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26「嵐の夜が過ぎ、外科医は去った」-1-
厚い雲が天を覆い、今にも泣きだしそうな空模様の夜だった。
桧羽外科病院の一般外来玄関の照明はすでに落とされ、時折思い出したように木々の葉が風に揺られ音を立てた。第二次救急指定病院に認定されているため、普段なら患者が救急搬送されてくるが、今日に限っては救急外来玄関前でさえも静寂に徹している。
一見すると、束の間の穏やかな夜を迎えているように見える。
しかし中では――。
誘導灯にかかれているピクトグラムとフットライトの明かりだけが照らす薄暗い廊下を飯田龍平がかけていく。
彼は415号室とかかれた病室のドアを開けた。
「先生!」
中にいた看護師が緊張した面持ちで龍平に声をかけ、生体モニター画面を指差す。ベッドに横たわっている羽村修司さんの心拍モニターが映し出されていた。
「SSS(洞不全症候群)……いつから?」
「最初に出現したのは20分前です。その前に、なんだか息苦しいという訴えがありました」
「3秒以上のポーズは?」
「4.2秒を確認しました」
看護師は心臓の波形がプリントアウトされた用紙を龍平に渡す。
「4.2……! そんなばかな! 心疾患の既往はないはずだ」
龍平は悲鳴に近い声をあげ、ベッドサイドに立つ。それからすぐに羽村さんの右手をとり、脈拍を確認したあと、頸動脈の拍動を確認した。
が、どちらも拍動はない。
羽村さんは顔面蒼白であり、今にも停止してしまいそうな弱弱しい呼吸をようやく繰り返している。
「QT延長の原因は、プロポフォールの副作用に間違いない。十二誘導! それから超音波準備」
「はい」
不整脈が出現した羽村さんは活気が無くグッタリしている。看護師は羽村さんの胸部に心電図の電極を取り付ける。
「末梢ライン確保してくれ」
龍平は心電図に目をやったまま看護師に向かって言った。
「先生、CVラインはありますが同時ラインではまずいのでしょうか」
すでに左内首には点滴針がさしてあり、24時間管理で補液が行われている。
「そのラインとは別でとってくれ。確実に抗コリン薬を流して心拍数を上げる必要がある」
「わかりました」
言われたとおり、看護師は左腕に留置針を刺してラインを確保する。
すぐに龍平は薬剤を注入する。
10秒……20秒と秒刻みで心電図の波形が変化していく。
「先生、心拍が正常に戻りました。正常同調律です!」
モニター画面を見ながら看護師が嬉々と言った。薬剤の効果があったらしい。
龍平もホッとしたように顔を見合わせる。
緊迫していた室内が少しだけ緩やかな空気になった。
すると当然、外から風と大雨が窓を打ち付ける。まるで、油断するなと警告してきたかのように。
「わあ、すごい雨。台風の季節でもないのに、台風が来たみたい」
看護師の一人がカーテンを開け外の様子を眺め、呟いた。
「うっ……!」
呻き声に、看護師は慌てて振り返る。ようやく落ち着いたと思われた羽村さんの容体が急変したのだと思ったからだ。しかし、彼は静かに口を閉ざしている。
「先生!?」
苦しそうに呻いたのは患者ではなく、治療を施した龍平だった。彼は息苦しそうに肩で息をしながら 壁にもたれかかってしまう。
「先生、大丈夫ですか!」
「なんでもない。ごめん」
龍平は青ざめた表情のまま笑顔を繕い、胸をさする。
次の瞬間、正常なリズムを刻んでいたはずのモニター音が再びリズムを乱し、アラームが鳴り出す。
「先生! また不整脈が出現しました!」
「リドカインを持続注入する。シリンジポンプ準備!」
医師は救急カートの引き出しを開け、中から点滴のボトルを取り出す。
看護師は息苦しそうな龍平を不安そうに見つめるが、今は患者さんの治療を第一に優先すべきだと思い、彼に指示されるまま薬液を詰めた注射器をシリンジポンプの機械へ繋いだ。
+++++
「なんだこの不整脈は……? ショートランが頻発したかと思ったら突然徐脈になる。正常に戻ったかと思ったら今度は頻脈か……」
