち、手を伸ばすが無情にもノートは中庭の地面に落ちていく。
「喉が渇いたな。ジュースでも飲みに行こうぜ」
まったく罪悪感のない様子で響輝は稀葉の腕をつかんでグイと引っ張る。
「やだ!」
「いいから来いよ。たたかれたいのか!」
響輝が声を荒げると稀葉はさすがに怖くなり、押し黙った。
普段、可愛がられることしか経験のなかった稀葉にとって、響輝の存在はまさに異例であり、同時に恐怖の対象ともなりえた。
一緒にいたくない。心から稀葉が逃げ出したいと願っていた時、思いがけず救いの人物が現れた。
「響輝ちゃん。池内先生がいらっしゃってくださったのよ。ご挨拶するからちょっとお母さんと一緒にいらっしゃい」
響輝の母親と秘書が響輝を捜しにやってくる。
「はい、わかりました。池内先生にお会いできるの楽しみだなあ」
響輝は優等生のような素直な返事をし、あっさり稀葉を離す。
「本当に響輝ちゃんはおりこうね」
響輝の母親は稀葉に「ここで待っててね」と告げて響輝を連れて立ち去っていく。
助かった。稀葉は響輝がいなくなると心底ほっと胸をなでおろす。
それからノートのことを思い出し、急いで中庭へ向かう。
中庭に稀葉が一人でやってきた。
「あれ、ない!」
窓の下に落ちているはずのノートが見当たらず、焦る。
「これ、探してる?」
背後から聞き覚えのない声がして振り返る。そして思わずハッと息を呑んだ。
いつも中庭のベンチに佇んでいる少年が稀葉のノートを持って立っていたからだ。
驚きのあまりその場に固まってしまっている稀葉を少年は訝しそうに見ている。
「違う?」
「う、ううん! 私のだよ!」
稀葉は何度も大きく頷いて見せる。
「はい」
少年は稀葉に向かってノートを差し出した。それを受け取り、稀葉は自分の胸に大事そうに抱え込む。
「ありがとう」
「別に。たまたま落ちてたのを拾っただけだし」
そう言って少年は稀葉の前から立ち去ろうとした。が、ふと何かを思い出したように彼女のノートを指さす。
「そういえば5ページ目の問題、間違ってるぞ」
「え!」
「きみ、3年生?」
「ううん。1年生」
「……その問題、3年で問く問題だろ」
「そうなの?」
稀葉はわかっていないが、英才教育と銘打ち、1年生の稀葉が習得すべき学習の範囲を超えた教育を家庭教師から施されている。
しかし稀葉自身の学習能力は年相応の発達レベルなので高度な学習にはついていけていない。だから無理矢理知識を詰め込もうとしてくる家庭教師と行う学習は嫌いだった。
「意味、わかって解いてる?」
「ううん……よく、わかんない」
「□に当てはまる数を求めるには、えーと、……こうしてこの文章の場面を図に表したり、文章通りに式を立てたりしてみるとわかりやすいよ」
そう言って少年は稀葉に問題の解き方を説明してくれる。
「すごい! 頭いいんだね」
稀葉がキラキラした眼差しを少年に向けると、彼は戸惑ったように首を傾げる。
「俺が今習ってるところだからわかるだけだよ。きみのほうがすごいじゃん。二個も学年が上の勉強をやってるんだからさ」
少年はそう言って優しく微笑んでくれた。
まるで夢の中にいるようだと稀葉は思った。
今まで陰から見ていることしかできなかった相手と、こうして話をしている。しかも褒めてくれた。
夢ならもう少しこのまま、楽しくて嬉しい気持ちに包まれていたい。そう稀葉は願ったが、これは現実だった。少年は「そろそろ行かないと」と呟くとあっさりと稀葉に背を向け去って行く。
「あ……!」
引き止めて、もっと話がしたい。せめて名前が知りたいと思った。
しかし声をかけることができなかった。ただ、去って行く少年の後姿を見送ることしかできず、稀葉は捨てられてしまった子犬のようにその場に呆然と立ち尽くす。
だから、その姿を2階の廊下の窓から響輝が見ていたことにも気づかなかった。
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