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25「真実の先の真実」-3-
さらにそれから数日が過ぎた。
腎移植手術を行った壮斉秀明の術後の経過も問題なく、相変わらず響輝は稀葉を自分の玩具のように連れまわす。
稀葉は中庭で会った少年を探したいのに、それを響輝が執拗に邪魔をした。彼女が隙を見てロビーに行こうとすると、腕をつかんで引き留める。病室の窓から中庭を覗こうとすることさえも禁止だと乱暴な命令をするのだ。
稀葉はさすがに嫌気がさして、父に響輝の我儘な振る舞いを伝えた。しかし父はこども同士の些細なじゃれ合いだと相手にしようとしない。それどころか、壮斉の機嫌を損ねないようにと釘を刺してきた。
どうやら、壮斉は腎移植に対する便宜を図ってもらった謝礼として、病院に最新鋭の医療機器をたくさん導入してもらったらしかった。
父を頼ることはできないと稀葉は幼心に悟った。
そして運命の日は訪れる。
その日は前日の夜、嵐のような豪風雨だった。清掃員たちが病院の玄関前や庭に散らばった落ち葉やゴミなどを拾い集めてくれている。
中庭のベンチも雨水で濡れてしまっており、誰もいない。
「惨めだよなー。ごみ拾いが仕事なんだぜ。ああいう奴らって生きてる意味あんのかな」
響輝が侮蔑した言葉を吐き捨てる。それからベンチを食い入るように見ている稀葉の髪をグイと引っ張った。
「痛い!」
「いつまでも貧乏人の息子探してんじゃねーよ。あいつは俺がじいちゃんに頼んで出禁にしてもらったから、もう病院に入ることすらできないぜ」
「え?」
稀葉が怪訝そうに響輝を見ると、彼は薄気味悪い笑みを浮かべる。
「なんか、もともと自分の父親の面会すらできなくて、惨めったらしく中庭をうろうろしてたんだってさ」
「あの子のこと知ってるの?」
「お前があいつに興味ありそうだから、調べてやったよ。そしたら、治療費もまともに払えずにモルモットにされてる患者の息子だって言うから、笑っちゃったよ。俺は貧乏人に生まれなくてホント良かった」
「モルモット?」
稀葉は響輝の言っている意味がよくわからなかったが、あの少年のことを馬鹿にしているということだけはわかった。
「こい、お前に現実ってものを教えてやる」
腕を乱暴につかまれ、引っ張られる。
連れて来られたのは4階病棟だった。稀葉がよく遊びに来る病棟である。
とある病室の前で響輝は立ち止まり、閉じられたドアを勝手に開けて中へ入って行く。
そこには点滴につながれ、ベッドに横たわる一人の患者がいた。ベッドネームに名前は書いてあったが、漢字なので稀葉には読めない。
患者は父よりも少し若いくらいの成人男性だ。目は閉じられており、かなりやつれている。
どことなく、優しそうな面差しがあの少年に似ている。
「この部屋狭いだろ? じいちゃんのいる病室の半分もないんじゃないか? さすが貧乏人の病室だよな。お金がないと、こんなに扱いに差が出るんだな」
響輝は室内を見回しながら言い、筒形の機械に注射器が入っている医療機器に目を付けた。
「お。生意気にじいちゃんと同じような機械つけてんじゃん」
そう言って機械に手を伸ばし、点滅しているボタンを押す。
『ピ、ピ、ピ……』
電子音が鳴り響輝はやや興奮したように笑う。それから『早送り』と書かれたボタンを連打する。
『ピピッ!ピピッ!』
注射器の中の薬液がどんどん減っていく。
「はは。おもしれーな。よく医者とか看護師が小難しそうな顔してやってるけど、簡単じゃん」
「やめなよ! そういうのいじると、注射器のお化けが出るよ!」
「はあ? バッカじゃねーの?」
「パパたちに見つかったら怒られるよ!」
稀葉は響輝の腕をつかんで引っ張る。その怯えたような態度に響輝はムッとなったのか乱暴に稀葉を突き飛ばす。稀葉は床に倒れた。
「あれだ。こんなちまちま注射入れてるからいつまでも病気治んないんだよ。俺が治してやる。そうすれば退院できて、あいつもここに来る理由がなくなるしな」
そういって機械から注射器を取り出し、ためらうことなく薬液の入った注射筒に向かって注射桿を勢いよく押してしまう。
稀葉が止めようと慌てて響輝に飛びつき、二人は床に倒れる。同時に注射器も落ちた。その中身はすでにほぼ空になっていた。
