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26「嵐の夜が過ぎ、外科医は去った」-2-
夜が明けた。
達人は羽村さんの病室でひとり、薬剤の投与を慎重に行っている。これは龍平が選択した最後の砦と思われる薬剤治療だ。効果が得られなければペースメーカーを検討しなければならないが、現在気胸が完治していない状態の羽村さんに施行するのは難しい。
新たにシリンジポンプをセットし、問題なく指示量の薬液が注入されているのを確認する。
効果は夜明けとともに徐々に現れた。
不規則に波を打っていた心臓の波形が、正常な形に変化してきたのだ。
(さすが龍平だな……)
達人は安堵する。外科的な手技に関してはもちろん自信があるが、内科的な治療に関してはやはり緊急時の取捨選択に迷いが生じる。そのことを隠すために、過剰なまでに内科を敵視しているのかもしれないと今更ながら自分で気づく。
あと少し経過を見て、問題なさそうなら担当看護師にこの場を任せていいだろう。
達人は何より龍平の容体が気になっていた。あの様子では、恐らく意識を保っていられるのも時間の問題だ。
今、ここで龍平を失うわけにはいかない。弟がいなければ、自分の今の立場も危うくなる。自分は龍平のお情けでここまで上りつめることができたようなものなのだから。
達人と龍平は児童養護施設に預けられ、そこで育てられた。虐待を繰り返す母親には養育能力がないと判断されたのだ。
二人が育った施設。それが、狗飼一族が関わる養護施設だった。
そこで狗飼昴は龍平が瞬間記憶能力の持ち主だと気付く。龍平は本をパラパラとめくっただけで内容を一字一句正確に記憶できてしまうのだ。その才能を埋もれさせないよう、昴は飯田兄弟にきちんとした教育を施すことにした。いずれは龍平を自分の後継者として迎え入れたいと考えていた。
そう。龍平はいつのまにか達人だけでなく、昴をはじめとする桧羽外科病院の未来を左右する存在になっていた。
しかし、狗飼家の一員になることを龍平自身は望んでいなかった。家族という存在を達人が忌み嫌う一方で、龍平は自分自身の手で家族を作っていくという未来に憧れを抱いていたのだ。
だから龍平は医大生の時、当時の恋人と今すぐに結婚したいと強く望んだことがあった。誰の説得も、時には脅迫すらもまったく受け入れない龍平に対し、彼女のほうは龍平の未来を潰すなと周囲に説得され、最後は龍平の前から黙って姿を消した。
彼女がいなくなってから、龍平は怒りや悲しみといった感情の一部を失ってしまったようだった。ひたすら明るく周囲に振る舞い、医者としての責務を全うする。その姿は龍平のことを良く知らない周囲の人々からすれば、明るくて良い医者であると好印象を持たれたが、達人や昴、そして医大の先輩である藤沢から見れば、不自然極まりない人形のように見える時もあった。
それでも、龍平が持つ天才的な知識と技術はこの病院の発展にどうしても必要だった。
おそらく龍平は……自分がすい臓がんだと知った時、すべてをあきらめたのだろう。
家庭を持つことも、生きることも。
だから、絶対に周囲には病気のことを悟られないよう、徹底して普段通りの生活を送っていた。
「白百合と一緒にさせてやればよかったのか……?」
達人はつぶやく。白百合とは、かつての龍平の恋人の名である。今となっては、もうどうにもならない。どこにいるのかもわからないのだ。会わせてやることもできない。
「せん……せい?」
ふいに声をかけられ、達人はハッと顔を上げる。
羽村さんが覚醒していた。
「ああ。気が付かれましたか」
達人はなるべく動揺を悟られないよう、点滴を確認するフリをしながら返答する。
「なんだか……歩佳や遥一と海に行っている夢を見ていました」
「海……?」
今は12月だ。ずいぶん季節外れな夢だと達人は思ったが、夢とは記憶の整理と言われている。そういうものなのかもしれない。
「……毎年、夏休みに海へ行っていたんです。でも、去年と今年は行けなくて……」