急変の報告を受けた達人が病室を訪れた。
心停止という最悪な事態は免れたが、予断を許さない状況であることには変わりない。彼は生体モニターを見ながら呟き、それから室内にいた看護師を下がらせた。
「リドカインも効果がありませんでした。もう、通常の抗不整脈薬が効きません。ニフェカラント塩酸塩を選択します」
龍平が告げるが、達人は生体モニターを見たまま、さほど興味なさそうに腕を組んで聞き返した。
「その薬剤は循内の医者の承認が必要じゃなかったか……?」
「そうですね。あれは慎重投与しないとVT(心室頻拍)になる。VTならまだしもVF(心室細動)に移行する危険がある薬剤です。致死的不整脈治療の十分な経験のある医師しか実施できない」
「まあ、いい。寺代に睨まれた以上、どうせもうAI手術も行えない。手術もできない患者など外科には不要だ。適当な理由をつけて内科にでもくれてやればいい」
達人は苦々しく言い捨て、ようやくモニターから目を離して龍平のほうを振り返る。
そして愕然となった。
龍平が椅子に腰掛け、肩で呼吸をしていたのが目に入ったからだ。よほど苦しいのか、額からは汗がにじみでている。
「龍平……? おまえ、どうした!」
急いでかけより、龍平の肩をつかむ。
「兄さん、いえ……飯田先生、お願いがあります。このまま、外科で治療の継続を……! 羽村さんを……救ってください。羽村さんには、大切な家族がいるんです」
「家族……?」
達人は思わず嫌悪感を顕わにして首を振る。
家族という言葉は、達人がもっとも嫌う言葉だった。
なぜなら、達人と龍平は親の愛情を全く受けていないから。二人の父親はそれぞれ別々だということ以外、素性も行方も何もわからない。一緒に住んでいた母親は日常的に虐待を行っていた。特にまだ乳児だった龍平は、あと数分でも児童相談所の職員が訪問に来るのが遅れていたら、生きていなかったかもしれない。
だから家族という存在は、達人にとって憎むべき対象でしかない。
「この患者や家族のことは今はどうでもいい。それよりも龍平、おまえだ」
「すい臓がんです」
「……」
達人の顔色が目に見えて変わった。「誰の病名だ?」と聞き返すこともできなかった。
「今まで、麻薬で痛みを抑えてきました。ですが、そろそろ限界のようです。……痛みは一時的に引いても腫瘍はどんどん進行している。今はステージⅢからⅣの移行期でしょう」
そう説明する龍平の口調は淡々としていて、まるで他人の病状を説明しているかのようである。
「龍平が? まさか、龍平にかぎってそんな」
達人は龍平を睨みつけるかのように見つめ、言葉を続ける。
「いつ、知ったんだ……?」
「半年前です」
「なぜ黙っていた!」
怒りと悲しみの感情を露にして怒鳴る。
「ただちに治療を受けろ! 麻薬で痛みを抑えているといっているが、限界がある。おまえ、法外な麻薬の量を使用しているだろう!」
本来なら、普通に生活しているのも困難な状態だ。それなのに龍平は周りに病気のことを悟られることなく、医者としてハードな仕事をこなしていた。
おそらく龍平はどこかの薬品会社からかなりの量の麻薬を横流ししてもらっているのだろう。
「治療を受けても助かりません」
龍平は平然と言ってのける。達人はそんな龍平の表情を少しの間黙って見ていた。
やがて達人が放った言葉は、微かに震えていた。
「治療を受ける気は最初から、なかったんだな……」
絶望した表情で達人が龍平を見る。すると龍平はなぜか達人に向かって微笑み、小さく首を振ってみせた。
二人の会話は途切れたが、室内はモニターのアラーム音が鳴り響いている。機械が懸命に、羽村さんの心臓が危険であると知らせ続けているのだ。
そう、今は患者の治療を優先しなければならない。龍平の目がそう告げている。
「羽村さんの治療は俺が引き継ぐ。おまえは空いている部屋で休んでいろ。看護師に伝えておく」
達人は龍平の返答を聞かずに病室を後にする。龍平の返答を聞くのが怖かったのだ。
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