少しして生体モニターから異常なアラーム音がして二人は音のしたほうを振り返る。
「うぅ……! くうぅぅぅぅ……!」
突然、ベッドに横たわっていた患者が苦しそうに悶えはじめた。そしてパタと動かなくなった。
稀葉が患者の顔を覗き込む。呼吸をしていないのが分かった。稀葉は急いで近くにあったナースコールを押した。
「あ? この機械、壊れたのかよ! うるさいな!」
響輝はアラームが鳴り続ける生体モニターを乱暴に蹴る。そして稀葉を睨みつけた。
「あー面倒なことになった! 俺は知らないからな! 全部おまえがやったんだ! 迷惑だからもう俺に関わるなよ!」
吐き捨てるように言い、病室から駆け足で出て行く。
それから、白衣姿の口髭を生やした男性が駆け込んできた。たまに稀葉と遊んでくれる寺代という医者だ。
「羽村さん! 羽村さん!」
「心肺停止だと……! バカな!」
すぐ後からやってきた別の医者も見覚えがあった。壮斉秀明を担当している飯田兄弟の兄のほうだ。彼はただちに心臓マッサージを開始する。
ガタガタ震えながら、半ば無意識に稀葉は機械のボタンを押している。その姿を見た達人が、ものすごい形相で睨みつけてきた。
「おまえ! 自分が何をしたのか、わかってるのか!」
「!……」
稀葉は恐怖のあまりとっさに言葉が出ず、思わず病室から飛び出してしまう。
謝らないと。響輝を探し出して、彼と一緒にしてしまったことを正直に告げなければ。
稀葉は必死に響輝を探した。
「稀葉ちゃん!」
寺代が後を追ってきて非常階段の手前で肩を掴まれた。
「やだ!」
「稀葉ちゃん、落ち着くんだ!」
「離して! やだやだ!」
稀葉は手足をバタバタさせて必死に抵抗する。
本気で抵抗するこどもの力は意外と強い。勢いがつきすぎて、バランスが崩れた。真っ逆さまに背中から階段に向かって転落しそうになる。
「危ない!」
手首をつかまれ、引き寄せられる。そのまま寺代の胸に抱かれたが、恐怖心が抜けきれない稀葉は、さらに抵抗した。
そして彼に抱きしめられたまま、階段から転落したのだ。
気が付いた時、稀葉は自宅の自分のベッドにいた。
なぜか体があちこち痛む。父や使用人たちが、心配そうに次々と声をかけてくれるが、なぜこんなにあちこち体が痛いのか覚えておらず、そのことを告げると周囲は目に見えて絶句していた。
大学病院で診察を受けたが、その結果を父は教えてくれなかった。ただ、悪い病気にかかっているわけではなく、今後の日常生活には全く支障がないので安心するようにと言われた。
たしかに、体の痛みはすぐに消えて普段通りの生活ができるようになった。
これまでと変わらない。父は仕事が忙しいのか、あまり構ってくれなくなったが使用人たちは皆優しくしてくれるし、以前は難しくて逃げ出したいと思っていた家庭教師との勉強も稀葉の知的レベルに合った勉強法に切り替えてくれたらしく、苦ではなくなっていた。
皆、とても自分を可愛がってくれた。愛されていることを実感していた。
何か、忘れているような気がするが、思い出そうとすると激しい耳鳴りと共に頭痛がして夜眠れなくなる。それが怖くて、思い出そうとすることをやめた。
それから2年が経過した。
稀葉は小学3年生になっていた。
「うーん……」
小学校で出された宿題を自室で行っていた時、使用人が稀葉を呼びにきた。
応接室で父が待っているらしい。
稀葉はすぐに父の待つ応接室へ向かった。
そこにいたのは、父だけではなかった。
見知らぬ女の人と、見知らぬ少年がいた。
「稀葉、この人はこれから稀葉の母親になる人だ」
「え?」
稀葉は驚いて父を見上げる。
「そしてこの子は、おまえの兄になってくれる子だよ」
「……」
稀葉は少年と目が合う。
(わ。かっこいいな)
一目見て稀葉は少年のことを気に入った。
少年は愛想笑いをするわけでも、不満げな態度をとるわけでもなく、ただ無関心そうに稀葉を見ている。
「稀葉です。よろしくお願いします。ママ、お兄ちゃん」
可愛らしい笑みを浮かべる。それからこどもらしくない恭しいお辞儀をして羽村親子を迎え入れたのである。
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