「来年は行けますよ」
達人がそう答えると、羽村さんは少し意外そうにゆっくりと瞬きをする。
これまで達人は非情な態度しか見せて来なかったのだ。羽村さんが意外に思うのも無理はなかった。
「ありがとうございます……。先生にそう言っていただけると希望が……持てます」
「……」
「あの……遥一の具合は……?」
「え……?」
「風邪をひいてるから……面会に来られないと……妻がそう言っていたものですから……。三野先生が、ちゃんと遥一を診てくれてるから、心配ないとは言ってたんですが……」
「あ、ああ……そうですね」
達人は、妻以外の面会をまだ許していないことを忘れていた。しばらく息子とも会えていないのだろう。妻は息子が面会できない理由をうまく誤魔化して説明していたのか。
「きっと元気になった頃だと思うので、面会を許可できると思います」
「そうですか。元気になってくれてよかった。遥一に、会えるのか……!」
羽村さんは声を潤ませていた。よほど息子に会いたかったのだろう。
どうしてこんなふうに、自分と龍平は親に愛情を与えてもらえなかったのか。
達人は小さく首を振る。今更、自分の親を他人の親と比べてもどうにもならない。そして同時に思った。龍平は、おそらく羽村さん一家のような家庭を白百合と築きたかったのだろうと。
モニターの心拍数が90台から一気に60台に落ちた。
しかし達人は慌てることなく、ベッドに横たわる羽村さんへ視線を移す。
羽村さんが再び眠りについた証拠だ。個人差はあるが、人は眠ると心拍数が60台前後に安定することが多い。
寝顔は穏やかだ。安心したのだろう。
「失礼します」
看護師が病室へやってきたので、達人はシリンジポンプの内容と指示量を看護師に口頭で申し送る。
今のところ不整脈はでていないが、油断はできない。もう少し羽村さんに付き添ってモニタリングを行う必要がある。その役目を看護師に託し、いったん自分は龍平のもとへ行こうと病室のドアへ足を向けた。
その時だった。廊下から病室に向かって慌ただしい様子でかけてくる看護師の姿が目に入り、達人は嫌な予感を覚えた。
「龍平先生が院長室で倒れたそうです! 今、ICUに運ばれました!」
「龍平が……!? なぜ、院長室に行かせたんだ!」
看護師が行かせたわけではないのはわかっている。龍平が、自分の意思で院長に会いにいったのだろう。おそらく、羽村さんの心不全の経過を報告するために。
達人は急いでICUへ向かった。
呼びにきた看護師だけでなく、羽村さんを担当すべき看護師も思わず自分の役割を忘れ、ICUへ向かってしまう。
病室は羽村さんを残し、誰もいなくなってしまう。
それから数分後――
響輝と稀葉が、羽村さんの病室の前にやってきた。
響輝がそっとドアを開け、中をのぞく。中に医者も看護師もいないことを確認すると、得意げにドアを全開させて勝手に中へ入って行く。
そして、悲劇は起きた。
龍平がそれこそ命がけで守った羽村修司さんの命は、病室にやってきたこどものいたずらによって実にあっけなく奪われてしまった――。
+++++
龍平もその二週間後、ほとんど意識が戻らない状態のまま、達人や病院のスタッフたちに見守られながら息を引き取った。
この病院、いや、狗飼昴が欲していたのは飯田龍平という天才だけだ。彼がいなくなってしまった以上、達人は大人しくここを去るしかなかった。
病院を去る際、達人は最後に羽村さんと話した会話を思い出していた。
『……毎年、夏休みに海へ行っていたんです』
『元気になってくれてよかった。遥一に、会えるのか……!』
せめてあのこどもに、父親が最後まで息子を気にかけていたことを伝えてやりたいと、思った。
だが――
今の達人には、とても羽村遥一と向き合う勇気はなかった。
(あのこどもはこの先ずっと、俺を恨んで生きていくのだろう……)
憎しみを向けられたまま、この先ひとりで生きていくことを決意し、病院を後にした。
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